#4703/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:23 (196)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【27】 悠歩
★内容
「これからどうしようか?」
ようやく落ち着いた少女へと、訊ねてみる。もちろんマリィとて、少女から返
事が返って来ないことは承知していた。
せっかくこうして街に出て来たのだから、何か少しでもデニスのために役に立
つことをしたい、とは思う。改めて油彩の道具を見て、必要なお金を貯めるのが
不可能にも近いとは知った。それでも微かな望みでもあるのなら、足掻いてみた
い。
デニスのように街を歩き、日雇いの仕事でも探そうかとも考えた。しかし健康
な男でも、なかなか仕事にありつくことが出来ないのだ。力のないマリィに、仕
事が回ってくる可能性は低い。まだ陽の高い時間では、マリィ本来の稼業をする
のにも早すぎる。しかも街中で商売をして、それが大人の娼婦に見つかってしま
えばひと騒動となってしまうだろう。ましていまは、そばにルウがいる。客を取
っている間、ルウを待たせておく訳にはいかないし、何よりこの幼い少女に自分
が商売をする姿は見られたくなかった。
ずいぶんと長い時間、陽の当たらない場所にいたため、マリィも少女も身体が
冷えてしまっている。仕事をすることも出来ないとなれば、この後の行動は一つ
に限られていた。
「しょうがないね。もう帰ろうか」
マリィが考えた結果を口にするより先に、少女はすでに行動をおこしていた。
ベンチの代わりにしていた階段より、跳ねるようにして立ち上がると、マリィを
待たずに走り出してしまった。
「ルウ、走ったら危ない!」
マリィも急いでその後を追おうとする。が、その間にもルウは大通りに達し、
人混みを巧みに避けながら中央を走る馬車の前へ飛び出して行った。
「!」
あまりにも唐突で危険な少女の行動に、マリィは顔から血の気が退いて行くの
を感じた。後を追うマリィがようやく通りに出た時、馬車はもうルウのいた位置
へと及んでいた。
「もう! どうしたって言うのよ、あの子は」
速度を落とすことなく馬車が通り過ぎて行ったのち、マリィの口からこぼれた
のは安堵感を含んだ怒りの言葉だった。
あるいはマリィの目に映ったほどには、少女と馬車は接近していなかったのか
も知れない。とにかく馬車が去った後にマリィが見たものは、無傷のまま通りの
反対側へ渡った少女の背中であった。
そこに何があるというのか。ルウは通りの反対側の路地、そこに置かれた木箱
の前で身を屈め、何やら探している様子だった。見れば、少女のいる路地はレス
トランのすぐ横であった。たぶん木箱はそのレストランのものであろう。
そう言えば、昨夜わずかなパンの欠片を食してから、今日はまだ何も食べては
いない。もしかするとルウは、レストランから出た残飯を探しているのだろうか。
「なにをしてるの、ルウ? 突然、飛び出したりしたら危ないのよ。分かってい
るの?」
叱りつけるつもりで、マリィも通りを渡って少女の元へ達した。けれどマリィ
が声を掛けてもなお、ルウは木箱の中を探すのに夢中となり、振り向くことさえ
しない。
「ルウったら、聞いているの?」
マリィはなおもきつめにと声を掛ける。仮にそれが堪えきれぬ空腹ゆえだった
としても、少女の冒した危険な行動は叱らねばならない。それが同じ屋根の下、
同じベッドで寝起きをともにする者の、いや少女の保護者である自分の責務であ
ると思っていたのだ。
今度はマリィが声を掛けてすぐに、少女が振り返った。だがそれはマリィの声
に応えてではなかった。目的のものを見つけてのことだったらしい。
マリィに見せようと、誇らしげに掲げられた少女の手。そこに握られていたの
は、食べ物などではない。ただの缶だった。
レストランで使われたものではあろうが、ラベルのない缶に何が入っていたか
は分からない。食材か、あるいは別のものか。少女が手にしていたのは、空き缶
だったのだ。
「かん……が、どうかしたの?」
少女を叱るつもりでいたマリィだったが、その不可解な行動に昂ぶっていた気
持ちさえ忘れてしまう。
マリィの抱いた疑問に、少女は言葉で答えることはない。答えることが出来な
い。
長く日陰にいたことに加え、空腹も手伝いマリィでさえ元気とは言い難い状況
であったにも拘わらず、たん、と地面を蹴って再び少女は駆け出した。マリィの
注意を無視し、また通りを横切ろうというのか。今度こそ、そんな危険な真似は
止めさせなければならない。
マリィは自分の横を通り過ぎて行った少女の姿を追い、振り返った。
振り返ってすぐ、マリィは自分の予想が違っていたことを知る。少女は危険な
行為を繰り返そうとしていたのではなかった。
路地の出口、賑やかな通りに面した場所で、少女はその足を止めていた。そし
て、手にした缶を足下に置いた。
「ルウ?」
マリィにはまだ、少女が何をしようとしているのか、理解出来ない。首を傾げ、
少女に近づこうとした。だがあと一歩進めば、少女に手が届くところまで来て、
その歩みは止まる。
何気ない動きであった。
足下に缶を置いた少女は、通りに向かって真っ直ぐに立っていた。その手が静
かに動き、胸の辺りで合わされる。
その些細な動作が、マリィには神に捧げられる厳かな舞いのように見えたのだ。
それは錯覚に過ぎないとは分かっている。ルウは踊り子でもなければ、神託を受
ける巫女でもない。しかし幼い少女の、小さな動作はそれらのものを彷彿とさせ
る神聖さをマリィに感じさせた。
これもマリィの錯覚だったのだろうか。
一瞬、通りを行き交う人々の足も、止められたかのように見えた。いや、錯覚
などではなかった。
通りに響きわたる、清く澄んだ声。
悲しく、切なく、そして暖かな声。
およそ人の、しかも幼子のものとは信じがたい。だがそれは現に、幼い少女の
唇が生み出した声。
人々は皆、足を止めて耳を傾ける。
幼き天使の歌う唄に。
それはマリィが三度目に聴く、ルウの歌声であった。
「デニス、起きてる?」
遠慮がちなノックの後、囁くような声が聞こえた。
「ああ、起きてるよ。ちょっと待って、いまドアを開ける」
デニスは手にしていた短い鉛筆をテーブルの上に置き、腰を上げた。
「ルウはついさっき、眠ったところだよ」
室内の儚げな明かりを担っているろうそくも、火を灯してから半分以上が燃え
尽きていた。マリィが仕事に完全復帰してから三日目になるが、連日、帰りはそ
れ以前と比べて遅くなっている。
一度はドアの前まで行き、ノブに手を掛けたデニスだったが、それを開けるこ
となくテーブルの方へと引き返した。マリィには見られたくないものがある。ド
アを開けるより先に、それがマリィの目に触れないようにするために。
テーブルの、先ほどまで自分が座っていたところの上で広げられていた画帳を
閉じる。「未練がましいよな」
ドアの向こうには聞こえぬように呟き、デニスは苦笑する。
マリィには諦めたと言った、コンクール。けれどデニスにはまだ、未練が断ち
切れていなかった。しかしいくら足掻いたところで、期限までに画材を揃え、絵
を仕上げることなどスラム暮らしの身にはどうにもならない。だからせめてもと、
もし自分が出品するのなら、こんな絵を描きたい。そんな虚しい仮定で画帳に下
絵を描いていたのだった。
「ったく………未練で、こんな無駄をしちまって」
ルウが寝てしまったのなら、ろうそくの炎は消してしまえばいい。外で辛い仕
事をしているマリィが帰るまで起きているとはしても、デニス一人のために灯し
ているのは無駄でしかない。なのに絵を描くための明かりが欲しくて、デニスは
ろうそくを灯し続けた。
鉛筆にしてもそうだ。商売のための絵でなければ、炭を使えばいい。けれど油
彩のための下絵という仮定故に、繊細な線が欲しくて鉛筆を使用してしまった。
食べるものさえままならぬ状況で、当分ろうそくや鉛筆は新しく購入すること
は適わない。ほとんどお金にならない似顔絵描き用の鉛筆はまだしも、ろうそく
はもっと大切にしなければ。
そう思ったデニスは、ろうそくの炎を吹き消そうとする。
「いや、あとちょっとだけ、つけてていいか」
思いとどまり、デニスはベッドの方を見る。
粗末なベッドで、薄い毛布にくるまり、凍えるように震えて眠る少女。マリィ
の帰りを待っていたルウを、どうにか寝かしつけたのは三十分ほど前だったろう
か。この少女を連れて、マリィが隣りの部屋に戻るまでのあと少しの時間、ろう
そくはつけていてもいいだろう。
もごもごと、少女の口が動いた。続けて左手を口元へと運び、親指をちゅうち
ゅうと吸いはじめた。何か、食べている夢を見ているのだろうか。
そんな少女の幼い仕草に、デニスの心は痛んだ。
ここ三日間、デニスもマリィも、その収入はほとんど皆無だった。一日中、足
が棒になるほど歩いても、まるで仕事にありつけない。
だいぶ賑わっているとはいえ、まだ復興過程の街。加えてクリスマスも近く、
仕事が何もない訳ではない。だがそれが、一つもデニスの元へとは回って来ない
のだ。もとより街中にも労働力はあり、さらには外部からそのために来た人間も
少なくはない。仕事を出す側から見れば、何もスラムに住む素性の知れぬ者を雇
う必要はない。たとえ、どうしても人手が足りずスラムの者を雇うにしても大人
が優先され、デニスのような少年にまでその恩恵が及ぶことは稀なのである。
さらには、どうやらここに来てボルドの圧力が強まったらしい。スラムのボス
にのし上がったボルドの影響は、街中にも強く及んでいる。それまでは時折デニ
スへと仕事を回してくれていた者たちも、ここ数日間は目が合うと露骨に逃げて
しまう。詳しくは訊いていないが、どうやらマリィの方も同じような状況らしく、
レナの一件以来二人ともに収入がない。
この三日間でデニスたち三人が口にしたのは、ルーベンの店で買ったクッキー
ほどのサイズの固いパンを二切れ。しかし明日からは、それすらも買うことも出
来ない。デニスにとって、唯一つけの利いたルーベンの店にもボルドからの圧力
がかかったらしく、ただ出入りすることさえ明らかな態度で嫌がられている。
「くそっ………やっぱ俺って、情けないヤツじゃないかよ」
マリィとルウは自分が守ってやらなければ。そう思ったはずなのに、具体的に
は何一つ出来てはいない。ひもじさに耐えて眠る少女の姿に、デニスは己の不甲
斐なさを噛みしめていた。
絵のことは忘れよう。
いつまでも未練を捨てきれず、縋っていればみんなが飢えてしまう。可能性の
ない夢よりも、現実を見なければならない。
「デニス? どうかしたの」
考えごとに耽り、マリィが待っているのを忘れていた。あまりにも遅いデニス
を心配した、マリィの声が聞こえて来た。
「あっ、悪りぃ悪りぃ、いま開ける」
デニスは慌ててドアを開いた。
「ごめん、今日も稼ぎはなかったんだ」
ドアを開き、淡い明かりに照らされた顔が見えた途端、マリィの口から出た言
葉。薄暗さの中で見るためか、申し訳なさそうにするマリィの顔色も、どこか悪
く感じられた。
「俺も一緒だよ。明日は、明日はきっとさ………」
確証などあるはずもない。ただマリィを、そして自分を励まそうとして出た言
葉であった。けれどその言葉を言いながら、デニスの心にはわずかな救いがあっ
た。それは今日、マリィが見知らぬ男にその身を預けずに済んだということ。現
実的に考えれば、客を取れなかったことはマリィにとって死活問題である。しか
しそれを充分に承知した上でも、やはりデニスは嬉しかった。
「あのさ、ルウのヤツ、さっきまでマリィを待ってたんだけどさ。いまはもう寝
ちまってるんだ。俺がマリィの部屋まで抱いて行ってもいいんだけど………起し
ちまったりしたらかわいそうだし。なんだったら、このまま」
この部屋で寝かせておいた方がいいのでは?
そう言い掛けたデニスだったが、何者かによって中断される。突然、誰かがデ
ニスの足を押したのだ。
他に誰かいるはずもない。それはベッドで眠っていたはずのルウだった。
マリィの元へ駆け寄ろうとした少女が、その前に立っていたデニスの足を押し
てしまったのだろう。
ベッドの中で凍えていたのと同じ少女が、マリィに抱きつき、嬉しそうに笑っ
ていた。抱きつかれたマリィも、嬉しそうに笑っている。客がなかったとはいえ、
深夜まで冬の街中を歩き回っていた疲労は、相当なものであるはず。けれど少女
を抱くマリィは、最高の笑顔を見せていた。
それは見ているデニスにとっても、心地よいものだった。その様子を見ている
と、とてもこの二人が半月前までは見知らぬ他人であったとは、知っているデニ
スでも忘れてしまいそうだ。血肉を分け合った姉妹、いや母娘と言ってしまった
方が、納得のいく光景であった。
「ルウ、起きちゃったね」
「ああ」
「じゃあ、このまま連れていくわね。おやすみ、デニス」
「あ、ああ………おやすみ、マリィ」
デニスは廊下に出て、マリィたちを見送った。そして二人が部屋に入るのを確
認してから、ろうそくを消してベッドに横たわった。