#4731/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:36 (188)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【55】 悠歩
★内容
「私の娘が、ここにいるはずなのです。お願いします、会わせて下さい」
ファルネッタが両膝を落とすのを見て、老伯爵は思わず手を伸ばし掛けた。だ
が止める間もなくファルネッタは完全に、デニスへと跪く恰好になる。
老伯爵は高い地位にありながら、身分に対する貴賤は持たない。しかしそれで
も生まれながらの貴族であった。彼にとり、主君の血筋であるファルネッタが身
分のない者へ跪く姿は痛々しく、見ることも辛い。それにも関わらず、相変わら
ずの無表情さでデニスはファルネッタを見下ろしていた。
「この方は、君の描いた絵をご覧になられたのだ。そして、そのモデルの少女が
ご息女かも知れないと仰せられ、ここまで足を運んで来られた。会わせてやって
欲しい」
抑えてはいたが、老伯爵の声に混じった怒気は隠しきれない。画商を含めた回
りの者たちがその声に焦りの表情を浮かべる中で、デニスだけは変わらない。
「何かの間違いだよ、伯爵さま。ここにそんな子はいない」
先ほどからデニスの表情に変化はない。けれど老伯爵には、デニスが嘲り笑っ
たよう見えてしまった。
「いいかげんにしなさい! このお方は、王女ファルネッタさまであらせられる
のだぞ」
明かすつもりはなかった。出来ればファルネッタの身分は隠したままでおきた
かったが、怒りのあまりにとうとう口にしてしまった。
だが自分の前に跪いた女性を王女と知っても、デニスの反応は同じであった。
「誰だろうと一緒さ。ここにそんな子はいない………帰ってくれ」
デニスの態度は、温厚な老伯爵の限界をも超えさせる。
「入らせてもらうよ」
強引にドアを開かせると、立ちふさがるデニスを押し退けて部屋に入り込む。
だがさして力を入れたつもりはない。邪魔になるデニスの身体を、軽く押し遣っ
ただけであった。
ところが老伯爵には思いもよらぬほど、デニスは大きくよろめく。ようやく二
本の足で立ち上がれるようになったばかりの幼子でも、これほど派手によろめき
はしないだろうというほどに。どすっ、と鈍い音とともに尻を落とすと、糸の切
れたマリオネットのように動かなくなってしまった。老伯爵の後から部屋に入っ
た子どもたちが、デニスへと駆け寄る。彼を気遣い、手を差し伸べる者もいたが、
デニスはそれさえも無視し続けた。
そんなデニスを訝しく思う老伯爵だったが、長く関心を留めることはしない。
いまはデニスのことより、ファルネッタの子であるかも知れない少女を確認する
ことが先だ。
ほとんど何もない部屋。老伯爵もその地位にそぐわず、貴族としては質素な生
活をしていたが、その目から見てもこの部屋の生活感の薄さには、背筋が冷え冷
えとする思いであった。
小さなテーブルが一つ。その奥には質素なベッド。ベッドに腰を下ろした少女
がいる。その腕に小さな女の子を抱いて。
「君は………ええっと、マリィといったね?」
相手の返事を待つ老伯爵の耳に、かすかな声が聞こえてきた。どうやらそれは
マリィの口から発せされているようだ。けれど老伯爵の問い掛けに答えたもので
はない。よく聞くと、何か歌をハミングしている。子守歌のようだ。
「ミス・マリィ?」
もう一度問い掛けてみると、ハミングが止んだ。
「お願い、静かにして………この子、疲れて眠ったばかりなの」
射し込む夕陽を背にしていたため、その表情は窺い知れない。ただその穏やか
な話口調は、以前街角で会った時と比べても遙かに大人びて感じられる。
「お騒がせして申し訳ないのだが、私とデニス君の話は、君にも聞こえたと思う。
どうかその子の顔を、このお方に見せてやって欲しい」
老伯爵の言葉を受け、ファルネッタが歩み出す。先刻つい、老伯爵が名を明か
してしまったため、他の子どもたちは畏怖のこもった視線をファルネッタへ集め
ていた。
貧しく辛い生活を強いられ、国や貴族たちに深い憎しみを持つ者も少なくはな
かったろう。けれどこの国に生まれた以上、国王やその血筋に対しての畏敬を捨
てることは難しい。だがデニスばかりか、マリィもまたそれを容易く捨ててしま
う。
「寄らないで!」
瞬間、その場に居合わせた者全てが身を竦ませる。
見た目にはまだ幼さの残る、十代半ばに達したかどうかの華奢な少女。それが
まるで食事の邪魔をされた猛獣のような、激しい声を上げたのだ。
「私のルウに、近寄らないで」
一転、今度は切なさそうな声。腕に抱いた幼い少女を、愛おしそうに胸の中へ
包み込む。食事の邪魔をされた猛獣という表現は、訂正しなければならない。マ
リィの見せた激しさは、我が子をあらゆる危険から守ろうとする母の愛情に他な
らない。その警告を無視して強引に近寄れば、マリィは自分の身を犠牲にしてで
も少女に触れることを阻止するであろう。
「マリィさん、お願いです。アウストラック伯が仰られたように、その子は生き
別れになった私の子かも知れないのです。どうかその顔を、確かめさせて下さい」
同じ母性を持つ者として、ファルネッタもマリィの気持ちを察したのだろう。
自分も一刻も早くその子が娘であることを確認し、抱きしめてやりたい。そん
な気持ちを抑え、マリィから距離を置いて懇願をした。
「だめよ。この子は私のルウなの、他の誰でもないわ」
紅く室内を染め上げていた陽も、その勢力を失いつつある。だが夜の帳が支配
する時間までは、まだ少し猶予が残されていた。
薄青い部屋の暗さに慣れ始めた目は、マリィの表情を捉える。ファルネッタへ
と冷たく言葉を放った顔に激しさはない。けれど言葉通りの冷酷さもない。
まるで山頂に人知れず存在する湖。風も吹かず、波一つ立たたない湖面のよう
に静かな表情だった。
老伯爵はようやく気づいた。
この室内を支配する空気の色に。暮れ行く陽に同調するがごとく、重く暗く染
められた空気。それは目に映るそのままの色ではない。デニスとマリィと、そし
てその胸に眠る少女からにじみ出た色であることに。
「どうしていまごろ………」
誰に向けてか定かではない。少女に頬をすり寄せながら、マリィが言う。その
前に位置を取っていたファルネッタは、当然自分に向けられた言葉として受け取
った。
「私もライア………娘のことを忘れた日はありません。生きているのだろうか、
お腹をすかせてはいなだろうか、辛い目に遭ってはいないだろうかと、夜も眠れ
ず案じていました」
マリィが立ち上がる。そして少女を抱いたまま、ゆっくりと歩き出す。
ファルネッタは少女を手渡してくれるものと期待したようだ。瞳に喜びの色を
浮かべ、両手を差し伸べた。が、そんなファルネッタの横を、マリィは素通りし
てしまう。
「ファルネッタさまにも事情がおありだったのだ。お気持ちを、汲んでやって欲
しい」
マリィの行く手を遮り、老伯爵は言う。
その老伯爵を見上げるマリィは、穏やかに微笑んだ。
「やっぱり伯爵さまも、他の貴族の方々と一緒なんですね」
決して責め立てる口調ではなかったが、自分が強く非難されているのだと老伯
爵は察する。だが具体的に、マリィは何を非難しているのかまで、理解すること
は出来なかった。
老伯爵に遮られたため、マリィは再びファルネッタへと向き直ることとなった。
「ファルネッタさま………あなたがもし、本当にお嬢様の思っておられるなら、
どうしていままで何もしなかったのですか? 心配するだけなら親でなくても出
来ます。愛していたのなら………なんでいまごろ………もっと早くに、抱きしめ
てやらなかったの………」
「それは………」
「いいわけしないで!」
初めて部屋の空気が動いた。
マリィの叫びは、まるで稲妻が走ったかのようにその場の人々を打つ。ファル
ネッタは凍りつき、石像のように固まってしまった。
「マリィくん」
もう一度向きを変えたマリィを止めようとした老伯爵。だが止めることは出来
なかった。それどころか、自ら身体を横へと避け、マリィのための道を空けてし
まう。
老伯爵は知ったのだ。
見えてしまったのだ。
振り返った瞬間、マリィに抱かれていた少女の寝顔を。
過ぎるほどに静かな寝顔。寝息を立てている様子もない。呼吸のために、腹部
が上下することもない。
実際に触れてみなければ、確認は出来ない。少女が目覚めることのない、深い
眠りに入ってしまったとは。
しかし確認するため、触れることは躊躇われた。
マリィと少女の寝顔の静かさに、神々しささえ感じてしまったのだ。
「お忘れ下さい、伯爵さま。ファルネッタさま。ここにライアさまなんて、いな
かったんです。この子は、ルウ………私の大切なルウ………」
背中を見せたままのマリィ。腕の中の少女を、強く抱き直す。その拍子で、少
女の片手がこぼれ落ちた。
マリィの胸からこぼれた腕が垂れ下がる。それを支えようとも、戻そうとも、
手の持ち主の力は働かない。
「行こう、デニス………」
座り込んだまま、死んだようになっていたデニスが、マリィの声に応えのろの
ろと動き出した。
「どこに?」
「ゆうべ言ったよね、スラムを出ようって。いまから、スラムを出るの」
マリィへと歩み寄ったデニスは、こぼれ落ちた少女の腕を、胸の中へと戻す。
満足そうに微笑み、マリィは歩き出す。
「お前らも、行くか?」
他の子どもたちへと、デニスが呼び掛けた。けれどみんなは顔を見合わせるだ
けで、何も答えない。答えられないのだろう。
「そうか………残念だな」
それだけ言うと、デニスは先を行くマリィに追いつこうと、駆け出した。
老伯爵たちはしばらく、二人の消えて行ったドアを呆然と見送るだけだった。
「待ちたまえ、デニス君」
最初に我へ帰り、その後を追ったのは画商だった。それにつられるように老伯
爵やファルネッタ、子どもたちも続く。
「デニス君」
次に老伯爵たちが見た二人の背中は、アパートの外へと達していた。
追い掛けるために走った距離はそれほどでもないのに、太った身体には激しい
運動となったらしい。息を切らせた画商が呼び掛ける。
青は黒と変わる。辺りはすでに夜の闇の支配下に落ちつつあった。荒れ果てた
スラムのアスファルト面を覆うのは白い雪。白と黒、世界は二色のコントラスト
によって区切られていた。
その境を行く、デニスとマリィ。画商の呼びかけに応じ、足を止める。だが振
り返りはしなかった。
「君の絵は、ライバルト・デトリック賞の名に充分値するものだ。断言は出来な
いが、きっと選ばれるはずだ………いや、選ばれなかったとしても私は個人的に
君を支援したい。芸術アカデミーで学ぶための資金を、全面的に援助しようでは
ないか」
歓声が湧き起こる。しかし歓声を上げたのは、とうのデニス本人ではない。周
りの子どもたちの声であった。
「デニス!」
「すごいよ、デニス」
仲間たちの声を受けてもデニスは振り返らない。それどころか、再び歩き出し
てしまった。
「なぜだねデニス君? 君は画家を志していたのではないかね? 我が国でも一
二を争う画商であるポリッシュさんが、ここまで言ってくれたのだよ。君の画家
としての将来が、約束されようというのに」
「伯爵さま………」
デニスと老伯爵たちの距離は、もう随分と開いてしまった。朧気にしか見えな
いデニスが振り向いたようにも思えたが、はっきりはしない。ただその声だけが
聞こえてくる。
「俺は画家になりたいと思っていた………でも、それは………いや、もういいん
です」
「なぜだ! なぜなんだね!?」
答えは返らなかった。デニスとマリィの姿は闇の中へ溶け込んで行く。完全に
見えなくなってしまうまで、あといくらも時間は掛からないだろう。
このまま見失う訳には行かない。そう考え、老伯爵は走り出した。けれどアパ
ートから五メートルと進まず、立ち止まる。老伯爵以外、誰もデニスたちを追お
うとはしないことに気がついて。
「皆、このまま二人を行かせていいのかね?」
「…………」
「ファルネッタさま?」
誰も答えなかった。ただ悲しげに首を振ったファルネッタが、気力を失ってし
まったのだろう。その身体を崩れるように沈ませた。咄嗟に画商と御者に支えら
れ、倒れ込むことだけは避けられたが。