#2947/3137 空中分解2
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お題>指輪を飲み込んだヤモリの憂鬱2 青木無常
★内容
……なんということだろう。千年。千年だよ。
千年かけて、おれはうすっぺらに引き延ばされてきたんだ。うすっぺらに引き延
ばされながら幽鬼となりはてて、奴隷のように追い立てられてきたのだ。モルドー
ル、恐るべき暗黒の地へと。
幽鬼! ああ、幽鬼! かつておれの行方を追ってはるばるこのうれし野までさ
まよい出でたる、死すべきさだめの人の子のなれの果て。王に、この世界の王に九
つの力の指輪を与えられ、死すべきさだめを免れるのと引き換えに生きながらの幽
鬼となった、あの哀れな九人の人間の王。おぞましい呪咀のうめきを腐臭にのせて
吐きだしながら、喪われた指輪を求めて中つ国をあてどなくさまよう忌まわしき黒
騎士たち。
わがなつかしき故郷、アンデュインの河辺から恐怖によっておれを追い立て、安
らぎに満ちた湿り気にも平穏に占められた狭隘にも事欠く呪わしい旅へと駆り出し
たあの幽鬼たち!
千年前。千年前だ。大河の東堤、吠えたけりひしり上げるオーク鬼に、つぎつぎ
と斬りふせられ地に伏す西国の騎士たち。そしてついに追い詰められ、大河へとそ
の身を投じた西国の王の息子。
ああ、おれは知らなかった。知っていたら、あのどこか暗く毒々しい輝きになど、
見向きもしなかっただろうに。知っていたら、知っていたら、この長たらしい生の
刻一刻が倦怠に一枚、また一枚と重く、緩慢に、そして果てしなくのしかかられる
運命に貼りつかれることもなく、短いが平穏と退屈に満ちた無知なる幸福の生涯を
おくれたことであったろうに。知っていたら、知っていたら、くだらない、知らな
かったのだ。エレンディルの運命と死も、イシルデュアの勇猛と敗北も、そして呪
われた力の指輪の造り主のことも。
いまや永遠に世界の目にふれぬおれのこのちっぽけな肉体も、千年前のあのとき
にはまだ薄れてはいなかった。身をかくすために指輪の力を意志することも必要だ
ったが、身を隠すことができると知って愚かにも有頂天にさえなっていた。
だから得体の知れぬ衝動につかれて棲みなれた河辺を離れ、いまにして思えば情
けなくなるほどの貧弱でちっぽけな四肢を駆って、きたるべき冒険の日々に胸をふ
くらませつつ旅に出たのも、役にたつ武器を手にいれた者の当然の意志だと思いこ
んでいたものだ。は、なんという愚かしさ。
だからいじいじと闇を蠢く、語るもおぞましい黒騎士どもがおれをさがしている
と知ったときも、嫌悪や忌避を覚えはしたものの恐怖など微塵も感じはしなかった
のだ。は! なんと愚かしい。恐怖をこそ覚えるべきだったのだ。なぜならおれは、
あの役たたずの武器を手にしていたがゆえに。それゆえにこそ! おれは恐れねば
ならなかったのに。
あのとき。
うれし野にかけられた粗末な炭焼き小屋の、じめじめと湿った天井裏でしばしの
休息としゃれこんでいたあの時。羽目板の隙間からもれる炉辺の灯りはおれには不
快なほど暖かく平安をゆらめかせ、それを囲むうす汚れた素朴な親子のとぎれとぎ
れのバラッドはエルフの夢をこのおれにさえ分け与えてくれていた。
ああ。あの平穏なひとときがいまでもなつかしい。なつかしいのに、引き延ばさ
れたおれの生は、懐かしささえうすっぺらに削りとってしまっている。
ああ。
かすれた声が、まるであの冥府からの血に染めあげられたうめき声のようにほと
ほとと扉をたたき、衣ずれの音とともに異臭が小屋のなかに吹き込んできたとき。
愚かにもおれは幽鬼どもがついに獲物を追い詰めたのだということを悟ったつも
りになって、悦に入っていたのだ。なんというこの愚鈍さ。
ふりあげられた九つの闇の剣が、罪のない漁師の親子を血だまりのなかの汚物塊
へとなさしめたときも、おれの想像力の欠如は恐怖を喚起させなかった。背をまる
め、地獄の底の無間の疲労に絶えず弱々しくうめきあげながら幽鬼どもがいまや生
きているもののいなくなった炉辺のまわりをうじうじと蠢きはじめたときも、おれ
はまだ余裕しゃくしゃくでいたものだ。
まがまがしく折り曲げられた四肢と指とがてんでに床下や柱の向こうがわを指さ
していたとき、おれは能天気にも嘲笑さえうかべていたものだ。やがてやつらの落
ちつかぬ賤しい視線がしだいにおれの潜む天井裏へと集中しはじめたころにさえ、
おれのこのちっぽけな糞のような脳みそはかけらほどの不安さえ浮かべようとはし
ていなかったのだ。
なぜなら、おれは身を隠せる武器をこの腹のなかに持っていたのだから。なんと
間抜けなことを! その武器を腹のなかに抱えこんでしまっていたからこそ、恐怖
すべきだったのに。地の底の幽鬼たちが炭焼き小屋の扉をたたいたときに、とっと
とおれは退散すべきだったのに。
ひとり、またひとりと、まっくろな影が柱をつたい梁をつたい、おれの潜む天井
裏へとぞろぞろと這いのぼってきたとき、やっとのことで物しらずのおれの脳みそ
は不安のちっぽけな芽をもたげさせた。それでもおれは、指輪の形にぷっくりと膨
れあがったこの肉体を、幽鬼たちの赤く、禍々しくちろちろと輝く九対の視線に堂
々とさらけだしていた。ああ! 無知なるこの暗愚の魂ときたら!
あのときの闇の住人の間抜けさかげんときたら、ほんとうにお笑いぐさだったぜ。
このおれが、腹をふっくりと膨れあがらせた風船のようなこのおれが、逃げるでも
なく目の前にのっそりと這いつくばっているというのに、奴らときたら、らんらん
と燃える地獄の炎の双眸を見開き、眼を皿のようにして這いつくばるように天井裏
を隅から隅までさがしまわりながら、闇にひそむちっぽけな腹の膨れたヤモリには
まるで気づきさえしやしない。おれが声をたてて笑うことができたなら、たぶんだ
れはばかりなく哄笑していたことだろうよ。いま思えば幸いなことに、おれには声
をたてて笑うなんてこと、できゃしなかったんだ。
だけど、結局は同じことになっちまった。
黒騎士のひとりが、這いつくばるおれにふと視線を止め、そのまま時間を凍りつ
かせたように凝っと闇の奥を透かし見していた数瞬。さすがにあのときはおれも、
生きた心地がしなかった。奴ときたら、まるで闇の種類を値踏みでもするようにま
じまじと、不吉な燐光を放つ双眼を一直線におれに注ぎつづけていたのだから。
でも、いま思えばあのとき奴はおれを見つけたわけじゃなかったんだ。ただ、指
輪の気配を――それともたぶん、その召び声を――おぼろげに感じ取っていただけ
だったんだ。だからそのときにおれがすべきことはただひとつ――身動きひとつし
ないままその場にうずくまって、ただ黒騎士たちが虚しく立ち去るのを待つことだ
けだったんだ。
指輪のことなど思わずに。
だが、いまごろのように湧きあがってきた恐怖が、まるで澱みの底から解放され
たあぶくのように一気に破裂して、おれのこのちっぽけな全身を怯懦でいっぱいに
しちまいやがった。ああ。なんて間の悪いおれの愚鈍な脳みそ。
だからおれはそのとき、その場で絶対にしてはいけないことをしてしまったんだ。
すなわち、おれの腹のなかにひっかかってとれなくなってしまった指輪のリングの
なかに、人間の指がさしこまれる場面を。このちっぽけな、役たたずの脳みそで想
像してしまう、ということを。
力の指輪に指を通したものは、世界の目から姿を隠すことができる。たしかにそ
うだ。おれのこのちっぽけな指には大きすぎるし、だいいちまちがって飲み込んで
しまった指輪は腹のなかではあったけれど。それでもただ、頭のなかで想像するだ
けでこのおれだって姿を消すことができるのだと気づいたときは、そりゃもう有頂
天だったよ。だからこそこんな、ぎりぎりの瞬間までうろたえもせず幽鬼どもの動
きを逐一観察する気にさえなったんだ。愚かきわまりないことに。
おれの肉体はその武器の効能どおり、世界から姿をたしかに消したよ。
だけど、世界から消えてなくなりゃ、おれはいったいどこに身をおいているんだ
ろう、なんて、そのときまで思い浮かびもしなかったんだから馬鹿な話さ。
そうさ、世界から姿を隠すかわりに、指輪の持ち主は、地獄に身をさらすことに
なるのさ。
とうぜん、地獄の住人どもの眼にも。
九つの視線は正確におれを捕捉したよ。それこそ、一斉に、さ。あわてたっても
う遅い。腐れ肉の臭いをただよわせた弱々しいうめき声にも似つかわしくなく、九
つの闇の肉体は敏捷にちっぽけなおれを取り囲み、燃え盛る地獄の炎を背景に九つ
の闇の長剣が音もなくふりあげられた。
そのときにほんとうなら、このどうしようもない愚かしさの代償におれのこのち
っぽけな生命も終わりを告げていたはずだ。おれの首は鋭利な刃物でいともたやす
く跳ね飛ばされ、やわらかいぬめぬめとした腹部をすうと切り裂かれて力の指輪は
いまごろモルドールの主の手に無事わたっていたろうさ。ほんとうに、そうなって
いればとさえ、いまは思う。そうなっていさえすれば、おれはこの呪われた、苦痛
と恐怖と倦怠に満ちたうすっぺらな生を千年も永らえることなく小さな不幸で終え
られていたのだから。
だけど、残念ながら――そしてそのときのおれにとっては馬鹿ばかしくもこれ幸
いなことに――剣はおれの頸を跳ね飛ばしはしなかったんだ。
なぜって、九つの鋭利な切っ先は、もうこれ以上はないというほど正確に、おれ
の首をめざしてふりおろされていたよ。あんまり正確に、寸秒の狂いもなく九つの
方向からふりおろされたものだから、互いの剣先が弾きあって空間のピラミッドを
形成し、おれの頸まで届かなかったのさ。
地獄の騎士たちのあいだに、白けた間がただよったよ。その瞬間にやっと、おれ
のこの鈍い脳みそも指令を発することができたんだ。動くときは速いよ、おれは。
ちょろっ。……ちょろっ。……ちょろっちょろっちょろろろろろろろろろろっ。
一目散に梁をつたい柱を這い降り、おれはあっという間に小屋をあとにして河辺
の草むらのなかにまぎれこんでやったのさ。もちろん想像の指輪からは想像の指を
はずすのを忘れなかった。湿原のなかの草むらにさえ埋もれちまえば、もう恐れる
ことなどなかったさ。黒騎士どもさんざあちこちさがしまわったあげく、ヤモリの
ちっぽけな身体などついに見つけられずに悲哀と憎悪に充ち溢れた呪いの鳴声をひ
しりあげながら河ぞいにゆっくりと遠ざかっていっちまった。
でももうそのときからおれは生きた心地さえしなかったよ。いつも恐怖に背中を
おされ、ただもうあてどなく河辺をさまようだけだった。指輪を使ったのは三度だ
け。人間の子どもにつかまっていいようにいたぶられちまったとき、猫に遊び半分
で追いまわされ、しっぽはひきちぎられて全身ずたずたにされかかったとき。そし
て最後は、エルフにつかまってしげしげと観察され、救けを求めようにも口もきけ
ないのだからもがきまわるしかないところを、腹のなかのものの正体に思いあたっ
たあげくにナイフで切り裂かれそうになったとき。
そのときおれは、だれも救けちゃくれないってことがわかったんだ。もう完全に
指輪はおれを支配していたし、それよりももっと恐ろしいことに、日毎夜毎、見つ
められてたから。
闇の冥王に。
モルドールの主はそのころ、力を弱らせていてその勢力もずいぶんと縮小してい
たらしい。けれど、それでも指輪の在り処は――とくにその持ち主がその力を使え
ば使うほどに――本能的にわかるようになっていたようなんだ。
だからおれはいつでも冥王の怒りのこもった視線におびえながら、ただ闇雲にア
ンデュインの河辺をさまようばかりだったよ。
そして暗黒の力は千年の時をかけておれの魂を貪り喰ってきたんだ。ここ何年か
はもう、地を這うことさえ苦痛なほど指輪の重さが増してきて、おれの腹のなかで
その存在を膨れあがらせていて、もう何日も何日ものあいだ、今しも腹が裂けて破
れそうな苦痛に苛まれて身動きひとつもできないまま、おれはうずくまっているん
だよ。
もうながくはない。明日にでもおれは力つき、うすっぺらに引き延ばされたこの
命の貧弱な灯し火も燃えつきてしまうだろう。そして、ここまで指輪に憑かれちま
ったからには、もうおれには平安な死のやすらぎさえ残されてはいないんだ。わか
っている。死んでからでさえおれは、もう永遠にこの魂の苦痛から逃れる術はない
んだろう。
指輪が燃え尽き、冥府の闇の王がこの世から去るその日まで、たぶん。
結局、千年をかけたおれの旅も指輪にしてみればたいした助けにはならなかった
んだろう。アンデュインの河辺をほんの少し、モルドールに近づいた、ただそれだ
け。だからおれが死んでその亡骸が河波にさらわれ、水底で腐れて溶け落ちたとき、
きっと指輪は新しい協力者をその不思議な磁力でもってさがしはじめるにちがいな
い。
たどりついたこの河ら辺に棲む小人族を昨日見かけたよ。彼らのだれかには気の
毒だが、いつか指輪はかならず犠牲者を見つけてふたたびモルドールへの帰還の旅
をはじめるのだろう。
ああ。
意識が薄れてきたよ。
慰めにもならないけれど、いまは祝福しよう。せめてこの呪われた旅が終焉を迎
えることを。
おれはなんのために……決まってる、指輪のために。
……。
――無謀は承知で、亡きトールキンに捧ぐ