#4705/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:24 (199)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【29】 悠歩
★内容
画商の言葉にも、別段表情を変えることなく、アルベルトは答えた。
「だが、おもしろい素材ではあったよ。さすがに伯爵さまが見つけられただけの
ことはある。それでな、少々無謀とも思えたが、コンクールへの出品を勧めて来
たよ」
「ほう、それは楽しみです。私も、その素材を是非とも拝見したいですから。で
は、私はこれで失礼します」
「なんだ、もう帰ってしまうのか?」
「ええ、まだ絵が出来上がった訳ではないので」
「そうか、がんばってくれたまえ」
「はい、ありがとうございます」
何やら奥の方で騒がしい声がして、画商の注意はそちらへ向けられる。そのた
め、深々と礼をするアルベルトの表情を目にすることはなかった。
焦りもあった。
昼間、マリィの予想していた収入を得ることが出来なかったのだ。
油彩の道具を見に、街に出たあの日。ルウの歌声は思いがけない収入を生んだ。
少女が歌い始めると、通りの人の流れは一枚の絵のように停止した。そしてそれ
は磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、少女の周りへと集りはじめる。少女が歌
を終えた時、街は静寂に包まれていた。周囲には両手の指にあまる人々がいたに
も拘わらず、皆、昔話に登場する魔女に、呪いをかけられ永遠の眠りについてし
まったかのように物音一つ立てることがなかった。
凍てついた時を動かしたのは、誰かの拍手であった。一人の拍手が二人の拍手
を呼ぶ。二人の拍手が四人の拍手を呼び、四人の拍手が八人の拍手を導く。そし
てついには、マリィの目に映る範囲全ての人々が、賞賛の声と拍手とを小さな少
女へと贈り始めた。一つの通りがそのまま、まだマリィの見たことのない大劇場
へと変わった。
やがてその人々が元の時に帰り、通りは日常の姿を取り戻した。ただ多くの人
々が少女の歌に酔いしれた証として、その前に置かれた缶には何枚ものコインが
残されていた。
その日から今日まで、昼間はルウが歌うことでお金を稼ぐことした。決して大
金ではなかったが、それでも少女が歌うことでマリィの一晩分の稼ぎに近い金額
になった。昼はルウ、夜はマリィが働くことで、目標の金額をコンクールには間
に合うよう稼げると思えていた。
が、その計算も今日で崩れそうになった。昼間ルウの歌によって予想ほど、と
いうより全く収入を得ることが出来なかったのだ。
少女はいつものように人通りの多い街角へ立ち、歌う準備をした。手を組み、
小さな身体で背伸びし、大きく口を開く。が、そこまでであった。いくら待てど、
愛らしい唇が美しい歌声を生み出すことはなかったのだ。
そのことに一番動揺したのは、他ならぬ少女自身だった。決して自らの意志で
歌声を止めた訳ではない。戸惑いの瞳に涙を浮かべ、マリィを見つめたことで、
それは分かる。
「うん………いいの。ちょっと無理をしすぎたんだよね。ごめんね、私が悪いん
だわ………今日は………ううん、もうこれからはルウの歌で、お金を集めるなん
て止めましょう。そうすればきっと、すぐ歌えるようになるよ」
少女の手を取り、マリィは屈み込む。少し少女の方が視線が高くなり、マリィ
の方が見上げる格好となった。
でも。
そう言いたかったのだろう。悲しそうに少女は小首を傾げた。
「平気だよ。ルウのおかげで、ずいぶん貯まったんだから。あとは私がちょっと
がんばれば、デニスの絵の具は買えるわ」
努めて明るく言った言葉に、少女の心配は消えたのだろう。綺麗とは言い難い
自分の袖で、ごしごしと涙を拭うと笑顔を見せてくれた。
思えば、まだ語るための言葉は失ったままの少女なのである。それを三度、歌
声を耳にしたことでマリィは失念していたのかも知れない。少女は歌だけは自由
に操れるものと、思い違いをしていたのだ。
数回の歌以外、言葉を発することのないルウである。声を出すことに、肉体的、
精神的な無理が掛かっていたのかも知れない。そう思って考えれば、確かに二日
目にはもう声が枯れかけていたような気がする。
あるいはまともに食事も摂らずにいたことに、原因があるのかも知れない。
いずれにしろ、マリィは少女への気遣いを忘れてしまっていたようだ。デニス
のためとは言いながら、あまりにも愚かであった。
ルウの歌声は、お金を稼ぐための道具ではない。
ルウの歌声を、あてにしてはならない。
あの歌は、苦しむ者、悲しんでいる者への贈り物なのだ。
まだ足りない分のお金は、なんとしてもマリィ一人で稼がなければならい。だ
が、目標額までかなり迫っていたとはいえ、一人で、となるとそう容易なもので
もなかった。それでもコンクールの締め切りを考えれば、時間を掛ける訳にはい
かない。昨晩夢に見た、レナとの約束もマリィの焦りを誘っていた。
「ルウがあんなにがんばってくれたんだもの………私だって………」
最も客の多い街中は、大人の娼婦のテリトリーである。しかしスラムに近い場
所でも比較的客の取りやすいところでは、ボルドたちの目があり、マリィは商売
をすることが出来ない。人の少ない場所で、より多くの収入を得ようとすれば、
それなりの無理や危険が生じることになる。
歳若いとは言っても、マリィがこの商売を始めたのは昨日今日のことではない。
それなりの経験を積み、この仕事をする上でのトラブルを回避するための勘を身
につけていた。
他人に迷惑は掛けていなくても、非合法な商売である。自分の身を守るために
は、この勘は大事なものだった。今日までマリィは、どんなにお金が必要な時で
あっても、勘が告げる危険な相手と商売に至ることはなかった。生きるのに必要
なお金のため、命を落とすようなことがあれば、それこそ本末転倒であると思え
ばこそであった。
勘を含め充分すぎるほどの注意を払っても、危険は回避しきれない。実際、商
売上のトラブルで怪我をしたり、果ては命を落とすことになってしまった娼婦も
何人か知っている。またマリィ自身も危うい目に遭った数も、片手には剰る。
危険のあることは承知していたからこそ、今日まで客選びは慎重に行ってきた。
が、なんとしても早くにお金を貯めたい。そんな思いが焦燥となり、普段であれ
ば避ける相手をも客として受け入れることになっていた。
何十、何百と経験を重ねたところで、慣れることはない。激しい嫌悪感の中、
全身の毛が逆立ち、肌が泡立つような時間。けれどそれを、懸命に堪える。嫌悪
を相手に悟られてはならない。どれほど自分が辛くても、客には快適な思いをさ
せなければいけない。それが己の身体を男に売り、糧を得る道を選んだ少女の義
務であった。
ここは街との境界から、さらにスラム側へと寄った宿の一室。もっともこのよ
うな場所では、宿と言ってもまともな泊まり客などいはしない。商売の相手を見
つけた歳若い娼婦たちが利用するためだけの宿である。
人の住んでいない部屋など、多少のすきま風や雨漏りを気にしないのであれば、
このスラムにはいくらでもあった。日々の暮らしにも汲々としている娼婦たちに
は、宿を使うよりお金の掛からないそれらの部屋を利用するほうがよほどいい。
しかしただでさえ街の者は、スラムに足を踏み入れるのを躊躇う。廃屋を利用す
るのでは、客を得ることが一層難しくなってしまうのだ。
それで渋々ながら娼婦たちは宿を使っていた。この宿も他の例に漏れず、ボル
ドの息が掛かっており、上納金のため料金が上げられている。いくら対立してい
ても、いまの商売を続ける限り、マリィもここを利用しなければならず、結果と
してボルドを儲けさせているのかと思うと、腹が立って仕方ない。いつもマリィ
たちに嫌らしい視線を送る、宿の主までも酷く憎々しく見えた。
必死におぞましさに堪え、自分も快楽を感じているかのように装う時間が、よ
うやく終わりを告げた。
自分たちのアパートの方が、数千倍もましだろう思える、傷み放題の部屋の中。
マリィはゆっくりと立ち上がり、脱ぎ散らかした服を集め、身にまといはじめる。
外はどんよりと曇り、窓からは星も月も見えない。ガラスはあるものの、マリ
ィの部屋以上に冷たいすきま風が縦横無尽に走り、裸の身を切る。
ランプの明かりに、マリィの影がゆれる。マリィは意図的に、自分の影を見な
いようにしていた。成熟する年齢までまだ数年あるのだが、慢性的な栄養不足も
手伝った貧しい身体の影を見たくはなかったのだ。
光量はろうそくを上回っているはずなのに、なぜかこの部屋のランプは薄暗く
思えてしまう。服を着けようとするマリィの背中から、ランプの明かりでオレン
ジ色に染まった煙が漂って来る。
「お客さん、そろそろ時間だから………」
マリィは振り返らずに、背後のベッドでくつろいでいる客へ声を掛けた。漂っ
て来た煙は、客の吸っているたばこのものだ。
「まあ、そう急かすな」
「だけどもう出ないと、宿代が別に掛かるから」
「そんなみみっちいことを言うなって」
たばこをもみ消す気配がしたかと思うと、ふいにマリィの身体は強い力で後方
へと引き倒された。
「ちょ、ちょっと、お客さん」
太い手に引かれ、マリィは身体はズボンだけ履いた男の膝の上に仰向けにされ
てしまった。妙ににやついた男の顔が、マリィを見下ろしている。
最初に声を掛けて来たときから、終始張り付いたかのように浮かべられたまま
の、男の笑み。言葉にこそ出してはいないが、娼婦であるマリィへの蔑みを隠そ
うともしない目。いままでであれば、決して客に取らないタイプの男。
「お前が服を着ているのを見てな、また昂ぶっちまった。延長してくれよ」
ぐっ、と男の顔が接近して来る。唇が重なろうとする寸前、手を入れてマリィ
はそれを阻止した。
「それはかまわないけど、その前に先の分のお金を払って」
相手が虫酸の走るタイプであっても、次の客を探す手間が省けるのは、お金の
欲しいマリィには助かる。ただし同じ客と続けて行為をする際は、その前に初め
の分の料金を取るが鉄則であった。
「けっ、色気のないことを言いやがる。で、いくらだよ」
男の手が枕元の上着へと伸びた。それによって解放されたマリィは素早く立ち
上がり、乱れた服装を正す。たとえもう一度脱ぐことになったとしても、必要以
上に男へと素肌は晒さない。それが心の純潔までもはお金にしたくないというマ
リィの、小さな抵抗だった。
「150頂きます」
「なに?」
男の動きが止まる。それからややあって、首だけがゆっくりとマリィへと向け
られた。
全身を駆け抜ける悪寒。
直接、肌を重ね合ったとき以上の。
マリィを見る男の顔には、嘲笑にも似た表情は消えていた。凶悪さのみしか感
じられない視線が、マリィを突き刺している。
「笑えない冗談だ。150も出すくらいなら、高級娼婦と遊んでいるぞ。お前み
たいな、技術もないガキは50がいいところだ」
「そんな………街の娼婦なら500以上はするんだよ。それをこっちは宿代の8
0を含めて150。高くはないはずよ」
男の目つきに怯んだものの、ここで退く訳にはいかない。こちらの立場の弱さ
を知っていて、ことの終わった後に料金を値切る輩は珍しくないのだ。その度に
相手の言い掛かりに圧されていては、この商売は成り立たない。
「60出してやる。延長はなしだ」
男には、マリィの話を聞くつもりもないようである。六枚のコインを、マリィ
目掛け投げてよこした。そのうちの一枚が、咄嗟に顔を庇ったマリィの左腕に当
たって、他の五枚とともに床へと落ちた。
安っぽい金属音を響かせて回る、六枚のコイン。金属音は次第に長い波長へと
変化し、やがてコインの回転は停止する。
金属音の変化を聞きながら、マリィの心には強い怒りが湧き上がって来た。
コインの当たった腕に痛みはあったが、そんなことはどうでもいい。
娼婦という商売をしていると、人から蔑まれることも多い。悔しくはあるが、
いちいち腹を立ててもられない。本意ではないが、それには慣れるしかない。
しかしここまで足元を見られ、黙っている訳にはいかない。すでに最初に払っ
た宿代で、ここに居られる時間は過ぎてしまっている。いますぐ出ても、無条件
でさらに80の宿代を支払わなければならない。
マリィが請求しているのは、決して大金ではなかった。一人客を取っても、マ
リィの稼ぎは一回の食事代にも足りない。それを宿代を払って、マイナスになる
ような料金で納得することは絶対に出来ない。
もしマリィに冷静な判断力があれば、泣き寝入りとなっても、ここで退くこと
が出来ただろう。控えめに見ても、男の体重はマリィの倍はある。腕力ともなれ
ば、その差は計り知れない。どれほど悔しくても、明日以降も仕事を続けたいの
であれば、退くべきだった。
だが男を客にした時点から、マリィは判断力に欠けていた。背負い込んだデニ
スの夢、空腹に堪えるルウの姿が、マリィを強くしてしまった。いまは危険でし
かない強さだった。
「ふざけんなよ、この腐れチンポが! こっちは良心的な商売をしてんだ。セコ
イ言い掛かりをつけやがって………そんなチンケな脅しで、こっちがビビるとで
も思ったかい!」
拳を震わせていたマリィが、威勢のいい啖呵を吐く。相手が冷静な判断の元に
選んだ客であれば、怯んでお金を払ったかも知れない。しかしこの相手に対して
は、その凶暴さのスイッチを入れる結果にしかならなかった。
ベッドの上の男の姿が、突然巨大化した。マリィがそう認識するより早く立ち
上がったために、そう見えたのだ。
危険を感じ、身を逸らそうとするマリィ。が、判断が一瞬遅かった。
右に身体を移動させようとしていたマリィの視界が、黒く染まる。それが眼前
に立ちはだかった男の姿だと知るより先に、マリィは左頬に衝撃を感じていた。