#327/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ ) 87/ 9/10 8:23 ( 58)
詩篇 空中の書17 直江屋緑字斎
★内容
<エリニュスの裔(すえ) 58行>
エリニュスの裔(すえ)
眷属(けんぞく)の声
幽霊を見ていた。
肉体と魂の分離の術を試みていたとき。
病人用の質素な寝台の白い敷布の上で、細い肉体を人形のように
静かに伸ばし、心臓の上で指を組む。半覚半睡の状態をめざし、
夢を見るようなつもりで、ただ意志だけを鞏固(きょうこ)にし
ている。やがて肉体の感覚が失われてゆく。いまだ、少年は考え
る。
いま、体を脱け出ることができる、と。
幽霊が訪うたのはこのときだった。
実験室のドアが、鍵のかかっているにもかかわらず、音もなく開
き、すでにドアの前に、白っぽい、やや薄汚れた長い布を纏った
男が眼を爛々(らんらん)と光らせ、漂うごとくに佇(たたず)
んでいた。
俺の胤、俺の分身、一族の者よ、幽霊は語った。いや、語ったわ
けではない。そのような思念を、心と心を結ぶ対話の術で、少年
に言葉を告げたのである。
俺は十年前に悪逆無道の罪人として、死を与えられた。爾来、悪
逆の念としてこの世を呪い続けていた。俺は特別な悪人だ。だが、
どうしようもない血を持った男だ。おまえの母親は自ら進んで、
この俺に抱かれたのだ。
少年は忌わしい緊張感などというものに囚われぬ自分に驚愕(き
ょうがく)していた。幽霊の語る言葉がよく呑み込めぬままに、
ぼんやりと寛いでいた。なつかしい匂いを嗅(か)ぐような気も
した。
覚悟の一服
海辺に着いたときには、すでに夕陽も翳(かげ)り、雲気が水平
線の向うから頭上の空にまで押し寄せてきていた。
灰色の砂浜がいっそう濃い翳(かげ)りと海からの湿った風を受
け、黒々とした影に変じてゆく。
少年の担いできた新品のテントは、夕闇の中に眩(まぶ)しいく
らい明るい黄色だった。
老人は何も言わずに荷を解くと、砂の上にばらばらに投げ出した
まま煙草に火を点けた。ひとくち、重そうな息をついて、その煙
草を少年の目の前に差し出した。
溺死に似せて
水の冷たさと殺意の衝動がぴったりと重なってくる。針のような
鋭さだと少年は考える。華奢(きゃしゃ)な腕のどこにそんな力
が潜められているのかという常套句。老人の光を失った瞳の奥に、
運命の受容とかに似た優しさのような表情が掠める。それだけだ。
ものの数分間の暗闇。赤黒い月は沖合にかかったまま、その数分
間を凝視している。観客はその月を通して光景を楽しんでいるの
であろう。充血した眼と白蝋のような顔。水の色にも似た死の訪
れ。