AWC 赤ゲットの記


        
#1694/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (NCB     )  89/ 7/18  11:34  ( 49)
赤ゲットの記
★内容
 所はロンドン、セント・アーミンズ ホテル  516号室。時あたかも5月
28日、午後6時半。おりしもバスルームの中では、一人の中年男が、一糸ま
とわぬあられもない姿で、何やらぶつぶつ言いながら、懸命に体を動かしてい
る図を想像し給え。男は大きなタオルで床のタイルに溜まった水を取り除こう
と、汗みずくになって奮闘中なのである。ことの次第については、あるいはお
分りの向きもあろうと思われるが……。
  同室のT氏が終わったので、彼は勢いよくバスルームにとびこんだ。浴槽に
お湯をはりながら、日本古来の入浴の作法通りタオルお湯にひたしては、体の
下を念入りに洗い始めたものである。その日は真夏のような暑さのため、ずい
ぶん汗を流したので、今度は石鹸をつけて丁寧に体をこすり、浴槽から湯を汲
み出しては洗い流すこと十数分。
 ふと、タイルの水の異常に気が付いた。流れていくはずの水が、だんだん溜
まってくる?
あっ、そうだっ。思いだした。体は浴槽の中で洗うこと、浴槽の外には排水口
はないから、タイルに溜まった水は必ず部屋の方へ流れていくということを。
これらは、出発前にかなり念入りに注意を聞かされていたことだ。
「さあ、たいへんだ。」
あたりを見回すと、隅の方にタイルの隙間が見える。水がそこに届いてしみこ
んだら、えらいことになる。ここは五階、下の泊り客への迷惑もさることなが
ら、目玉が飛び出るほど損料を請求されたという失敗談も聞かされている。も
う、一刻も猶予はできない。それにしてもまあ派手に水を汲み出したものだ。
とにかく一滴たりとも、あの隙間に水を入れてはいけないのだ。とるものも取
り敢えず傍らにあった、湯上がり用のタオルを使って、溜まった水を床の中ほ
どに集める。それをタオルに吸わせて浴槽の中で搾ろうとするのだが、バカで
かいやつだから、一度には出来ない。端の方から搾ろうとすると、残りの部分
から、やっと吸わせた水が気前よく元の所へ垂れてしまう。結局小さなタオル
の方が能率がいい。何度も何度も同じ事を繰り返すが、水は一向に減りそうに
ない。流れる汗までが、床に溜まってくる感じ。
「Kさん、もう時間がないぞ」
部屋の方からTさんが呼んでいる。涼しげな声が癪の種。夕食は7時だ。汗が
とめどなく体中から流れ落ち、石鹸水と混じって容赦なく目の中に入りこむ。
もう何のために風呂に入ったのか分らない。
 かくして汗と涙の十数分、筆舌に尽くせぬ苦労の甲斐あって、水はあらかた
なくなった。体を拭く間もあらばこそ、汗の滴り落ちる体にワイシャツをつけ
ネクタイをしめる。新しい下着はすでに汗ビッショリ。そう、靴下がまだだ。
それから上着……。
 ドアをロックしてエレベーターへ急ぐ。旧式のエレベーターなのでスピード
が遅く、なかなか上がって来ない。とても待ち切れず、階段を一階まで一気に
駆け降りる。ロビーではみんなゆったりとくつろいで、談笑している。
「ああ、間に合った。」
深々と深呼吸をして、ふと足元を見ると、
「しまった!スリッパを履いてきてしまった。」

 ロンドンの紳士淑女は、革靴をはいてディナーを召し上がるのである。

 Kさんのぼやきを聞いてください。
「あのね、ロンドンのレディーズ アンド ジェントルマン、湯上がりに浴衣
がけで冷えたビールをきゅーっとひっかける、あの爽快さをご存じないんです
か。」




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