#1665/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (UMC ) 89/ 6/29 20:46 ( 69)
穴のあいた幸せ 野水 じゅん
★内容
非常に常識的な話しだが、幸せが不幸と隣り合わせている事は確かと思う。
幸せについていえば、大きい幸せ、小さい幸せ等と云ういい方は適切ではなく、どう
幸せを感じるか、又は考えるかであり、あるのはその状況だけなのかも知れない。
いつか、誰かの随筆で、「人が話をするには、最低限の小さな幸せが必要だ」と云う
ような文章をよんだが、本当にその通りだと思う。不幸に押しつぶされている時は、
容易に話さへできないだろう。ただ、そんな時をのぞけばいつでも私達は幸せを感じ
られるのではないだろうか。
この机の横には水の色が緑に変わった金魚の水槽があり、その中で数匹の雑金魚が、
毎日元気よくきらきら身体をかがやかせて泳ぎ回り、あるいは満ちたりゆったりして
幸せそうな姿が見られる。当然高度な意志はないだろうが、ほんの一寸した変化にも
死と向かい合わせながら、小さな単調な世界にせい一杯生きており、それなりの命の
幸せを見るものに感じさせる。
ひるがえって自分の身を思ってみても、それと基本的にはあまり違いがないのでは
とも思われる。自分にかえり、気ままに出来るわずかな時間と空間である机のまわり
が、自分の幸せを生み出す場となっている。此処が孤独に、そして自由に考える楽しさ
や悩みを与えてくれる幸せの小さな場所だ。
取るに足りないものではあるが、自分の幸せはここにあり、自分自身の喜びを生みだす
源泉なのだと思わざるを得ない。
小林一茶に、「めでたさも中位なりおらが春」という有名な俳句がある。色々味わう
ことは出来るだろうが、私にはこれが理想的な幸せではないかと思われる。
大きな、最高の幸せの大部分は、達成したその瞬間から幸せではなくなってしまう。
最高を望むことは自らの限界と運を信じ、永遠に幸せを外に求めつづけることで、手に
入れた時から次の最高を追う。それが満たし得ない不幸感を自らに負うことになるのは
一面の真理であり誰でも知っているだろう。
当然、幸せを内に求めていては理想の追求はできず、活力のない世になってしまうし
此処まで進歩したのはその活力だとの意見も正しい。
それを達成出来ることが幸と考え、それが出来る人はおおいにチャレンジすべきだ。
その道程も充実感に満ちたもので、結果として幸せを得られるかわからないけれど、
邁進する事が幸せとも言えよう。
また不幸を克服しないで、不幸を考えないで幸せの話など出来ない、と言う人もある
だろう。多くの不幸は努力によって跳ねかえし、立ち直ることが出来る場合がある。
しかし、努力の外にある不幸については時間にすがるより仕方なかろう。
出口の見えない不幸に見舞われた時、消極的ではあるが出来るだけそれを考えないよう
にして自らを落ち込ませず、運命にゆだね時にすがるほか道を知らない。不幸には
一面で人の力の及ばない底の知れないおそろしい力があるからだ。
それにくらべると、中くらいの幸せは身近にどこにでも満ちている。それはいつでも
どこでもその気にさえなれば、手がとどき、感じ、楽しむことが出来る。
ただ、我々はその現状に感謝すること、その喜びを思うことを忘れかちであり、常に
新しい幸を、どこか目の先に思い描いていることが多い。同じ幸の中にも更に深い、
そして広い幸がいくらでも隠れていることを忘れがちである。この無限にある幸を何時
でも感じ、喜ぶことの出来る事が幸なのではなかろうか。
幸せの条件は、健康な身心と好奇心、それをよりよく働かせる前向きの情熱、又は気力
があれば充分だろう。それによって自らの内を開拓し、喜びを享受しうる自分を育てて
行けない事はない。
幸せは自らの内に求め、外に求めるべきでないことは古今の哲理であろう。
人の世は必ずある程度の不幸が、物事の裏腹にかぶさっているもので、それに押しつぶ
されないかぎり、また押しつぶされないためにも、自らからの幸せをよろこびの糧とし
て生きるべきではなかろうか。
そしてそれが出来るなら、自分の出来る範囲と、仕方によって自分の外に幸せのおすそ
わけを何等かの形でしていけば良いだろう。何故なら、自らが幸せを感じられるのも、
有形無形の外からの影響で成っており、世間とのつながりが自らの喜びにつながるもの
だと、宗教家ではないが実感するからである。
ただ満足するだけでなく凡人たる我々も目標、理想はおのおのもつべきで、それに向け
全力を投じていくことは、幸せを支える意味から非常に大切である。
しかし、ひとつ提案するとすれば「穴のあいた目標、変形の理想」と成っても不幸と
思はない心掛けを持つことの重要さをあげたい。
人生いたるところに青山ありではないが、努力の結果が初めの目標に達しない時でも、
次の時点での幸せ、又は別の視点での幸は必ずある。それさえ忘れることなく感じら
れる自分であれば、他と較べ世の不当を憤る事は少なくなり、また新たな理想も出来て
来るものだからである。
完
ID:62826 野水 淳