AWC ママ・テレビ 4 NINO


        
#1700/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (HYE     )  89/ 7/21  18:11  (170)
ママ・テレビ  4     NINO
★内容



 ミドリは店の掃除をしていた。鍵のかかっている入り口にジャージ姿の男が立ち、
ミドリを呼んだ。
「すみません」
「海音寺さん」
 ミドリはモップを手放し、ドアに走った。カランと音がした。ミドリは鍵を開けた
が、海音寺は入ってこなかった。
「うまくいってますか」
 ミドリは驚き、思った。相変わらず、重い声だ。こんな格好でも、長年染み付いた
態度は失わないものなのだ。海音寺さんは変わっていない。
「いえ。春樹さんは余計に酷くなっている様子で」
「そうですか」
「あの。奥で座って話しをしませんか」
「いえ、結構です」
「そうですか。……それで、今日はどういう要件で」
「春樹を頼んだことなんですが」
「はい」
「もう、やめにしてください」
 ミドリは酷く疲れを感じた。金が入らないせいでなく、また、昨夜の睡眠が足りな
いせいでもなかった。目標を失ったのだ。
「会社が倒産したといっても、貴方との約束の金は払います」
「だったら……」
「私のところに住まわせます。あいつには働くことなんて出来ない」
 じゃあ、私の子のお腹の子はどうするの。ミドリは口にだしかけてやめた。すべて
は春樹の心を直すためだというのに……
「まだ、一人くらい食わしていくだけの収入はあります。……私もまだまだ働けるん
ですね。工場に勤め始めてから、自分でもびっくりしましたよ。こんなに俺はやれる
じゃないか、って」
「まってください」
「考えを変える気はありません。貴方も知ってる通り」
 海音寺は笑った。
「今度、そちらの住所を教えてください」
 ミドリは教えることは簡単だが、そうしてはならないと思った。ぎりぎりまで引き
伸ばさねばいけない。まだ八方手を尽くしたわけではない。このまま春樹を渡したら、
自分の負けだ。
「……海音寺さんはどちらにお住まいですか」
「私ですか。I川の向こう側にあります。ちっぽけな部屋です」
 海音寺は疲れたように笑った。大柄で骨っぽい海音寺が、こんな表情をするとは思
いもしなかった。
「……開店の前なんですか? 良かったら、おにぎりを売ってくれませんか。まだ、
朝食を、取っていないもので」
 その声にはまだ、例の人を圧するような威厳があったが、ミドリは酷く貧乏臭く感
じ、嫌悪した。

 店の客が少なくなり、雑誌を立ち読みしていた客も帰った。ミドリは商品棚を整理
してから、レジの前に立ち、窓の外を走る車を見ていた。ミドリは疲れが一度に出た
ためか、耳鳴りがした。そしてまぶたを閉じると、栗本春樹がいて、《母さん》がい
た。背広とジャージ姿の海音寺がいた。ミドリは、自分の頭の中から言葉がなくなっ
ていって、考えることができなくなる、と思った。
 不意に自動ドアが開き、店の機械が『いらっしゃいませ』と言った。
「やめて!」
 ミドリは自分でもわからないまま、叫んだ。それは引き金で、ミドリの薬莢に火を
つけ、彼女は弾丸のようにはじき出された。客は驚いて彼女がドアを抜けていくのを
見詰めた。ミドリは錯乱し、動揺し、混乱していた。ただはっきりしているのは走り
出したいことだけだった。何処か遠くへ。月の裏側より遠くへ。
「あぶない!」
 ミドリを見ていた客がそう言ったとき、ミドリは国道の真ん中に飛び出していた。


 春樹は一週間何も食べず、牛乳のあるうちはそれを飲み、なくなってからは水を飲
んで暮していた。朝目覚め、《母さん》と会話し、夜になると眠った。一歩も外にで
ず、ミドリが帰ってこないことにも気付かなかった。
 次の朝、春樹はテレビィのスイッチをいれた。
「おはよう。《母さん》」
「おはよう」
「調子はどう、《母さん》」
「別に普段通りさ。少しお腹が空いているだけ」
「《母さん》もお腹が空いてるのかい。ぼくもそうなんだ」
「ミドリさんはどうしたんだい」
 春樹は突然思い出した。そうだ、《母さん》に言われるまで気付かなかったけど、
ミドリはどうしたんだろう。ずっと帰ってきていないな。三日か、四日になるだろう
か。それとももっとになるかな。
「そうだ。ミドリがいない。ミドリは何処いったんだろう」
「そんなこと、母さんが知るわけないさ」
「そうだね。僕、ミドリを捜しにいってくる」
 春樹はひきだしを開け、札を握り締めてポケットにいれると靴を履いた。彼は、ぼ
んやりして静止したままの《母さん》をちらりと振り向き、
「すぐ帰ってくる」
 春樹は空腹のせいで立ち眩みがしながらも、走り出した。

 春樹はT駅の方に出て、ミドリの働いていた店を探した。だが、全く見当たらなか
った。春樹はその店に一度も行ったことがないことを後悔した。水かびの生えたコン
クリートで囲まれている路地裏に入っていき、幾度かポリのゴミバケツにつまずいた。
中華そば屋の前に出してあった植木を倒して、それを立て直し、ついに春樹は息が切
れて走るのをやめた。
 よたよたと歩きながら彼は交番を思い付き、交番が何処かを探した。歩く道の脇は
すべて店ばかりで、交番が見つからない。歩く人々は春樹の寝間着を見て、避けるよ
うに歩いた。春樹にはその縞柄の寝間着が、ゴミバケツにつまずいたときに酷く汚れ
ているとは気付かなかった。
 四十分程たっても交番は見つからなかった。同じ場所を数度行き来していた。その
時の春樹には、歩いている人に交番への道を尋ねることも、ミドリの勤めていたコン
ビニエンス・ストアの場所を聞くことも思い付かなかった。
 しばらくして春樹は空腹を感じて、中華そばの店に入った。なんでもいいから、大
盛りを下さいといい、店員は困った顔をしたが、春樹にラーメンを持ってきた。何処
かに消えかけていた空腹感を、今日になっていきなり取り戻した彼にとって、大盛り
のラーメンは腹を痛めつけただけだった。何しろ、ラーメンを初めて食べる彼にとっ
て、ラーメンは未知のものが多過ぎた。しなちくも、チャーシュウも手を付けず、春
樹は麺の大半を残し、勘定を済ませて外に出た。
 外は全く見当のつかない世界だった。春樹はミドリを探す前に、自分の住んでいた
アパートを探さなければならなかった。何処かおかしな場所に舞い込んでしまった。
春樹はあちらこちらを探しているうち、何もかも判らなくなっていた。
 春樹はいくら歩いても自分のアパートにつかないために、再び腹が減った。そして、
軽食を食べさせる喫茶店に入り、ホット・サンドのセットを頼んだ。酸味ばかりやけ
に強く、香りのしないコーヒーを口に含み、春樹はあまりの不味さに、吐き捨てた。
 店を出ると、辺りは暗くなり始めていた。多くなった人通りを見ているうち、ぼん
やりと煙草を吸いたくなった。春樹は行きかう人々の、口先に点しているオレンジの
光りにひかれていた。タバコという看板を見つけると、春樹は札を出して一箱買った。
もっと値の張るものだと思っていた彼は、お釣りの多さに驚き、もう一箱買った。一
箱の本数を数え、それが二十本もあるとわかると、あらためて一本の安さに驚いた。
そして火をつけることができないまま、春樹は煙草をくわえていた。
 何度か通った商店街を抜けたとき、T駅が見えた。T駅の売店でライターを見つけ、
買い、くわえていた煙草に火をつけようとした。煙草はちりちりとケムを出すだけで、
ちっとも火がつかなかった。やがて春樹は息を吸うことで火がつくと気付いた。紫煙
が出ると、春樹はその煙も吸い込んでみた。それは、吸い込むというより、飲み込ん
だに近かった。春樹はむせて、咳をした。
 春樹は、ようやくアパートへ帰れると思った。ここからの道なら、自分にも分かる。
彼は歩きながら煙を吸ったりはいたりして、弄んだ。そうやって、口に煙を溜めてそ
れを吐き出しているうち、不意に肺に入り、咳をした。煙草のせいなのか、少し血が
冷たくなったような、ぞっとする感覚があった。
 春樹は自分の、このけだるさを思った。そして、何のために走り回ったり、歩き回
ったのかを考えた。何の役にも立たないことに、自分はあくせく汗をながしている。
ミドリが見つかったからって、どうなるんだろう。どうしてミドリを探すんだろう。
母さんがいれば幸せだったのに、どうして今、惨めに思うのだろう。虚しいなんて考
えるんだろう。
 考えているうちに、春樹はアパートについた。アパートの手前にある自動販売機の、
真っ赤な色の缶に目を奪われ、そのジュースを買った。薄暗くて肌寒い時間に、その
缶は冷たすぎた。春樹は右手と左手で交互に持ちかえながら、部屋に入った。
 《母さん》はじっとそこで光っていた。ぼんやりとした部屋の内部が、一つ一つの
家具が、まるで死んでいる。春樹はテレビィの前に、自分の姿を想像した。喉の下か
ら、込み上げるような不快さが感じられた。靴を脱いで台所のテーブルにつくと、缶
を開け、一気に流し込んだ。彼はその間中、テレビィの方を見ていた。そのまわりに
出来る青い光りが、想像上の、もう一人の春樹を形作っていた。ひりひりするほど冷
たいその炭酸飲料は、飲み干した後に、彼にさらに激しい渇きをもたらした。
 と、ドアを叩く音がした。同時に春樹を呼ぶ声がした。春樹は聞き覚えのある男の
声だと思った。
「春樹、いるか。春樹」
 春樹はそれが誰の声か思い出せなかった。だが、確かに自分は相手を知っており、
相手も自分を知っていることだけ分かっていた。春樹は耳を塞ぎ、身を屈めた。
「春樹、春樹」
 どんどんという、低いドアの音が彼の心臓を高鳴らせた。春樹は自分の心臓の音を
聞き、ノブをガチャリとひねられる音を聞いた。
「春樹」
 ドアの外に、油塗れの作業服を着た中年がいた。その男は屈強そうで、たくましい
体をしていたが、春樹は貧乏そうに感じた。人生の敗北者だと感じた。
 春樹には世の中の仕掛けが、すべて、手に取るように見えたような気がした。煙草
屋のおばさん、ラーメン屋の店員、T駅の周りを歩いていた人々、喫茶店のウエイト
レス、荷物を積み降ろしたりする人……総てに仕掛けられたものが、この男の姿を見
た途端、分かった気がした。
「春樹。来るんだ。お前は、私の家で暮らす」
「誰だお前。いったい誰なんだ」
「忘れるわけがないだろう。お前の父親だ」
「父親なんていないぞ。僕には母さんしかいない」
 春樹はテレビィに駆け寄り、意識してキイパットを持った。
「なあ《母さん》。僕に父親がいたか?」
「いないさ。もう死んだ。事業に失敗してね」
 小汚いブルーの作業服を着たその男は、口をつぐみ、立っていた。じっと春樹を見
ていた。
「自殺だって話しさ。母さんが聞いたところではね」
「そうだろう。僕に父親がいる訳ないんだ。《母さん》、この男が、僕の父親だって
言うんだ。変だろう」
「そうさ。お前の父親は、こんな奴じゃないさ。だまされちゃいけないよ」
 玄関に立った男は拳を握りかけ、やめて、後ろを向いた。そのまま、振り返らず、
男は立ち去った。
「父さん。僕だって馬鹿じゃない……」
 作業服の男の後ろ姿にそう言い、春樹はテレビィを抱きかかえた。


         つづく




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