#2896/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 93/ 2/23 4: 2 (200)
死者の森(3) 青木無常
★内容
ダルガの殺傷圏内に入らぬよう慎重に間合いをとりつつ、刀傷は黒騎士の背に憎
悪に燃える目をすえた。
得物は、投げつけて手もとにない。となれば、男の馬に飛び移って背後をかため、
剣を奪うのが最良の策とみえた。
心を決めると、刀傷は目測を見さだめるや迷うことなく、一気に宙に身をおどら
せた。
奇跡はそこで種切れだった。
鋼鉄の刃が目にもとまらぬ弧を描き、その線上に刀傷の胴があった。
そして後方の隻眼は、宙にういた首領格のからだが胴を境にまっぷたつにわかれ、
しぶいた血が薄暮の空になお朱くひろがるのを目撃した。
彼方に門が見えてきた。
地に落ちた首領格の、泣きわかれになった屍体をわきにしたとき、ダルガの姿は
もはや閉じかけた門の内側へと吸いこまれていくところだった。
地獄からの詠唱は、すでに間近にせまっている。力なく、細々と、だが未来永劫
とぎれることなくつづく、狂おしい呪咀の声。
あと少し、ほんの少しで、門の内側へと逃げこむことができる……だが、そのほ
んの少しの距離が、隻眼には無限にさえ思えた。
異臭が鼻をつく。吐き気と頭痛を呼びおこすほどすさまじい腐臭だ。
「糞ったれがよ!」
隻眼は叫びあげ、馬の背に鞭をくれた。
「決めたぞ、リシ。あの男だ」
きっぱりと、少年は宣言した。
その双の瞳にやどる王者の意志の輝きに、白髪の男はあきらめたようにうなずい
てみせた。
2
強烈な酒精のにおいが、酒場のなかにむんと立ちこめていた。
ろれつのまわらぬ喧騒をぬって、給仕が卓と卓のあいだを忙しく立ちはたらく。
椅子は、ほぼ八分までうめつくされていた。荒らくれた男たち。化粧の濃い、派
手な身なりの女たち。のんだくれの老人のたぐいは、店の片隅に追いやられている。
ひっきりなしにあがる罵声と笑い声の合間から、さいころのころがる音。
酒場の扉が静かに開かれたときも、ふたりづれの新来者に注意をはらう者など、
だれひとりとしていはしなかった。
奇妙なふたりづれであった。
実際、その組あわせは、食いつめ者と遊び人の集まる辺境の酒場には、いかにも
似つかわしくなかった。
ひとりは、長い、白い髪の、白装束に身をつつんだ僧形の男である。紫の宝玉を
つらねた首飾りをさげ、右手には鉄の輪をふたつとおした長い杖をにぎっていた。
相当の長身である。奇妙なのは――百年も齢をかさねてきたとも見まごう白髪の下
の、どう見てもまだ二十代後半としか思われぬ美麗な容貌だ。高貴な血筋を思わせ
る整った顔だちには、どこか暗い陰があった。
そしてもう一人は――まだ十代に達したばかりとしか思えぬ、少年であった。
うす汚れた旅装につつまれた身体は、少年期特有の線のほそさと繊細さとがきわ
だっている。旅の垢にまみれてはいるが、その下には、みがけば雪とも見まごう白
い肌が隠されているにちがいない。華奢で、どこかあやうげだが、その奥にははち
きれんばかりの生命の輝きが秘められている。
そして、稚さはそのまま、少女とも見まごうその美貌。
戸口にあらわれた二つの美の結晶に、目ざとく気づいた幾人かの男たちが下卑た
笑いに口許を歪めて、目くばせをかわしあった。とりわけ、少年のほうは店内の耳
目をあつめたらしい。露骨なからかいの声があがり、歓声が店をどよもした。
ふたりづれはそんな騒ぎなどまったく耳に入らぬかのように、無言のまま店内を
ひとわたり見まわすと、目標をさだめて卓と卓とのあいだをゆっくりと横ぎりはじ
めた。
背後に立った奇妙なふたりづれには目もくれず――黒ずくめの傭兵は酒の杯をぐ
いとあおる。
少年が、カウンターに肘をついて傭兵をのぞきこみ、声をかけた。
「おまえは、傭兵だな」
横柄な言葉づかいだ。が、それをさほど不自然と感じさせないのは、少年の秘め
た貴族然とした雰囲気のせいだろうか。
自分にかけられた言葉だと知ってか知らずか、ダルガは沈黙をたもったまま杯を
ゆらゆらと左右にゆらす。
「話したいことがあるのだが、隣にすわらせてもらってもかまわないか?」
かさねて少年はいい、返事を待たずに椅子に腰をおろした。白い長衣をはおった
男は椅子にかけようとはせず、少年の傍らに影のようによりそう。
「おまえは、傭兵だな」
少年はもう一度、確認するように呼びかけた。
「――だったら、なんだってんだ」
無愛想な返事がかえる。視線は、さざ波をたてる杯の中身にむけられたままだ。
「腕を買いたい」
単刀直入に申しでた。
返答もまた、簡略だった。
「断る」
「なぜだ?」
少年の問いに、うす笑いが答えた。
「面倒ごとにかかわるつもりはない」
少年は鼻じらんで言葉をうしなった。
かわって、かたわらに立った白髪の男が口をひらいた。
「相応の報酬は保証する。われわれにはどうしても腕の立つ剣士が必要なのだ。
どうか、引きうけてはもらえないだろうか」
ダルガは僧衣の男にちらりと一瞥をくれてから、いかにも大儀そうに口をひらい
た。
「俺になにをさせたい?」
そのなげやりな質問に、少年がぐいと身を乗りだして答える。
「わたしたちの護衛として、あるところに同道してもらいたい」
その言葉の底には、ある種の熱意が感じられた。その熱意につき動かされてか、
傭兵は重ねてきいた。
「あるところってのは、どこなんだ?」
「“死者の森”だ」
瞬間、喧騒の一角を静寂が占領していた。
それまで、話の内容いかんによっては自分がありつかせてもらおうと、あるいは
単に野次馬根性からか三人のやりとりに耳を傾けていた連中が、ひとしなみにごく
りと息をのみこんで目を見はらせる。
「消えうせろ」
吐きすてるように言いはなつとダルガは顔をふせ、ひらひらと手だけをふってみ
せた。
「聞いてくれ、わたしたちは――」
必死の面もちで言いつのりかけた少年へ、
「聞く耳もたねえ」
傭兵はかぶせるようにしてぴしゃりときめつけた。声音は静かだが、その底には
かすかに苛だちがこめられている。
雰囲気を察したか店内はいつのまにかしんと静まりかえり、耳と目をひとつにし
てことのなりゆきを見まもっている。
そのなかで、ダルガは追いうちをかけるようにくりかえした。
「消えうせろ」
少年はわなわなとからだを震わせて、懸命にかえす言葉をさがした。が、唇はい
たずらに震えるばかりで、それ以上なんの言葉も発することはできなかった。
「……ティアン様」
やがて、あきらめたように、僧衣の男が静かにいった。
「なにをいっても無駄なようです。ここは出直すことにしましょう」
少年は答えようともせず、身をわななかせながらなおも傭兵を見つめていた。が、
当の傭兵がすべての感心を失ったという体で酒をあおりはじめたのを見て、唇をか
みしめながら椅子から飛びおりる。
逃げるようにして店内を横ぎり、ふりかえる余裕もなくティアンは店をあとにし
た。
つきしたがう僧衣の男は、扉口で立ちどまるともう一度ダルガをふりかえり、お
だやかな口調でつけ加えるようにしていった。
「この先の青鹿亭に投宿している」
傭兵は顔をそむけたまま、我関せずの体で杯を傾けている。
「気がかわったら、訪ねてきてくれ」
かまわず言い終えると、僧衣の男は少年を追って店を出た。
しばしの間、店内はまるでなにかにとり残されたように静まりかえっていた。し
かし、やがてふたたび、なにごともなかったようににぎやかな喧騒がわきだしてい
く。
そんななかで、店の奥まったところにあるテーブルでひとりグラスを傾けていた
男が、奇妙なふたりづれを追うようにしてひっそりと席を立った。
店を出る前、杯を傾けるダルガの黒ずくめの背中に視線をむける。
が、その隻眼が傭兵を見つめていたのも、ほんのつかの間のことに過ぎなかった。
風が吹いていた。白く凍てつく、冬の到来をつげる風であった。深く寝しずまる
街路を、かさかさと枯葉が吹き散らかされていく。天空は厚い雲におおわれて星の
ひとつも見えず、深い闇が一帯に重くたれこめる。
その闇にまぎれるようにして、ひとつの影が歩いていた。
腰には、長剣がつり下げられている。
周囲に気をくばりながら、足音をころすようにして進んでいくそのさまは、どう
ひいき目に見てもなにかよからぬことを企んでいるとしか思えない。
とある建物の前で、人影は足をとめた。
古びてはいるものの、このような辺地にしてはそれなりの風格をただよわせた、
二階だての建物である。玄関わきにあまり見ばえのしない装飾文字で、青鹿亭、と
書かれた看板が掲げられていた。
影は、ひとしきり周囲の気配をうかがってから、慎重な足どりで玄関口にとりつ
いた。扉に鍵がかけられているのを確認すると、慣れた手つきでこじあけにかかる。
音もなく扉がひらかれるまでに、さほどの時間はかからなかった。
屋内に侵入すると、影はまよわず二階をめざして歩を進めた。
狙いをさだめた部屋を前にして、確認するように背後をふりかえる。
森閑とした闇が、深くわだかまっているだけだった。
ほどなく、部屋の鍵をとき終えた影は油断のない身ごなしで内部に侵入した。
その時――ふいに、灯火があかあかと浮かびあがった。
隻眼は、ただひとつ残された左の目を激しくまたたかせる。
だが、うろたえたのはほんの一瞬だった。
「起きていやがったのか」
蝋燭の灯火にむけて、忌まいましげにいった。
白い影が、蝋燭のかたわらでひっそりとうなずく。
「二年近く、辺境をさまよってきた。異変にいちはやく反応できないようでは、
話にならないからな」
突然の闖入者を前にして、白髪の男は少しもうろたえてはいない。
隻眼は、あからさまに舌をうつ。
ずかりと一歩ふみこみ、剣をぬいた。
「察しはつくが、用件をきこうか」
湖畔のようにすんだ瞳が、まっすぐに隻眼を見つめた。なにかしらひるむような
ものを覚え、野盗は不必要に語気荒くこたえる。
「銭に決まってるんだろうが。とぼけるんじゃねえ!」
「帰りなさい」白髪の男は――むしろ哀しげな口調でそういった。「残念だが、
君のような男に金品を与える余裕は、われわれにはない」
へっ、と、隻眼は鼻でせせら笑う。
「なんの用があるんだか知らねぇがよ、“死者の森”なんぞへいきたがる奴ァそ
れだけで死人も同然じゃねえか。死人にゃ銭はいらねぇやな」
「帰りなさい」
男はもう一度、静かにつげた。
その言葉を無視して、隻眼は白刃をまえにゆっくりと前進した。
白髪の男はひっそりと寝台のかたわらにたたずみ、眼前にせまる凶漢の動きを注
視する。
長尺の剣がゆっくりと弧を描き、上段で静止した。
そのまま、彫像のごとく、微動だにしなくなった。
「帰る気はないようだな」
白髪の男が言った。先刻とは、微妙に口調がかわっていた。
「聞くだけ野暮だぜ……」
ぺろりと、唇の端を舌でなめ、さらに一歩を踏みだした。
その時――変事がおこった。
隻眼が白刃をふるおうとした、まさに寸前のできごとであった。
その変事を視覚的に再現するとしても、剣をふりかざした隻眼がほんの一瞬、び
くりと震えた、としか形容することができないだろう。
が、閃光と化してふりおろされるはずの剣を隻眼が押しとどめたのには、無論理
由があった。
雲が切れたか――窓の外から星あかりが部屋の内部をおぼろに照らしだしていた。
深更に灯明のひとつとてなく、夜気を裂いてひしりあげる犬の遠吠えひとつ聞こえ
ない静寂。そんな静けさの底で、ベッドのなかで夜具につつまれて眠る少年の、深
い寝息だけが静かに、規則ただしく聞こえてくる。
なんの異変もない、静かな夜。
そこに――隻眼は悪夢を見ていた。
かざした剣を一気に打ちおろさんとした刹那――白髪の男の白装束が一瞬にして
溶けたように流れひろがり、闇を凌駕した。陰影は黄泉の底へと通ずる髑髏の眼窩
と化し、ひらかれた口の闇黒から炎をともなった咆哮があふれ出る。そして、闇を
も引き裂く地獄からの叫びは、物理的な圧力をさえともなって隻眼を打ちのめした
のである。