#3012/3137 空中分解2
★タイトル (DRB ) 93/ 3/21 3: 7 (177)
淡紅色の未来 くり えいた
★内容
「ほう……これは珍しいな」孫娘の淑夭が差出した桃の実を、杜峻石はその枯れ
枝の様な両の手指でおしいただいた。柔らかい朝日が、半ば壊れた火灯窓の隙間か
らこぼれて、その果実の割れ目に陰影を作った。
この数十年来感じたことのなかった手触りを、杜峻石は楽しんでいた。そして熟
した桃の皮の壊れそうな危うさと、その切れ長の目を丸くしていた淑夭の頬の産毛
の危うさとを見比べた。
「もう春だというに、こんな物を、どこで手に入れた」
「もらった。変な人から」
「変な人……若い男か」
淑夭が悪戯っぽい笑みで産毛の頬にくぼみを作りながら、老人の手から桃を取り
返し、両手の間で大事そうに転がした。
「違う。年はわからないけど、髪の縮れた髭の長いおじさん。おじいちゃんにって」
「私に……と言ったのか。いったいどういうところが変だった、その男」
「この辺の人じゃないみたい。そう……服が違う、帯の付いていない長い服を着て
た。でも私、余計なことは話さなかった。知らない人だから」
「よくわからないが……そういう男は覚えがない。それで桃だけもらってきたとい
うわけか。いいか、よくお聞き……目今この界隈は不逞の輩が多い。何度も言うが、
関り合ってはいかん。お前ももう十二だからな」
孫娘はうつむきながら、再び桃を祖父の手に握らせた。
「おじいちゃん、昨日の晩から食べると吐いてしまうじゃない。桃なら食べられる
かもしれない」
杜峻石は思わず片手を膨らんだ腹に当てて、一日に何十回と撫でるその硬い大き
なしこりの手触りを確かめた。大きくなっている。その感触は熟れた水蜜桃の手触
りとは対極にあるものだった。杜峻石は桃を机に置き、淑夭の小さな形のよい頭を
抱いた。
杜峻石、字は子薔、号は碧岩居士、驪山の人、北宋の画人であった。いや、在野
の人となった今でも、絵を描くことで己れと孫娘の淑夭の口に糊している。今も画
人であるといって差し支えなかろう。
しかし中央の翰林図画院を、淑夭の生まれる遥か昔に追われた杜峻石にとって、
当今の自分の生業は「絵師」と半ば自棄気味に呼んで憚らなかった。
町人の娘や奥方を、見た目以上の姿に紙に写し取り、追従の上目使いを以って主
人から駄賃を受け取る杜峻石の顔貌は、才気煥発、「驪山の神童」と歌われた頃の
それではなかった。
時折見せる眼光だけは、見る人が見れば昔の俊才を看破出来たかもしれない。し
かし齷齪としたこの地方の街では、老人の顔を眺めているような閑人はいなかった
ことだけは確かだ。尤も、その眼光とやらも酒と後悔とで濁った今となっては効果
は半減であったろう。
去年の暮れからの病で臥せりがちの杜峻石は、自分の腹の腫れ物を触る度に、こ
の長い屈辱の生活からもうすぐ開放される予感を半ば慶びをもって感じ取っていた。
ただ心残りなのは孫娘の淑夭の事だけであった。天涯孤独となる不憫な淑夭の落
ち着き先を決めねばならぬ。都にいる画院時代のただ一人の友人の息子に、我が亡
き後の身柄を託してあったが、どうのような扱いを受けるであろうかと案じる事は
胃腑の重みをさらに増す作業であった。自分の持てる画作の技量は一人で生きる糧
として、すべてこの幼い淑夭に叩き込んで来たつもりではあったが、むしろ杜峻石
は孫娘には平凡な幸せをつかんで欲しかった。
「これはお前がお食べ。桃などあまり食べさせてやったことがない」
杜峻石は無理に笑顔を作ると、白桃を差し出し、一瞬はっとして手を引っ込めた。
毒が入っているかも知れぬ。針に毒を塗って果実に刺す。ありふれた罠だが、画
院時代の己の人を人とも思わぬ慢心の行状を考えると、ただの白桃をくれる同僚は
一人しか思い浮かばなかったが、毒入りの桃をくれる同僚達の顔ならいくらでも思
い出す事が出来た。 祖父の眉間の皺に驚いている淑夭に、杜峻石はややあって言
った。
「淑夭、今日は幸い良い天気だ、ひとついい所に連れて行ってやろう。支度をしな
さい。長旅になる。身軽な服装にな。それと食料。もちろん絵の道具も忘れんよう
に」
「おじいちゃん、大丈夫」心配そうに淑夭が覗き込む。
「この桃を一個持って行けば、おじいちゃんは大丈夫」
二人が驪山の麓に着いたのは三日後の昼過ぎのことであった。
千山、高くまた低く、雪解け水が流れを増して透明な音を早春の野に響かせてい
る。杜峻石は鉛のように重い体を杖にもたれさせながら、雲水蒼茫たる景観に立ち
尽くす淑夭を抱き寄せた。無理もない、糧を得るため居を置く俗塵にまみれた街か
らこの孫娘はほとんど出た事がなかったのだ。懐かしい驪山の春は固い杜峻石の心
をしばし和ませた。
「お前の父さんが生まれた頃は、この近くに住んでいたのだ」
聞いているのかいないのか、流れから手で水を掬い口を湿らせた淑夭は、小さな
湯飲みに清流を一杯汲んで祖父に渡した。淑夭の赤い頬の産毛に水滴がころがるの
を見ながら、杜峻石はそれを大事そうに飲んだ。口に親しきこと母の乳の味の如し
であった。
若い頃に毎日のように入った山だ。杜峻石は容易に山道に入る口を探し出した。
重い腹に汗をにじませながら、杖を慎重について山径を淑夭と歩き始める。今の懐
の桃の重みと柔らかさとを片手で何度も確かめながら。
あの頃は秋だった。こうして毎日桃の実を懐に入れ、それで少しずつ喉を潤しな
がら、人知らぬ沢の恋人のもとへと驪山に奥深く踏み入ったのは。
恋人といっても人間ではない、いや生き物ですらない。昼なお暗い沢にまします
鬼岩のことだ。鬼岩と言っても杜峻石がそう考えていただけで、山人がそれを見て
も色形の奇妙なただの岩にしか見えなかったであろう。
杜峻石は今でも鮮やかにその岩のありさまを心に思い描く事が出来た。己の画人
としての生涯最大かつ最期のモティーフであったのだから。そしてそれを一枚の絵
に完成させる強烈な欲求が、杜峻石に家族も画院での仕事も放擲させたのであった。
彼は何年も何年も山に入っては、その岩ばかり描き続けた。しかしその強烈な欲求
は、形としての完成を遂に見ることはなかった。ただ杜峻石を栄達の正道から追い
払い、美を追い求める奇才を生活に追われるでくのぼうに変えてしまっただけであ
った。やっと赤子を得たばかりの妻が疫病で帰らぬ人となった年の秋、杜峻石は食
べ残した桃の実を鬼岩に力任せにぶつけてその場を後にした。そして彼は逃げるよ
うに驪山を離れた。
二度とここには来るまいと思っていた杜峻石の心を変えたのは、淑夭の持って来
た季節はずれの桃の実だった。そしてもうひとつは杜峻石の腹の中で日々大きくな
る醜い死の桃の実だった。もう数日食事がほとんど喉を通らぬ。山道を一歩踏み出
すごとに一斗の血液が流れ出るような目眩がした。春の日差しは病人には残酷だ。
「お前ほどの才能が、変な岩の絵に、どうしてそこまでこだわるのだ」
「鳥を描け、花を写せ、人を表わせ」
仲間の嘲笑の中で、ただ一人衷心から叱ってくれた懐かしい友の声が、木立の合
間から聞こえる気がした。友は名と財と子孫を残して死んだ。私が残した物は淑夭
ただ一人であったと、峻石は思った。
当の淑夭は、松の葉で人形のようなものをこしらえながら、祖父の歩調に合わせ
てゆっくりと歩いていた。ふと、また人の声を聞いたような気がした。いや、人の
声であった。山道を向こうの方から甲高い声が二つ三つ近づいて来る。見れば、ま
だ十にも満たない餓鬼ども三人であった。この道にも子供が入るようになったか…
…昔は狩人も畏れてなかなか近づかなかったこの獣道に子供を認めた峻石は、時の
流れに苦笑した。そういえば一度隻眼の若い狩人に矢を射かけられたことがあった
ものだ。峻石が人だとわかって事情を知ってからは、逢う度に随分と親切にしてく
れたものだが。あの頃に比べて道も広くなっている。峻石にはあの鬼岩が今はもう
消えてなくなっているような気がしてきた。
我勝ちに木の芽の匂いにも似た気を発散して、軽口を叩き合っていた餓鬼どもは、
老人とすれ違いざまに、後ろを歩いていた淑夭を見て黙った。その黙ってしまった
ことの照れ臭さに、一番年かさらしき子供が顔の瘡の痕を掻きながら下生えに唾を
吐いた。振り返ると淑夭は、松の葉でこしらえた人形を後ろ手に隠し、無関心を衒
ってその高い鼻をついと山の頂の方へ向けた。峻石は微笑みながら、その餓鬼に尋
ねた。
「おい、わっぱ。この向こうの沢の暗がりに、まだ岩はあるか……」
「……暗がり? 岩? 知らねいやい。耄碌爺」
子供等はそう言うと淑夭の手から人形を奪い取って駆け出した。
「峻石峡に 娘をやるな 楊貴妃だって 醜女石」
奇妙な節回しの里謡を歌いながら、人形を振り振り悪餓鬼どもは行ってしまった。
「峻石峡……? 何だそれは。私の名前と音が同じだ……」
道が急に広くなった。右と左から同じくらいの幅の道が一本に合わさり、太い一
本の道となっている。峻石はますます違う場所に来たのではないかと思った。喉が
焼けるように渇いた。懐の桃に噛り付きたかった。しかし若い時にそうしていたよ
うに、あの岩の下に腰を降ろしてからにしたかった。それが何か神聖な約束事のよ
うに信じていた。違えたが最後、二度と岩を拝む事は出来ないような気がした。
向こうからまた人影が来た。背に赤子を負うた、下女のようであった。下女は冷
や汗を流しながら歩いている峻石の白い顔を見ると、手に持った竹筒を不器用に差
出した。背中の赤ん坊がういと変な声を上げた。峻石は両手でそれを頂くと笑顔を
作った。
「この先の沢で汲んで来られましたか? どうもありがとう。ところで沢の暗がり
に不思議な形の岩はまだありますかな……」峻石の喉に冷たい沢の水が染み込んだ。
下女はしばらく考えていたが、軽く首を振った。それから突然目を明るく開いた
かと思うと両手をいっぱいに広げて見せて、「ああ」と叫んだ。峻石は彼女が唖で
あることに気付いた。さっきからまた松葉で人形をこしらえていた淑夭は、それを
赤子に与えた。下女は不器量な顔をほころばせながら、淑夭の頭を撫でると行って
しまった。孔雀が一羽木立から峻石と孫娘の頭をよぎった。玉虫色の羽が淑夭の頭
に落ちて来た。彼女はそれを髪に刺して歩いた。
道の端の木立が急に鬱蒼となり、道を覆うように被さった。道が急に細くなって
下る。まるで木々のトンネルを抜けるような感じだ。これを抜けると鬼岩のあった
沢に出る。峻石は転ばぬよう、杖をしっかりつき、腰を淑夭が危なっかしげに支え
て、急峻な細道をゆっくりと降りて行った。峻石の杖が地面に埋まった小石にかか
った時、二人の体重がその細い棒にかかるや、いきなり杖は音を立てて折れた。あ
っと声を上げる暇もないまま、二人は前にのめるようにして坂道を転がった。うつ
ぶせになった峻石は荒く息をついた。額を手で拭うと血が付いていた。淑夭は尻餅
をついて、唸っていた。痛みに痺れる手で散った荷物を探してようやく集め、近く
の丸木に腰を降ろした時、突然淑夭が祖父の袖を力強く引いた。
「おじいちゃん……あれ」
孫の視線に目をやると、この山歩き中には見なかった光る色が眼前一面に広がった。
「……何だ……あれは……」
怪我をした事を忘れたように、峻石は目前のせせらぎの水を弾かせて飛び越えた。
沢に横たわる幻の様に白い、いや淡紅色と言った方がいい雲の海の中に飛び込んで
立ち尽くした。淑夭が後を追い、祖父の腕に手を添えた。
「……桃だ。桃の花だ……みんな桃の花だ……」
二人は午後の光が差し込む桃源で言葉を交わすことなくただ立っていた。ふと見る
と桃の木の下には老若男女の人の群れが、その思い思いの姿勢で上を眺めていた。
「おじいちゃん、こっち、こっち」
淑夭の声のした方に目を遣ると、桃林の中央の一番立派な三本に囲まれた暗がりに、
淑夭が輝くように浮かんでいた。いや浮かんでいると見えたのは誤りだった。淑夭
の足下には、ああ、あの忘れもしない鬼岩がひっそりとあった。皆が淑夭を眺めて
いた。
「どうして桃の木がこんなに……」
峻石の口から思わず滑り出た言葉に、沢釣りをしていた老人が独り言のように呟い
た。
「……その昔峻石という若者が種を捨てた……今じゃ村人の憩う場さね」
ふと振り返った峻石は、片目を細くした太公望と顔を合わせた。隻眼だった。
「峻石峡であの岩に立つに遜色ない娘子がようよう現れた」
杜峻石は知らず桃の実の柔らかい肌を握りしめていた。そしてそれを口に運んだ。
これほど見事に峻石の歯が何かを噛みきったのは何十年振りか。桃の皮はぷつんと
はじけて痺れるような甘さが喉を駆け降りた。
【了】