#2842/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ ) 93/ 2/12 6:15 (121)
児童文学探訪「へちまのたね」(1) 浮雲
★内容
*
いま、日本の児童文学は危機にある、といわれています。
第一に、子どもたちがそれを読まない(したがって売れない)。
第二に、すぐれた作品が書かれない(したがって読まれない)。
第三に、誰のために(というよりも、誰に向かってというべきだが)書くのか
、つまり読者対象があいまいになっている。
第四に、すぐれた評論・研究がない。
などに集約されるようです。
まず、三番目の問題について考えてみようと思います。
児童文学は、その名の通り、子どもたちを読者にした文学であることは言うま
でもありません。ところが、最近、「おとなのための童話」ということばが聞か
れるようになりました。おとなのこころに棲む「児童性=こどもごころ」に訴え
ようという意図によるものです。ですから、モチーフやテーマは、子どもたちに
理解されようがされまいが、問題にはされなくなります。
このような動きに対して、それを児童文学の発展とみる向きと、そうではなく
、一種の拡散状況であり、いわゆる境界線があいまいになりつつある他の文学(
芸術)と同じ問題としてとらえるべきだ、という見解とが交錯しています。
また、後者の立場をとる人たちにとっては、「おとなのための児童文学」では
なく、「童話」という掲げ方についても、異論があるようなのです。
もしそれが、「童心主義」への舞い戻りであるとすると、ある意味では保守回
帰にもつながり、憂うべきことだと懸念されているのです。
そこで、「童話」と「児童文学」は、どう違うのか。そのことを見ていきまし
ょう。
*
日本において、それまでのお伽噺や絵草紙から抜けでて、「近代童話」と言わ
れるものが確立されたのは、明治の後半から大正にかけての鈴木三重吉による「
赤い鳥」だというのが定説になっています。
俗悪な大衆文化から純真な子どもたちを護れ、これが三重吉らの掲げたコンセ
プト(基本理念)でした。いわゆる「童心主義」とよばれるものです。
しかし、明治から大正にかけて、「富国強兵」の矛盾のたかまりとともに、人
権意識や労働運動が高揚する中にあって、小川未明や浜田広介らは、「童心主義
」が何も解決しないことを知らされたのでした。しかし、未明は、代表作「赤い
ろうそくと人魚」に端的にみられるように、個人を描くことでは従来の「童心主
義」を越え、文学的な発展を示したものの、一般に「象徴童話」と呼ばれる方向
へと筆先を向けたのでした。それは、時代を生きる子どもたちの生き生きとした
生活や人間性を、生きた過程そのものとして描写するというよりは、人間として
あるべき姿(=結論)を提示したものでした。暗い生活から逃れる方法について
触れずに、一気に安住の地を作品世界に求めたのです。理想主義的な傾向を強く
持ち合わせていたのは、そのせいでもあったのです。
また、昭和はじめに隆盛をみた「プロレタリア児童文学」は、直接子どもたち
に訴えようとして点では画期的ではあったのですが、子ども=労働者予備軍、と
いうとらえ方が強く、文学としては底の浅いものにとどまったのでした。
*
戦後直後、「近代童話=象徴童話」は、平和と民主主義を旗印に、いつときの
隆盛を誇りましたが、朝鮮戦争と前後して、世に氾濫しばめた、いわゆる「通俗
読物」によってことごとく退けられてしまったのでした。多くの童話作家たちは
、「俗悪な通俗読物」を非難しましたが、それよりもなによりも、子どもたちが
「おもしろさ」を選んだ結果だというべきでしょう。
食うためにエネルギーの大半を費やし、一方で戦争の恐怖を拭い切れていない
当時にあって、うわついた理念をふりかざすだけの「よい子童話」が振り向かれ
なかったのは、当然といえば当然のことでした。平和と民主主義というまったく
新しい旗を掲げながら、その子ども像は旧態依然とした「童心主義」から抜けで
ていなかった、そのことの結果でもあつたわけです。
また、当時わずかではありましたが、すぐれた児童文学作品が書かれましたが
、そのほとんどが児童文学作家ではなかったことに注目すべきでしょう。(「ノ
ンちゃん雲に乗る」「ビルマの竪琴」「二十四の瞳」など)
そうした中、「通俗小説」に負けない児童文学は「近代童話」からけつ別する
ことからしか生まれない、と考えがえる人たちが現れました。そして生まれたの
が、「現代児童文学」と呼ばれるものだったのです。担い手たちは、大学のサー
クルや同人誌を中心にした、若い人たちでした。古田足日、山中恒などなどです。
そして、現在の日本の児童文学の主流は、この「現代児童文学」の流れを汲む
ものといってよいでしょう。
もっとも、「象徴童話」が、完全に壊滅したわけではありません。ある意味で
は、一方の旗頭として、現在も確固たる位置を占めていることは否定できません。
それは、「近代童話」からけつ別しよう、という問題提起が十分に論議されな
いままこんにちに至っている、という証でもあり、それが現在の「低迷」の遠因
でもあるといってよいかと思います。
こうして、概括してみると、「おとなのための童話」とは、「近代童話」が現
代に蘇ったものをさすように思われがちですが、そうではありません。まったく
異質なものです。
ですから、おおざっぱにいうと、日本における児童文学の流れとしては、大き
く三つに分けることができると思います。
1)「近代童話=象徴童話」の流れ。
2)「近代」童話からけつ別した「現代児童文学」の流れ。
3)おとなの児童性に向けて書かれる「童話」の流れ。(新しい流れ)
こんにちの日本における主流は、1)と2)ですが、そのいずれもが、低迷に
あえいでいることは、冒頭にのべたとうりです。
では、3)だけが活況を呈しているのかというと、残念ながら、いまから三十
年前に「近代童話」に「さよなら」を告げた「現代児童文学」が持っていたよう
なエネルギーはみられません。むしろ、日本の児童文学の危機の裏返し、という
ことができるのではないでしょうか。
このことについては、おいおいくわしく見ていくこととして、先に進みましょ
う。
*
子どもたちは、なぜ本を読まなくなったのでしょう。それについて、「日本児
童文学」という月刊雑誌におもしろいはなしが紹介されていました。
あるPTAでの集まりに出席したお母さんたちのあいだで、子どもたちはなぜ
本を読まなくなったのかという話になったというのです。要約すると、
1)読んでも読まなくてもよい本ばかりだから。
2)塾や勉強で忙しくて、本を読むひまがないから。
3)ほかにおもしろい遊びがたくさんあるから。
などの意見が出されたのですが、1)のお母さんは、重ねて「本は楽しくない
」と断言したのです。
この逸話には、いろいろ重要な問題が含まれています。
なにかというと、マンガやTVに犯人を押し付ける風潮がひところありました
が、それでも最近はそのような乱暴なことを言う人は少なくなりました。でも、
3)の発言をしたお母さんの頭には、そのことがかすかに残っていたのかも知れ
ません。
ところで、問題は「おもしろい本がない」というところにあります。つまり、
くだんのお母さんは、客観的な事情に原因をなすりつけるのではなく、児童文学
の質=作品、にその原因を求めたのです。読者である子どもたちを忘れ、ひとり
よがりな、閉じられた世界の物語を書いていやしないか、現実の世界から遊離し
たところでふんわり甘いだけの世界を描いてやしないか・・・、そのことをつき
つけたのではないでしょうか。
そのお母さんは、こうも言っています。
「よい本があったら、どんどん読むわよ。だってさ、子どもたちは本を読みた
がっているのよ。どんな子どもだって、もっと強く優しく賢くなりたいのよ。
つまりもっと人間らしい人間になりたがっているのよ。それは昔も今も、変
わらないのよ。だって子どもだって人間だもの。」(93年2月号)
−つづく−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
参考文献
「現代児童文学論」古田足日 くろしお出版
「日本児童文学」93年2月号 文渓堂
2/10