#4708/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:25 (198)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【32】 悠歩
★内容
ここ数日、老伯爵は忙しかった。
大事な客人を迎えるため、その準備に追われていたのだ。
が、その準備もあらかた調い、後は客人の来訪を待つばかりとなった。街の噂
が老伯爵の耳に入ってきたのは、そんな時である。
「ほう、そんなに素晴らしいのかね。その歌い手は」
「さあ、私も人づてに聞きましたので断言はしかねますが。たいそうな評判だそ
うでございます」
朝食後雪の上がった庭を散策していた老伯爵は、御者からそんな話を聞かされ
ていた。
「うむ、ではひょっとすると、その者があの時私が聞いた歌声の主かも知れんな」
老伯爵は画商から初めてアルベルトを紹介された日、遠くから聞こえてきた歌
を思い出していた。
「それはどうでしょうか」
ところが御者は、老伯爵の考えには否定的だった。
「どうしてかね?」
「はい、聞きますところ、噂の歌い手と言いますのが、幼子だそうですので」
「幼子?」
「なんでもまだ4〜5歳の少女だとか。そんな幼子に、伯爵様のお耳に留まるほ
どの歌が歌えるとも思えません。それに、とかく人の噂には尾ひれ背びれがつく
もの。まあ多少は上手いのでしょうが、それもその年齢にしては、と言うことで
ありましょう」
「なるほどな。確かに私の聴いた歌は、若い声であったが、相当の修練を積まね
ば出せるものでない。その少女とは、全く別人であろう」
老伯爵は納得し、大きく頷く。
遠くに、幽かに聞こえただけの歌声ではあったが、老伯爵は耳に自信を持って
いた。あの歌は、とても幼子のものではないと。
「しかしその噂が半分としても、だ。それでもその年齢で、たいしたものではな
いか。先日、私が聴いた者と合わせ、この街に二人もの才能ある歌い手がいると
言うことだ。ぜひとも、その少女の歌を聴いてみたいものだ。うむ、よし決めた。
馬車を出してくれ」
早朝は淡く雪色の化粧を施されていた通りも、人の流れとともに汚れはじめて
しまう。むしろ少量の雪は、人や馬車に踏みにじられて溶け出すと、降る前より
も通りを汚く見せていた。
それでも一時は雨を雪へと変えた冷気は、人の流れによっても振り払うことは
出来ない。街はこの冬一番の寒さに包まれていた。
「まだかね?」
馬車の小窓を開き、老伯爵は御者に問うてみる。吐く息の白さに、老伯爵は寒
さを再認識し、ずり落ち掛けた膝の毛布を引き上げる。
「はあ、この辺りだと聞いたのですが」
馬車の速度を落とし、御者は周囲を見渡した。老伯爵も耳を澄ませて、歌声を
探してみる。だが聞こえてくるのは、街の喧噪ばかり。
「あ、伯爵さま。あれではないでしょうか?」
馬の足が止められる。御者が指さした方向へ、老伯爵も視線を送った。
「あれ………か? 4〜5歳とは聞いたが、ずいぶんと小さな子だな」
街角に立つ、幼い少女の姿を見つけ老伯爵は言った。初めに聞いていた年齢か
ら、幼い姿を想像してはいたが、その少女の身体は老伯爵の思っていたものより
さらに小柄に見えた。
少女の前には缶が置かれている。御者から聞いた噂では、少女は歌うことで通
行人から金銭を得ているという話であった。まだ歌い始めてはいないが、この少
女に間違いないだろう。
少女の後には、姉だろうか。もう一人、十代の初めか半ばぐらいの少女が木箱
に腰を下ろしていた。
「しばらくここで、待っていてくれ」
御者にそう言いつけて、老伯爵は馬車を降りた。
歩いてみると、マリィの怪我の具合は予想以上に悪かった。少女の肩を借り、
片足を引きずりながらここまで来るのは、困難を窮めた。幼い少女の肩に、全面
的に体重を預ける訳にもいかず、結局自力で歩くのと変わらない。加えて薄く積
もった雪が足を滑らせ、ここにたどり着くまでに二度、転ぶこととなった。
そんな行程を断念することなく、ここまで来たのはルウの強い意志のみに圧さ
れてである。マリィにしてみれば、途中何度も引き返すべきだと考えたことだろ
うか。自分の怪我のこともある。街に着いても、少女は歌えないかも知れない。
歌えたとしても、もうデニスのために間に合うよう、お金を稼ぐのは難しい。そ
れでも少女が諦めていないのなら、その気持ちを尊重しようと、マリィも思って
いたのだ。
ただ、今日の少女は歌えるような気がしていた。確証はない。けれど昨夜、マ
リィは少女の歌を聴いたような気がする。だからこそ、少女も街に出ようとした
のではないだろうか。
ようやく目的の場所へと着き、マリィは近くにあった木箱に腰掛けて足を休め
る。すると、ここに来るまでの間に汗をかき、暑くなってた身体が急速に冷え始
めた。
昨日、商売用のドレスとコートを失ったマリィが、いま纏っているものは、ほ
つれた薄手のブラウス。脚にはサンダルタイプの木靴。
ルウの方もマリィと大した変わりはない。多少手直しはしたものの、最初に出
逢った時着ていた紺色の服。その上には、コートの代わりにマリィの与えたケー
プ。脚にはデニスがどこからか見つけてきた木靴。
二人とも、雪が降るほどの寒さの中を出歩く恰好ではない。
暑さのためにかいた汗は、動きを止めた瞬間から寒さに協力し、体温を奪う。
マリィの身体は震え出した。おそらくは缶を置き、歌う準備をしているルウにも
この寒さは襲い掛かっているはずだ。
「分かってるよね? ルウ。歌えなかったら、帰るのよ」
マリィに背中を向けた少女は何も答えない。通り過ぎる人々を見つめ、胸元で
手を合わせて佇んでいる。その姿は、歌うために自らの気持ちを高める舞台上の
歌い手のようだった。
寒さに耐えながらも、マリィはしばらく待つことにする。
少女の声が出ないと分かるまで。
少女が諦めるまでは。
少女の見る、人の流れを見ながらマリィは考えていた。幽かに見え始めた希望
の灯も消えようとしている。そればかりか、明日、いや今日からの生活もボルド
の手に冒されようとしている。これから自分は、どうすればいいのかと考えてい
た。
ふいに、目の前へ掛かった影に、マリィの考えは中断させられた。
気がつけばルウの顔が上げられ、何かを見ていた。少女の前には、老人が立っ
ている。身なりから一見して、その身分の高さの知れる老紳士であった。
少女の歌が始まれば、道行く人々の多くは足を止める。だが歌い出す前に足を
止める人間を見るのは、初めてのことだった。
「おや、これは失礼。少々近づき過ぎてしまったか」
マリィは、たぶん少女も、惚けたように老紳士を見ていたに違いない。歌を聴
くためにしても、あまりにも少女の近くに立っていた老紳士を。
「この辺りに素晴らしい歌い手がいる、と噂に聞いたのでな。私もその歌を拝聴
したく、先刻より待っていたのだが。いつ歌い始めるのかと思っているうち、知
らず知らずに近づいてしまったらしい」
白く上品な髭の、老紳士が笑う。
「せっかくお待ちいただいて、恐れ入りますが、ルウ………この子は歌わないか
も知れません」
「はて、どういうことだろうか。君たちはこれを仕事にしているのではないのか
ね?」
「それはそうなのですが、この子は自分の意志で、歌うことが出来ないのです」
そう答えてマリィは目を伏せる。
見知らぬ老紳士に、詳しく説明をしたくはなかった。これを仕事だということ
自体、正しくはないのだが、否定しても仕方ない。
「ふむ。ところで君たちは姉妹なのだろうか」
「いいえ」
老紳士は最初の質問について深く言及せず、別のことを聞いてきた。が、マリ
ィはこれも短く答えるだけにする。
「二人とも幼い、いや、ずいぶんとお若いようだが、それにしても今日のような
日に、そんな恰好で寒くはないのかね」
「寒いです」
「うむ、では………」
どの問いかけにも積極的に答えようとはしないマリィに対し、さすがに老紳士
も言葉を詰まらせ、困った顔をしている。そんな老紳士の顔がおかしく、マリィ
は笑ってしまった。力ない笑顔で。
「なにも、ご存じないのですね」
街で恵まれた暮らしを営む者に、スラムに住むマリィたちのことを理解するの
は難しい。まして老紳士のような地位のある者なら、なおさらのことだろう。
いつもなら興味本位で訊ねる者に、マリィは自分たちのことを語りはしない。
だが他とは違い、決して自分を見下したものではない老紳士の目に、マリィの口
は緩んだ。昨日の一件により、気弱になっていた心もそれを手伝っていた。
「私たちは、スラムに住んでいるのです」
「スラムに? 君たちのような子どもがかね?」
芝居ではなく、本心から驚いた表情を見せる老紳士。説明するまでもなく、分
かりそうなことに驚く老紳士は、余所からこの街に来たばかりであるか、よほど
世間知らずかのどちらかだ。身なりの良さから、後者だと思っていいだろう。
「街は立派に復興しても、すべての人がその恩恵を受けるわけではないんです。
スラムには私たちのような、親のない子どもや、仕事のない人がたくさんいます」
「確かにそのような話は聞いたことがあるが………なにせスラムに知り合いがな
くてな。いや、言い訳だな。勉強不足だった」
老紳士は真顔で答える。
「では君たちは、日々の糧のため、ここで歌を歌っていたのかね?」
「いいえ、これは………」
マリィは言い淀んでしまう。人の良さを感じさせる笑顔に、ついつい気を許し
てしまったが、所詮は他人である老紳士に事情を話しても仕方ないことと思った
のだ。
「ん?」
この老紳士の声は、マリィに向けて発せられたものではなかった。真っ直ぐだ
った老紳士の腰が折られる。どうやらルウが何かを伝えようとしているらしい。
言葉を失った少女は、身振りをその代わりにする。右手の人差し指を立て、そ
れを不規則に動かす。
「はて、申し訳ないが、私にはお嬢ちゃんの言いたいことが分からないのだよ」
しばらく自分の顔の前で動く指を見ていた老紳士が、困ったように頭を掻いた。
すると悲しげな少女の瞳が、マリィを振り返る。駆け寄り、マリィの手を握る
小さな拳は冷たかった。
「絵を描く真似をしたんです」
話すことの出来ない少女に代わり、マリィがその身振りの意味を説明した。
「絵を………どういうことだろうか? 君たちは、絵も描くのかね」
「そうではありません。私たちの仲間の、男の子が描くんです。彼、デニスって
いうんですけど、とっても上手いんですよ」
「ほう」
少女を追うようにして、老紳士もマリィに近づいて来た。ただデニスのことを
語りながら、無意識に目を伏せてしまったマリィには、老紳士の表情の変化には
気づかなかった。
「絵で思い出したが。確かこの街でも近々サロン、あ、いや、絵のコンクールが
開かれると聞いたな。そのデニス君とやらも、絵が上手いのなら参加してみると
いいのではないか?」
「ええ………私には絵のことなんて分からないけれど、デニスは本当にすてきな
絵を描くんです。彼、そのサロンにも、主催者の人から直接誘われたんですよ」
「それは凄い! ならばデニス君はいま、そのための絵を描いている最中なのだ
ね」
「………それが」
マリィはため息をついた。
吐き出した白い息が、自分の視界を曇らせる。白い息はすぐに消えたが、回復
した視界に自分の足下が映る。その着ているもの薄さに、感じる寒さが強くなっ
た。
「デニス、コンクールを諦めるって言うんです」
「分からんな。彼にしてみれば、大きなチャンスではないか。まして主催者から
直々に誘いを受けるほどだ。それなりに望みもあろうというのに」
まるでそれが自分のことであるかのように、老紳士は興奮して声を高くする。
驚いた少女が胸に抱きついたため、マリィの傷に鈍い痛みが走った。
「お金がないから」
マリィは努めて明るい笑顔を作り、老紳士に見せた。
貧しさを人から同情されたくない、そんな思いが働いたからだ。
「お金? それは妙な。コンクールに参加するのにお金が要るのかね? 私の記
憶する限り、無料であったと思うが」
「そうじゃありません。コンクールに出す絵って、油絵でしょう。その道具が買
えないから」
「……………」
「だからこの子、自分の歌でもらったお金で、デニスに道具を買ってあげようと
してるんですよ」
「……………」
老紳士から、言葉がなくなっていた。
マリィの話は、その耳に届いているのだろうか。その目は天を仰ぎ、遠くを見
つめながら何事かを考えているようだった。