AWC Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【31】 悠歩


        
#4707/5495 長編
★タイトル (RAD     )  98/12/24   0:24  (198)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【31】 悠歩
★内容
 何かまだ納得がいかない。だがマリィが何でもないと言うのであれば、これ以
上詮索することも出来ない。疲れている彼女を、いつまでも起こしていては気の
毒だ。考えてみればデニス同様、ここ数日まともに食事をしていないマリィが元
気でいる方が不思議かも知れない。
 顔を見ることの出来ない、ドア越しの会話に寂しさを感じながらもデニスは自
分の部屋に戻ることにした。
「デニス………」
 と、その背中にマリィの声がして、デニスは足を止めた。
「なんだい?」
「心配してくれて、ありがとう」
 ドアが開けられた訳ではない。けれどその声は先ほどより、少し近くに聞こえ
る。ベッドで横になった身体を、起こした程度の接近ではあったが、そんなささ
やかなマリィの気遣いが嬉しい。
「あたりまえだろう、俺たちは仲間なんだぜ」
「………うん」
 その会話を最後に、デニスは部屋へ戻った。自らが口にした『仲間』という言
葉に、もどかしさを覚えながら。



 遠ざかる足音、閉じられるドアの音。
 デニスが部屋に戻るのを耳で追いながら、マリィはシーツを噛みながら耐えて
いた。最後の音が聞こえてからも、それはまだ続く。デニスが寝つくまで漏らし
てはいけない。聞かせてはいけない。ともすればこぼれそうになる嗚咽を。
 マリィ一人であったのなら、堪えきれなかったかも知れない。デニスの声が聞
こえたとき、ドアを開いて抱きついていたかも知れない。その胸で泣きじゃくっ
たかも知れない。
 そうしなかったのは、他にマリィを慰めてくれる存在があったから。
 柔らかくて暖かく、そして優しい小さな手が身も心も傷ついたマリィの頭を撫
でていたから。
 それはもう、思い出す余裕さえなかった遠い昔。マリィがまだ二人のルウ、妹
といまそばにいてくれる少女、と同じくらい幼かった日の記憶を蘇らせた。
 何か怖い夢を見たのだ。夜中に目を覚まし、泣きじゃくるマリィ。その声で母
を起こしてしまった。昼間はまだ兵隊に取られる前の父を助け、くたくたになる
まで働いて母。疲れているはずなのに、優しい声でマリィを慰めてくれた。小さ
な頭を撫でてくれる、温かな掌が嬉しかった。母の温もりに安心し、寝入ったマ
リィの見た次の夢は、とても楽しいものだった。
「おかしいね、私」
 マリィは少女の手を取り、それを自分の頬に充てた。握る手に、少し力を入れ
れば簡単に砕けてしまいそうな、小さな掌。いまの自分よりずっと歳下の少女に、
マリィは母の姿を見ている。まるで立場が逆ではないか。
 せめて少女に、自分は平気だと伝えなくてはならない。マリィは笑顔を作ろう
とした。けれど涙は止まらない。マリィの顔は、滑稽な泣き笑いの表情しか作る
ことが出来なかった。
「いけ………ない。ルウまで、風邪をひいちゃうよね」
 マリィは自分の身体が濡れていることに気づいた。たっぷりと雨水を吸い込ん
だ服、もはやただのぼろ布と化したものは脱ぎ捨てていたが、下着は着けたまま
ベッドに入っていた。髪も素肌も濡れたままである。それらの水分は、ただでさ
え冬の寒さを凌ぐのには難儀であるシーツや毛布へと染みてしまっていた。部屋
が暗いために確認は出来ないが、たぶん血の痕も残っているだろう。
「ごめんね、ルウ」
 すでに手遅れではあったが、マリィは急いでベッドを離れようとした。少し身
体を動かすのも辛いほど傷が痛み、疲れてもいたが、そのせいで少女が病気にで
もなってしまったらおおごとだ。
 ベッドの下に、両足をつくマリィ。後は少しだけ、力を入れて腰を浮かせれば
ベッドから離れることが出来る。けれどマリィは、ベッドから離れることが出来
なかった。ななめ後ろから、マリィの腰をかかえるように抱きついてきた少女の
ために。
「ルウ?」
 マリィは少女を見つめた。
 少女はマリィを見つめる。
 その唇が、大きく動く。言葉を紡ぐことの適わない唇で意志を伝えるためには、
大きく動かすしかないのだ。そしてその唇は、マリィにこう告げていた。
 平気だよ。
 と。
 それから、マリィは背中に生暖かいものを感じた。少女の唇が、マリィの視界
から消えたのと同時のことである。
「ルウ………」
 マリィにはその正体が容易に知れた。少女が傷の手当をしてくれているのだと。
 食べるものにも不自由する暮らしで、傷薬など常備していようはずもない。そ
んな中で傷の手当をするために、ルウに出来ることはたった一つ。
 少女はマリィの傷を嘗めて癒そうとしていのだ。
 それで痛みが和らぐ訳ではない。けれど少女の精一杯の行為に、マリィはベッ
ドが濡れていたことも忘れて身を委せることにした。
 そして、少女の小さな舌が前に回って来ると。
「もう、デニスも寝ちゃったよね」
 そんな言葉を少女へと掛けた。
 少女は小首を傾げる。マリィの言葉が聞き取れなかったのか、あるいは意味が
分からなかったのか。
 いや、そうではない。少女が首を傾けたのは、マリィに対して疑問の意志を知
らせるためではなかった。耳を立て、デニスの部屋の気配を探ろうとしていたの
だ。
 マリィも少女の仕草を真似て、耳を傾ける。デニスの部屋からは、何の物音も
聞こえては来なかった。もう寝入ってしまったのだろう。
 得心したように、少女が頷く
「あのね、ルウ。お願いがあるの」
 こくん。
 幼い顔が一際真剣な表情を作り、頷き返してきた。
「へんなお願いだけど………ちょっとだけ、ほんの少しの間だけでいいの。私、
ルウに甘えたい………いいかしら?」
 自分でもおかしな頼みだと思う。
 13歳のマリィが、まだ4つか5つの少女に甘えたいと願うのだから。
 けれどこの奇妙なマリィの願いに、少女は一瞬の驚きさえ見せはしなかった。
ただその幼さを忘れさせる優しい笑顔で、マリィの願いに応えてくれた。
「ありが……とう」
 堪えていた嗚咽が、堰を切ったようにあふれ出す。
 マリィは歳下の少女の膝に、顔を埋めて泣いた。
 もう涙を止めようとも、嗚咽を堪えようともせず、思いきり泣いた。
 少しの間と約束したのに、いつまでも泣き続けてしまったマリィ。そのまま眠
りの中に落ちて行くのも気づかずに。
 どこか遠くに、優しい子守歌を聴きながら。



 雨は夜半過ぎに雪に変わったらしい。この冬最初の遅い雪は、暗色しかないス
ラムの風景に、白い輝きを与えていた。豊かな家庭の子どもであれば、喜んで外
へ飛び出し、雪遊びに興じていたところだろう。
 だがスラムに暮らす者にとって、雪は嬉しいものであり得ない。ひもじさに寒
さを強調し、より一層惨めな気持ちにさせるだけのもの。
 顔面に氷を乗せられたような空気の冷たさで、マリィは目をさました。
 身体が酷くだるい。あちこちが痛み、疼く。
 軽く頭を動かすと、窓の外にちらつく雪が見えた。
「どうりで」
 空気が冷たいわけだと納得する。
 充分な暖房のない室内は、外と温度がさほど変わりない。そのため、窓ガラス
も曇ることがなく、小降りになった雪がよく見えるのだ。
 身体を乾かしきらずにベッドに入ったため、シーツがまだ湿っている。それが
室温に冷やされ、さらに寒さを強めていた。
 けれどそれ程には不快でないのは、マリィの胸の中に温かな存在があったから
だ。マリィはまたほんの少し頭を動かし、その存在を目で確かめる。
 赤子のような無垢な寝顔。頬を紅くした少女がそこにいた。
 寝顔を見ながら、昨夜のことが思い出された。幼い少女に甘えてしまった自分。
この少女がいなければ、あの出来事に堪えられなかったに違いない。
「ずるいよね、私だけ」
 室内の空気も、毛布もシーツも、みな冷たい。それでも少女の温もりの触れた
胸だけは暖かかった。独りで眠るデニスは、今日のような日にはただ震えている
だけだろう。
「デニス………」
 デニスの名と同時に、昨日ボルドの手先に受けた仕打ちが頭の中に蘇る。そし
てマリィは、寒さではなく、感情に震えた。
 それは怒りではなく、恐怖でもない。
 悔しさでもない、別の感情。
 強いて言葉にするのならば、哀しみであった。
 ただそれも、昨日の出来事自体へのものではない。
「マリィ?」
「デニス!」
 ドアの向こうから聞こえたデニスの声。
 ベッドから身体を起こそうとしたマリィに、痛みが走る。それをデニスには悟
られまいとして、呻きをぐっと噛み殺す。
「起きてたかい? 俺、これから仕事を探しに行ってくるよ」
「あ、ああ………気をつけてね」
「その前に………あのさ、中に入ってもいいかな?」
「だめ!」
 マリィの身体には、昨日の傷跡が生々しく残されている。それを見られたくは
ない。デニスに余計な心配は掛けたくない。マリィがボルドの手下に傷つけられ
たと知れば、またデニスは無茶な行動に出ないとも限らない。
 思わず、怒鳴りつけるような大声で、デニスの入室を禁じてしまった。
 その大声でリィの胸元の少女が、驚いて目を覚ましてしまった。
「ほら、私………まだ着替えてないし。それから、あの、いまちょっと顔がむく
んで、見られたくないの」
「そっか、いや、気がつかなくてごめん。なんかゆうべのマリィの様子が、ちょ
っと気になってさ。マリィ………どこかけがをしてないか?」
「えっ、どうして」
「廊下に、少しだけど、血の痕があったんだ」
 そういえば、昨夜ずぶ濡れになって帰って来たマリィは、廊下に雨水を滴らせ
たままにしていた。その水の跡に、流れ出た血も混じっていたのだろう。
 マリィは懸命に、その言い訳を探した。
「はははっ、ごめん。昨日はいきなり雨が降ってきたもんだから、慌てて走った
ら転んじゃったの。それで、膝を擦りむいちゃって。後でちゃんと、拭いておく
わ」
 戯けた口調を繕い、マリィは答える。
「それで、けがはだいじょうぶなのか?」
「たいしたこと、ないって。心配いらないから」
「………そうか。じゃあ、俺、行って来る。がんばって、今日は何とかパンを買
って来るよ」
「うん、がんばって。でも、無理はしないでね」
「ああ」
 廊下の板が軋み出す。デニスがドアの前を離れ、外へと向かった音だ。
 デニスの気配がなくなり、マリィは間違っても部屋のドアを開けてしまわない
ように抱きしめていた少女の身体を解放する。
 自由になった少女は、とん、とベッドから跳ね降りた。それから床にうつ伏せ
になって、ベッドの下へと手を伸ばし入れる。そこから取り出したのは、あの空
き缶だった。
「ルウ?」
 マリィが名を呼ぶと、少女は両手で支えた缶を前に突きだし、微笑んだ。どう
やら、今日も歌いに行くという意志表示らしい。
「ルウ、いいの。もういいのよ。無理をして歌わなくても」
 昨日、少女は歌うことが出来なかった。言葉を失った少女に、連日歌い続けさ
せるのには無理があったのだろう。このまま無理を続けさせたなら、あるいはも
う二度と言葉を取り戻すことも適わなくなるかも知れない。
 マリィはもう諦めていた。
 昨日はマリィも少女も収入がなかったばかりか、このような怪我を負ってしま
った。商売のための服もなく、顔も腫れ身体にこれだけの傷が残っていれば、し
ばらく娼婦としては働けない。仮に仕事に出たところで、またすぐにボルドの妨
害
に遭うだろう。
 いずれにしろ、デニスがコンクールに間に合うように道具を買い揃えてやるこ
とは不可能に違いないのだ。
 だが幼い少女は、諦めるということを知らない。
 マリィの言葉に逆らい、外に出ようと走り出した。
「待ちなさい。痛っ!」
 少女を止めようと立ち上がったマリィ。けれど傷の痛みによろめいてしまう。
 幸い咄嗟にベッドへ手をつき、転ぶことはなかった。マリィを心配してくれた
少女も、そばへと戻って来てくれる。
「どうしても、行くつもりなの?」
 少女は強く頷く。その頑なな瞳に、少女を止めることは出来ないと、マリィは
知った。
「仕方ないわね………でも、歌えなかったら、すぐ帰るからね」




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