AWC Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【44】 悠歩


        
#4720/5495 長編
★タイトル (RAD     )  98/12/24   0:30  (199)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【44】 悠歩
★内容
 男はアルベルトの使用人であった。
 あの日、男はアルベルトとともに、スラムへ足を踏み入れた。途中、主を捨て
て逃げ出してしまったとき、男は職を失うものと覚悟を決めた。あのままアルベ
ルトが殺されてしまえば当然のこと、生きて戻ってきても執念深い主のことだ。
逃げ出した男を許しはしないだろう。
 案の定、アルベルトは無事帰ってきたものの、男を激しく叱責して来た。
 その時だ。ある考えが男の頭に浮かんだのは。
 男はアルベルトがスラムを訪れた理由を知っている。ライバルと目される男、
デニスとかという絵描きを潰すため、スラムの顔役であるボルドに会ったのだ。
 もし男がこのことを伯爵や画商に話せば、アルベルトの身は破滅する。アルベ
ルトは秘密を知る男を、蔑ろにすることは出来ないのだ。
 それを男が言った時のアルベルトの顔ときたら。いま思い出しても笑えるほど、
滑稽な表情で狼狽えていたものだ。それから口止め料として、男が予想していた
以上の額が手渡されたのだ。
「まったく、あのボンボンにしちゃあ、奮発してくれたもんだぜ」
 あのたった一回で、男は半年分を越える報酬を得た。上機嫌にもなろう。
 しかし人間の欲に、際限などない。せっかくの金蔓、これきりにする気など毛
頭ありはしない。これからは当分、いや一生お金の心配はいらない。そう考える
と、笑いも止まらなくなる。
「おいおい、どうした兄さん。こんなところに座り込んじまって。風邪を引くぜ」
 通りすがった誰かが声を掛けてくる。親切心のつもりだろうが、幸せな気分に
浸っていた男にとっては、余計なお世話であった。
「ほっといてくれよ。俺はいま、気分がいいんだからよお」
「けっ、そうかい、そりゃあ悪かったな。おおかた、てめえの雇い主の弱みをつ
かんで、強請りを掛けた、ってとこかい」
「なに!」
 単なる偶然とは思えない。通りすがり人間が、なぜそこまで知っているのかと、
男は驚いて顔を上げる。
「とうしたい? 俺の顔になにかついてるかい?」
 通りすがりの男は笑っていた。どこかで見た覚えのある顔だ。それもつい最近。
 男は目を細め、思い出そうと努める。そして思い出した。
「あっ、お前は、スラムの!」
「へへっ、思い出してくれたかい。嬉しいねぇ」
 それはスラムに入ったアルベルトと彼の前に突然現れた、ナイフを手にした男
だった。
「な、な、なんでお前がここに………」
「ちょいとね、仕事を言いつかっちまってさ」
 きらりと光るものが、男の目に映る。ナイフであった。スラムで出逢った時と
同じように、刃渡りの長いナイフが現れたのだ。
「し、仕事って………なんとかって野郎の絵を、じゃ、邪魔することだろう?」
「そいつは昨日終わらせちまったよ。実はな、あんたの旦那には、もう一つ仕事
を依頼されてたのさあ」
「そ、そ、そ、それって、ま、ま、まさか………」
「そうさ。役に立たない使用人を始末してくれってさ」
 ナイフが踊る。
 それが自分を狙ってであると察した男は、ナイフの軌跡も確認できぬままに身
体を捻った。その瞬間、鋭い痛みが右腕に走った。続いてその部分が熱くなり、
流れ出た赤い液体が白い雪の上に垂れ落ちる。
「か、勘弁してくれ………殺さないでくれ!」
 致命傷は避けられたが、男は腰を抜かしてしまい、立ち上がることさえ出来な
い。ただ相手に懇願する以外に術はなかった。
「気の毒によぉ。助けてやりたいのは、やまやまなんだけどなあ。ちゃんと仕事
をこなさないと、俺が叱られちまうんだよ」
 スラムの男は、ナイフに着いた血を嘗め取りながら言った。言葉とは裏腹に、
楽しそうに。
「そういう訳なんでさ。ま、諦めてくれや」
 大きく後方へナイフが引かれる。次の瞬間、渾身の力で突き出すために。
 命乞いは通じない。腰を抜かし、逃げることも適わない。けれど男には、生へ
の執着を捨てることも出来なかった。
「だ、誰か、誰か助けてくれっ!」
 大声で叫んだ。涙と鼻水で顔中を濡らしながら。だが、この雪の中、声がどこ
まで届いたのか分からない。
「無駄だよ。これでも俺はプロなんだぜ? この辺りには、誰もいないと確認し
てらあ」
 男にとっては絶望の意味しかない言葉が発せられた。
 もう駄目なのか。嫌だ、死にたくない。
 這いながらでも、男が逃げ出そうとした時であった。
「なんじゃい、騒々しいのお」
 第三者の声が確かに聞こえた。男にとって、生への希望をつなぐ微かな糸であ
る。
「誰だ!」
 男と、ナイフ男の双方が声の主を探し求めていた。
「うるさくて、おちおち寝てられんわい」
 もこ。
 建物と建物の隙間、路地の入り口で雪が盛り上がり始めた。しかしその雪も高
さに負け、崩れ落ちる。が、雪を盛り上げたものはそのまま立ち上がる。
 やがてそこに一人の老人が姿を現した。どうやら老人は、路地に潜り込んで寝
ていたらしい。そして吹き込む雪に、そのまま埋もれてしまったのだろう。見れ
ばその後ろには、老人の家財道具なのか、何やら正体不明のものを積み込んだ荷
車が、やはり雪を被っていた。
「おお、それにしても寒い。やはり雪の降る日に、外で寝るべきではなかったわ
い。危うく凍死するところじゃった」
 その場の緊張感にそぐわない、とぼけた調子で老人は言う。
「ふん、誰かと思えば、将軍のじじいか。貴様なんかにゃ、用はない。けがをし
たくなかったら、引っ込んでな」
 どうやらナイフ男と老人は顔見知りであるらしい。だがいまの言葉から、二人
が仲間であったり、親しい関係ではないと分かった。男は一縷の望みを託し、老
人に助けを乞う。
「た、頼む、じいさん、助けてくれ。こいつ、俺を殺そうとしてるんだ。れ、礼
はするから」
「礼? それは金のことかな」
「あ、ああ。いくらでも、好きなだけ払うから」
「ほう、それは剛気だな。ふむ」
 老人は少し考え込む様子を見せ、それから視線をナイフの男へ向けた。
「なるほど、お前はボルドのクソ野郎の手下か。どうやら今日は弱い者いじめで
はないらしいが」
 対峙する相手の持つナイフは、軍隊で使用されていてもおかしくはない、巨大
なものである。一突きで枯れ枝のような老人の身体など、斬り捨てられてしまい
そうだ。だが老人は臆することもなく、ナイフの男へと歩み寄って行った。
「バカがよぉ。おとなしく引っ込んでれば、見逃してやったんだが。まあ、一人
殺すも、二人殺すも、俺にとっちゃ同じだけどな」
 ナイフ男の口から、物騒な台詞が吐き出される。
 が、相変わらず老人はゆっくりとした足取りで進み続けていた。歩き方がどこ
かぎこちないないが、どうやら左足が悪いようだ。
 一体、どうして老人はナイフも恐れずに近寄って行けるのだろう。体格も特に
良い訳ではなく、むしろ老人としても痩せている方だ。ナイフなど使わなくても、
相手は片腕で簡単に始末出来そうなほどに頼りなく見える。あるいはボケていて、
冷静な判断力も恐怖心もなくなっているのかも知れない。
 いずれにしろ、これは好機であると男は判断した。
 どう都合良く考えたところで、老人がナイフ男に勝利するとは思えない。だが
例え簡単に決着がつくとしても、ナイフ男が老人を片づけるのに多少の時間は掛
かるだろう。上手くすれば、その隙に逃げおおせるかも知れない。
 そうと決まれば、ぐずぐずとはしていられない。分かり切った勝負の行方など
も、見届けている場合ではない。
 二人に気づかれぬよう、男はそっと後退を始める。仰向けで、腰も抜けたまま
なので思うようには行かない。進む度に行く手に積もった雪に身体が潜り、ただ
でさえ遅い速度を鈍らせる。しかも身体を引きずった跡が、雪の上にくっきりと
残されてしまい、これでは追跡者の作業を容易にさせてしまう。
 男は身体を捻り、俯せの形になった。進行方向が目視出来る分だけ、いくらか
この方が楽だからだ。二本の腕で身体を支え、力の入らない脚は情けなく雪を掻
くが役には立たない。まるでアザラシにでもなったかのような姿勢で、男は懸命
に前進を続けた。
 後方がにわかに騒がしくなる。
 ナイフ男と老人の対決が始まったのだろう。その時間は長くないはずだ。急が
なくては。男は焦り、腕を動かし、よちよちと進む。
 だが向きを変えてみたところで、積もった雪が障害になることは同じだった。
前方の雪を顎で掻き分けなくてはならず、口や鼻、時には目にまでそれが入り、
遅々として進まない。
 後方の喧噪は罵声から、身体を雪上に叩きつける音になり、やがて呻き声に変
わる。そろそろ決着となりそうだ。しかし男の目に映る風景は、まるで変化がな
い。気ばかりが焦る。
「おい、自分だけ逃げ出そうなんて、そりゃあ少々虫が良すぎやしないか?」
 ついに決着がついてしまったらしい。背後からの声に、男の心臓に痛みが走っ
た。それでも諦めず、男は雪を掻く。必死に掻く。
 しかしいくら足掻こうと、それは一回に数センチの単位でしか距離を稼がない。
 雪を踏みしめる音。足音が聞こえてくる。それは男が進む速さの、数倍の単位
で接近して来た。
 そして完全なる絶望が男を襲う。
 接近して来た足音は男を追い抜き、ついにはその前方に立ち塞がったのだ。
「約束は守ってもらわんと、困るぞ」
 頭上からの降る声に、男は恐々としながら顔を上げた。見たくはない、男の生
に終止符を打とうとする凶悪な顔を求めて。
「あ?」
 思わず、調子を外した声が漏れてしまった。涙とそれに溶けた雪とに濡れた男
の目が捉えたのは、ナイフに舌を這わせてにやつく、狂気に満ちた顔ではなかっ
た。
「………じいさん?」
 それはとうに殺されたものと思っていた、老人であった。
「なんて顔をしている。命の恩人に向かって」
 老人が笑う。しかしその笑顔は、ナイフの男の恐怖を感じさせるものとは違っ
ていた。
 ひとまず生命の危険はなさそうだったが、男には事態が全く理解出来ない。窮
屈な姿勢で後ろを振り返り、ナイフ男の姿を探した。
 雪上に男の這いずった跡が、干上がった川のように続く。その先、男の逃亡が
始まった辺りに蹲る影がある。二、三度痙攣するのが見られたが、起き上がって
来る様子はない。完全に気絶をしてるようだ。
 将軍と呼ばれていた老人がここにいる以上、あそこに倒れている影はナイフの
男としか考えられない。信じ難いことではあるが、老人が暴力のプロであると思
われるナイフ男に勝利したのだ。一体どのような手段を用いたのか、男には想像
もつかなかった。
「あ、あ、ありがとう。おかげで、助かった」
 自分が見捨てて逃げようとしていた相手に、男は礼を述べた。それに老人は格
闘の後にも拘わらず、息一つ切らしていない笑顔で応じる。
「それより、約束は忘れていまいな?」
「あ、ああ、もちろんだ」
 安堵が緊張を解き、徐々に身体が回復して来た。まだ立ち上がるまでには時間
を必要としそうだが、男はどうにか雪の上に座る姿勢を作った。
「これが礼だ、受け取ってくれ」
 懐にあったお金をつかみ、老人へと差し出す。昨夜から今朝に掛けて、散々遊
び回ったため残りは少なくなっていたが、それでも金額的には相当なものである。
くれてやるのは惜しまれたが、見た目はともかく、ナイフ男を伸してしまうほど
老人だ。下手な真似はしない方が利口だろう。それにナイフ男のことをネタに、
アルベルトからさらなる金額を脅し取れるという目論見もあった。
「いやいや、金はいらんよ」
 思いもしない言葉が老人から返ってきた。
 お金に対する執着が人並み以上である男は、相手が一度拒んだものを、無理に
でも渡そうとはしない。老人の返事をこれ幸いと、相手の気が変わらないうち手
にしていたお金を懐に戻す。
「そうかい。じゃあ俺はこれで」
 まだふらつくものの、どうにか立ち上がることが出来た。ナイフの男が、いつ
正気に戻るとも知れない。男は老人への礼もそこそこに、その場を早々に立ち去
ろうとした。
「まったく礼儀を知らんやつだな」
 男は歩を進めることが出来なかった。後ろから老人に、襟首をつかまれたのだ。
 見掛けは脆弱な老人だが、その力は想像を越えて強力なものだった。ナイフの
男が伸されてしまったのも頷ける。男がいくら振り切ろうと試みても、まるでび
くともしない。
「な、なんだ。離してくれよ、じいさん」
 男の願いは受け入れられず、そのまま引き倒されてしまう。せっかく立てたと
いうのに、男の尻はまた冷たい雪の上に落ちることとなった。
「金はいらんと言ったが、礼はきちんとしてもらわんとな」
 眼前に影を落として、老人の顔が接近していた。無数のしわが刻まれた顔には、
男に首を横に振らせない迫力がある。何か強い意志が感じられる分、その迫力は
ナイフ男を上回っていた。
「どうすれば………いいんですかい?」
「なあに、大したこっちゃない。ただ少しばかり、話を聞かせてもらいたいんじ
ゃよ」
 老人は笑っていたが、逆らえばナイフ男より危険な人物に変わるだろうと思わ
れた。それほど度胸はない男である。忙しなく首を数回、縦に動かした。




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