#2877/3137 空中分解2
★タイトル (FJM ) 93/ 2/18 22:40 (141)
恋の魔法 2 リーベルG
★内容
2
幸い、その日は晴天だった。もし、雨が降っていたり、曇っていただけでも圭介は
失意のどん底に叩き落とされたに違いない。何故ならば、月曜日で満月の夜が次に巡
ってくるのは、3カ月以上先のことだったからだ。
場所はすでに、選んであった。近くの小学校である。校庭は道路に面していたので、
おせっかいな警官などに職務質問されないとも限らない。そこで、体育館の裏の中庭
にした。校舎と体育館で3方を囲まれ、外からは目につかない。おまけに、多少の大
声を出しても、誰かの注意をひいたりすることがない。
NHKの時報に正確に合わせたデジタル時計を覗いて、23:00を経過したこと
を確認すると、圭介はチョークを取り出した。春休みで誰もいない大学の講義室から
失敬してきた白いチョークである。それをしっかりとにぎり、身をかがめると何度も
練習して、暗記してしまった魔法陣を乾いた地面に描き始めた。
誰にも邪魔される事もなく、圭介は魔法陣を描き終えた。ほとんど風のない夜だっ
たので、描いた魔法陣が消えてしまう心配はいらなかった。
圭介は空を見上げて、満月を確認すると、線を踏まないように慎重に歩いて、魔法
陣の中心に立った。そして、深呼吸をして胸の高まりを抑えると、頭に刻みつけてお
いた呪文をおもむろに唱えた。
「ルシフェルよ、汝の恐れる名にかけて、この輪の中に入ることを禁ずる。
ルシフェルよ、オン、アルファー、ヤー、レー、ソル、メシアス、インゴドゥムな
ど、神聖なる御名において、われ願う、汝がわれを害することなしに、わが望みをか
なえんことを」
ざわざわと風が吹き始めた。遠くで犬の遠吠えや、猫の鳴き声が不意に沸き起こっ
た。圭介は自分が魔法陣で保護されている事を信じていたが、それでも得体の知れな
い不安を感じた。西欧人なら「自分の墓の上を誰かが歩いている」というのだろう。
かすかに後悔を感じたが、こうした魔術を途中で中断することはよくないと分かって
いた。3週間をぼんやりと過ごしていたのではなく、手にはいる限りの魔術の本を読
みあさったのだ。
遠くで誰かが笑っているような声が耳に届いた。
何かがやってこようとしている。太古に人類が封印した記憶に残る何かが。それは
にわか魔術師の圭介にも、はっきりとわかった。
それは近づいてきた。
ゆっくりと。
すぐそばに。
来る!
断ち切られたように、敏感な動物たちの恐怖に満ちた合唱が止んだ。
耳が痛くなるような静寂が辺りを支配した。圭介は何もかも放り出して逃げ出した
い衝動に必死で耐えた。
ぼん!
何もない空間から大量の煙が不意に出現するのを、圭介は確かに見た。手でつかめ
そうなくらい濃密な煙だった。その色ときたら、圭介が生まれてこのかた見た事も、
想像すらした事がないような汚らしい色彩を何種類も混ぜ合わせた色だった。圭介は
息を止めて、その煙を吸い込むのを避けた。
不意に風が強まり、煙を跡形もなく吹き飛ばした。
そこにそいつが立っていた。
圭介は呼吸を再開するのも忘れて、そいつを見つめた。圭介が想像していたのは、
3メートルが5メートルぐらいの巨大な動物で、背中には翼があり、鱗の生えた細長
い手足と太った身体を持ち、牙が並んだ巨大な口と、赤く光る目と、何本かの角が生
えた顔を持っているという姿だった。ところが、そこに立っていたのは身長158セ
ンチくらい、体重4?キロ、ショートカットの黒髪と、愛敬のある丸顔、くるくると
回る大きな瞳、ふくらみはじめた乳房、薄い恥毛、しなやかに伸びた白い四肢を備え
た、推定年齢13才から14才の全裸の少女だった。
少女は圭介の当惑を面白がっているようにあどけない唇をかすかに開き、両手を腰
にあてて立っていた。裸身をさらしている事を恥ずかしがっている様子は全くない。
圭介はおそらく、2分以上も少女を凝視していただろうが、ふと我に返ると、視線を
そらして顔を赤くした。
「どうしたのよ」少女が口を開いた。それは確かに平均的な女子中学生の声らしく
聞こえた。「召喚に応じてやってきたのよ。何とか言ったら?」
「あ、その…えーと」圭介は乾いた唇を舌で湿した。「ぼくが呼んだのはルシフェ
ルだったんだけど?」
「あたしがルシフェルだとは思わないわけね」少女は気を悪くしたような声で、そ
う言った。
「いや、そういうわけじゃないけど…」圭介は少女に目をやり、慌てて外らした。
成熟途中の少女の身体からは、不思議な色気が漂っていた。圭介はロリータ・コンプ
レックスを持っていなかったが、男の本能が奇妙に刺激されるのを感じて戸惑った。
「何よ。この身体が気になるの?」少女は訊いた。
「い、いや、そ、その。な、何だか、お、落ち着かなくて…」しどろもどろになっ
て圭介は言った。少女は頷いた。
「わかったわ」手首を奇妙な角度でひねった。「これでいい?」
少女の幼い身体は一瞬のうちにセーラー服に包まれていた。ある種の性的趣向を持
った人間にとっては、この姿でも落ち着く事は困難だっただろうが、とにかく圭介は
やっとまともに少女を見つめることができた。
「話を戻しましょう」少女は行儀悪く、地面にあぐらをかいて座り込んだ。白い下
着に包まれた細い太股がのぞき、圭介はまた目をそらした。
「えーと、何の話だっけ」そう呟いた途端に、今夜のそもそもの目的を思い出した。
「そうだ。君は本当にルシフェルなのか?」
「もちろん、違うわよ」馬鹿にしたように少女は言った。「あんないい加減な魔法
陣と呪文で、ルシフェルを呼び出せると、本当に信じてたの?」
「じゃあ、君は誰だ?」
「それを説明するのは難しいのよねえ」少女は頭を可愛らしく傾けた。「つまり、
この世界にはあんたたちが想像している以上に多くのものが存在しているの。あんた
たちには見えないんだけどね。まあ、精霊と呼んでもいいし、天使と呼んでもいいし、
悪魔と呼んでもいいわよ」
圭介の頭はようやく普段の回転速度を取り戻し始めた。
「じゃあ、どうしてルシフェルを召喚していたのに、そうじゃないのが出現したん
だ?」
「どっかの誰かが、下手くそな魔術を使ってるのが分かったから覗きに来たのよ。
暇つぶしにね。どんな奴かなあと思って」
圭介はがっかりした。やはり魔術というのは、そんなに甘いものではなかったのだ。
今夜はもう駄目だ。あきらめて、3カ月後に再びトライするか、別の方法を試すしか
ない。
「どうしたのよ」少女が訊いた。圭介は頭を振って答えた。
「わかったよ。満足しただろ。ぼくも帰るから、もといた所に消えてくれよ」
「まあまあ、そう慌てないで」少女は魔法陣の外縁ぎりぎりまで近寄った。「ルシ
フェルに何を頼むつもりだったのよ?場合によっては、仲介の労をとってあげてもい
いわよ」
圭介は躊躇した。だが、そうしていけない理由は思いつけなかったし、多少やけに
なっていたためでもある。促されるままに、これまでのいきさつを少女に話し始めた。
少女は興味の色を浮かべて、圭介の話を聞いていたが、さほど時間もかからずに片
想いの話が終わると、瞳を輝かせて立ち上がった。
「何だ。そういうことなら、わざわざルシフェルに頼まなくても、あたしが何とか
してあげるわよ」
「君が?」圭介は警戒するように言った。
「あんたは運がいいよ。あたしは人間の色恋についての魔術を専門にしてるんだ。
大抵の願いなら何とかなるわ」
「それが本当なら…」言いかけて圭介はあることに気付いた。「代償は何なんだ?
まさか、ぼくの魂とか?」
「もちろん、タダじゃないわよ」少女は考え込んだ。「そうねえ、あんたの魂なん
か貰ってもしょうがないしなあ。あんたの一番大切なもの、なんてのも駄目よねえ」
「あたりまえじゃないか」圭介の一番大切なものといえば、片思いの女子高校生に
決まっている。
「ひとつ訊きたいんだけど、あんたは彼女と、どうなったら満足なわけ?つまり、
どこまでいったらあたしは報酬を貰えるの?単に恋人になれればいいの?ファースト
キス?セックス?それとも結婚するまで?『時間よ、止まれ。お前は実に美しい!』
と叫ぶまでってのは駄目よ」
「結婚するまで面倒みてくれよ」少し照れたように圭介は答えた。
「それなら、こんなのはどう?あんたと彼女が結婚式をあげたらね…」少女は囁い
た。耳を傾けていた圭介は驚いた顔を少女に向けた。
「それだけ?」
「ええ」
「本当にそんなことでいいのか?」
「あたしたちは、人間みたいに欲が深くないし、そもそもあんたたちとは価値観が
違うの」気分を害したように少女は言った。「いやならいいのよ」
「わかった。それでいいよ。これで契約成立か?血で署名でもしようか?」
「メフィストフェレスじゃあるまいし。ただ、約束した、とだけ言ってくれればい
いのよ。証文も記録もいらないわ」
「確かに約束した」圭介は厳かに誓った。内心は小踊りしたくなるほど嬉しかった
のだが。
「もし、本当にルシフェルと契約してたら、こんなもんじゃ済まないわよ」少女は
何が楽しいのか、あどけない顔に輝くような笑みを浮かべてそう言った。「あんたの
魂だけじゃなくて、彼女の魂までもっていかれてたに違いないわ。あたしが現れたこ
とに感謝してね」
「ああ。ところで君を何と呼べばいいんだ?」圭介は訊いた。
「あたしには名前なんてないのよねえ」少女はしばらく考え込んだ。「そうね、ま
あグレーチェンとでも名乗っておきましょうか」
それはファウストが愛した少女の名前だった。