AWC 水虫        やまと あつし


        
#1686/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (YDA     )  89/ 7/16  21:49  (154)
水虫        やまと あつし
★内容

               <1>

「やだーァ、水虫なのーォ」
 夏目邦男は口を滑らせたことを後悔したが、もう遅かった。なんとかこの場
を切り抜けなければならない。せっかく苦労して職場の若い女の子を飲みに誘
い出すことが出来たというのに、浮かれた気持とアルコールが手伝って、なん
となく軽い気持で喋ってしまった。しかし、これほど嫌われるとは思わなかっ
た。それに、もともと気が弱い質なので、ますますあわててしまった。相手は
女房ではないのだ。あいつなら水虫を何とも思わないのだが、それにしても全
く迂闊だった。
「水虫って移るんでしょーォ」
 上杉恵子は、仕事の時にはてきぱきした話し方をするのだか、少しくだけた
話になると、語尾を引きずるように少し甘えた話し方になる。
「いや、たいした事はないんだ。そんなに簡単に移ったりするもんじゃないん
だよ」
 恵子は先程までは少し顔を寄せて話していたのだが、今はもう上半身を離す
様にしている。きれいに伸びた髪を片手でかき上げながら、少しけげんな表情
をしていた。まずい。甘えたように見えてもかなり気位の高いところがあるよ
うだ。
 と、急に。
「アッ、それなーに。その指のとこの白いの。それも水虫じゃないーッ」
 不意を突かれてうろたえてしまった。
「ああ、これ。これは水虫じゃないんだ。水虫というのはね、こんな指の真ん
中にできたりはしないんだよ」
(そうそう、こうやって物知りげに言いくるめてしまえばいいのだ)
「水虫というのはね、指にはめったに出来ないんだけど、もし出来るとしても
指の付け根とかの部分なんだ。これはただの汗疹かなんかじゃないかな」
 自分でも半信半疑の知識だったが、どうせ恵子は知らないのだから自信を持
って話せばいい。
「じゃ、足はどんなになってるのォ」
 どうも話が悪いほうに行ってしまう。
「もう殆ど治ってしまったからねぇ。以前は皮がポロポロと剥けてきたけど、
いまは水虫とは言っても、綺麗になったから殆ど解らないよ。もう少しで完全
に治ってしまうんだ。いやあ、水虫というのはしつこいからね、治すのに随分
と時間がかかったよ」
 これは真っ赤な嘘である。結婚する前から女房にはしつこく治すように言わ
れているが、一度も治療などというものをした事がない。しかし、女房の小言
の言い方は最初から受け入れた言い方だった。彼女の父親が水虫だったことも
あって、体質的に移らないと知っていたせいもあるのだろう。
「そーおォ・・・・。でも、私に触らないでね!!」
 最後の一言は事務的なきつい言い方だった。(ああ、こんな筈じゃなかった。
話題を変えよう)
「潔癖なんだな君は。すると毎朝、朝シャンしてくるタイプだな。朝シャン専
用の洗面台があって−−−−−−−−−」
(ああ、彼女との下心ある関係はもう期待できなくなってしまったか。まあい
い。しかし、水虫は治しておこう。いつ何があるかもしれないからな)夏目は
話しながら、心のなかでそう決意していた。

               <2>

 今は、医者の数が過剰だとかいうのを新聞か何かで読んだような気がする。
そのせいかどうかは知らないが、随分と夜遅くまでやっている病院があるもの
だと感心した。少しばかりの残業が終わって、ネオンが点滅しはじめた夕暮の
通りを、皮膚科の病院はどこかにないかと、ビルの看板に目をやりながら歩い
ていると、「皮膚科」の文字が緑色のネオンで光っているのが見えた。エレベ
ーターで上がって行くと、待合室や受け付けの回りに観葉植物がたくさん置い
てあった。BGMも流れていて、随分と洒落た雰囲気だ。
 順番が来て診察室に行くと、待合室の印象を裏切るような、かなり高齢の白
髪の医者がいた。今日は水虫かどうかを確認するため、菌の培養をやってみる
とのことで、治療はやらなかった。すぐ薬をもらえると思っていたので、少し
拍子抜けしたような気持だった。

「今日皮膚科へ行ってきたぞ」
 食卓でビールを飲みながら言った。
「えっ、どこか悪いの?」
 芳子は料理の手を休め、きょとんとしている。小柄だが少し太っている女房
は、陽気で勝ち気な感じのする大きな目を、さらに大きく開いていた。あれ程
しつこく言っていたのにと思うと、邦男は苦笑してしまった。
「水虫に決まってるじゃないか」
「えーっ。何でまた急に行く気になったの」
 芳子は驚きながらも嬉しそうに笑っている。
 さて、本当の理由を言うわけには行かない。
「まぁ、その、なんだな。つまりエチケットという事もあるし、人間は清潔で
なければいけないと思ってね」
「なーに言ってんのよ。会社の女の子になんか言われたんでしょ」
(えっ。だが、当てずっぽうで言ってるだけかもしれない)
「まァ、そういう事にでもしておこうか」
「へえーッ、偉そうに。治すには根気がいるのよ。いつまで続くかしら?」
 邦男は気が弱いというか、良く言えば「優しい」という言い方も出来るのだ
が、そのせいか正反対の性格の女性に引かれてしまう。女房からは、いつも高
飛車に見透かされたようなことを言われるのだが、それもまんざら不愉快とい
うわけでもなさそうだった。
「もちろん、完全に治るまでさ」
 ハッタリで言っているなァと自分でも思う。
「どォーかな。ヘッ、ヘッ、ヘッ」
 女房はサラダの盛り付けをしながら、すでに勝ち誇ったように言う。もう完
全に馬鹿にしている。

               <3>

 薬を塗るくらいの事は自分でも出来るのだが、病院で塗るときは、殺菌のた
めの紫外線を足に照射した後で、若い看護婦が丁寧に指で塗ってくれた。最初
のうちは、それこそ水虫が移らないだろうかと心配になった。しかし、塗りお
わるとすぐに手を洗っているし、病院のやることだから大丈夫なのだろう。
「だいぶ良くなりましたね」
 看護婦が声をかけてくれた。
「おかげさまであと一歩です」
 邦男自身、これ程までに良くなるとは思ってもいなかった。何しろ水虫とは
長い付き合いだったのだ。治療を始めてから一ヵ月くらい経っただろうか、水
虫とともに生活してきた月日を思うと意外に早く治るものだと思った。もっと
時間のかかるものなら、果たして根気よく通院できただろうかと思う。もう水
虫の形跡は殆ど無くなっていた。
(もっと早く治療しておけば良かったかな)とも思った。

「治るものなのね。私のお父さんときたら治療はかなり難しいようなことばっ
かり言ってたから、そういうものだと思ってた。あなたも少しは見上げたとこ
ろがあるのね。これで靴下を履かないでアレが出来るわ」
 アレとはもちろん夜のアレの事である。移らない体質と分かっていても、初
めての時以来このような習慣が出来てしまった。女という奴はすぐこういうこ
とを考えるものなのだろうか。アレの時、靴下を履いていないからと言って特
に変わったことをするわけでもないのだが。

               <4>

 足がすっかり綺麗になってから、いつとはなしに病院から足が遠退くように
なっていた。治ったように見えても、菌はまだ生き続けているので、しばらく
は通院する必要のあることは分かっていた。しかし、医者からもらった塗り薬
の残りがだいぶあったので、自分で塗っていればわざわざ通院しなくてもいい
じゃないかと、何となく都合のいいことを考えていた。それがいつの間にか、
もう治ったんだと思うようになってしまった。
 ある日、風呂からあがったとき、足に痒みを覚えて再発を知った。しかし、
その時もなんとはなしに、そのままにしていた。やがて水泡が現われてきた。
「今日はどうして靴下を脱がないの?」
 身体を重ねていったときに聞かれてしまった。
「再発しちゃったんだ」
「なんなのよ、治ったんじゃなかったの」
「完全じゃなかったみたいだ」
「馬鹿じゃないの!せっかくあそこまで良くなったのに。病院に行ってなかっ
たんでしょ!」
「まあそういうことだ。」
「やれやれ。あなたのやる事はそんなものね!」
 呆れたような、それでいてどこか嬉しそうにも見える表情をしていた。
「本当に馬鹿みたい。これからどうするの。治療するんでしょうね! いまま
での治療費が無駄になっちゃうじゃないの!」
「ああ」
@力なく返事をすると、女房の真ん中が少し窪んだ乳首を指先でいじりながら、
もう一度治療してみようかと、何となく考えていた。

 次の日は、残業もなかったのでいつもより早く退社できた。外に出ると、ビ
ルの間から赤く染まった夕焼け雲が空いっぱいに広がっているのが見えた。ま
だ空の明るさが残っている街路に、緑色をした「皮膚科」のネオンが淡く光っ
ているのを見上げながら、邦男は何となくためらってしまった。
(水虫は、このままでいいのかもしれない。女房に小言を言われ、会社の女の
子からは嫌われる。わたしは水虫みたいな、何か後ろめたいようなものを持っ
ていたほうがいいようだ。ちょっと腑甲斐ないかもしれないが、今迄の自分の
でいいじゃないか)
 夕暮の薄明るい舗道の人込みの中を、女房がどんな顔をするだろうかと想像
し、ひとり苦笑いを浮かべながら「皮膚科」のあるビルの前を去っていった。

                完
                         作品 NO.3

 〜Θ−Θ〜  やまと あつし ID:YDA49104




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