AWC 長篇散文詩 魔の満月7   直江屋緑字斎


        
#197/1850 CFM「空中分解」
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長篇散文詩 魔の満月7   直江屋緑字斎
★内容
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     長篇散文詩 魔の満月    直江屋緑字斎
              昭和52年9月書肆山田刊 改訂版
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2   (*2)

エルドレは周囲を見回して驚天する  誰もいないはずの船に一瞬
にして数十人の男が現れる  逞(たくま)しい躯(からだ)を陽
光に晒(さら)しながら忙しく走り廻っている  一人の水夫が檣
楼(しょうろう)見張所からするすると辷(すべ)り降りるとエル
ドレに向って駈け寄る  茫然としたエルドレは為す術もなく佇む
エルドレを気遣うものとてもない  だがその男は視線を合わせる
こともなく エルドレの躯(からだ)が空気であるかのように擦り
抜ける  エルドレもまた確かに船乗りを擦り抜ける  否 確か
なものなどありはしない  一切は一炊の夢 まさしく眩暈(げん
うん)のうちにある  これもまたあの灼熱(しゃくねつ)の国の
贈物サドラのなせる神秘の技であろうか  あるいは自ら幽境に徨
(さまよ)い出た結果なのか  見張りが航海の順調を告げると
屈強な男たちが甲板に勢揃いし車座に腰を下ろす  十数頭の山羊
や数十頭の鶏が船底から引きたてられる  十箇の酒樽が転がる
全身剛毛に蔽われた男が大きな刀で動物の首を刎(はね)る  甲
板がその血を啜(すす)ると酒盛が始められる  竪琴(たてご
と)が潮の甘い香りに誘われて武士(もののふ)たちの長い戦の唄
を奏でる  真紅に熟れた太陽を目指し鸛(こうのとり)の群が翼
を燃え立たせて飛ぶ  古えからの作法通りに漣(さざなみ)が船
縁(ふなべり)を叩く  物質の記憶はプラトーン立体のごとく壮
麗である  錬金術士の登場に始まり嬰児が鼠に噛み殺されるまで
時の嵐は悲哀そのものだ  数十人の暴漢に袋叩きにされる  叩
き伏されて婚姻届に捺印する  暁の鏡の中で健康な髭が頤(おと
がい)を包む  風を拗(こじ)らせ再び電話魔が出没する  白
粉で生活を塗たくる  鮟鱇(あんこう)の生肝を賞味するたびに
失恋の涙を零(こぼ)す  泣虫が片眼のジャックを捲(めく)り
ワイヤードを示すと小切手が乱れ飛ぶ  街路で器用に脚をあげ跳
躍しながら頭上で腕を交叉させると嫉妬深い女から解放される
脹(ふく)れっ面のモノマニアが哲学者は死んだと叫ぶ  栓抜き
で盲腸を手術すると死者は死につつある者として蘇る  墓は空っ
ぽだ  さあ婆やよ 寝台を暖めなくては  弟を伴い母親の寝室
に忍び寄るエレクトラよ  おまえはもともと何処から来たのだ
薔薇(ばら)色と灰色の絵によって要約せよ  ヴェスタ神殿の前
にある斜面になった公園を抜けて道化たちの弾いた白球が転がる
街はぎらぎら輝く太陽の下に果てしなく続く紙片に変わり 人々は
蟻のように右往左往し 自動車はあらゆる方向にぐるぐる回り 遥
(はる)か彼方ではベルが鳴り響く  期待は期待する  人体に
由来する原初的物質の臭気が全会葬者をすっぽり包む  午前一時
が鳴る  やがて列車は出発する  小肥りの大道具係が空中ブラ
ンコに跨(またが)る  おまえは何処から来たのか  船倉で催
された黒彌撒(ミサ)は青年を破滅に導く  縮れ毛を掻(か)き
上げると扁平で青白い耳朶(じだ)が現れ女給たちの失笑の的にな
る  牧人の提瓶に因(ちな)むデパス・アンフィキュペロンは三
半規管を内蔵した歴史の挺子(てこ)であろうか  崖から身を投
げると半索動物の巨大な糞が迎える  生ある化石三味線貝の触手
がもつれ汚染された鎮守府の夜は長い  聖ヨハネを佚(ま)つま
でもなく死者たちは死につつある者として蘇る  白鳥を抱くレー
ダーの産む卵こそ彼らを庇護(ひご)する船霊(ふなだま)である
膨らんだ帆の周囲でちらちらと赤い火が揺らめく  鬱蒼(うっそ
う)たる深山の樹々に生る疣胡瓜(いぼきゅうり)の形をした蛭
(ひる)のように 今にも首筋や肩や脇腹に喰らいつこうとして
一日交代の生命を満喫しようと船乗りたちの顔に貼(は)りつく双
児座の鬼火  プトレマイオスの“四書”テトラビプロスは航海の
神秘を開明する底本である  ピトルビウスは“星位によって人の
運勢を占い過去と未来をいい当てる術はカルデア人の計算法に委ね
られる”と述べている  魔方陣や友愛数など東方の文明を載せた
船の中でアルカナは奇怪な姿を呈する  亡霊たちはしこたま酩酊
(めいてい)し武士(もののふ)の栄光を甲板に吐く  いかなる
予言と命数法が定められているのだろう  鰻(うなぎ)のごとき
腰巻を払いのけ丸裸になった彼らの毛穴から酒気を含んだ汗が発せ
られ 噎(む)せ返るような獣の精気をあたりに充溢(じゅうい
つ)させる  赤く染まった眼がふわふわと漂う  巨神プロメー
テウスの息子デウカリオーンの手で放たれた瓦礫(がれき)は骨と
肉と血管を顕し荒々しい海の男を創造する  エルドレは跳ね廻る
彼らの躯(からだ)を通過しながら舳先(へさき)の方に歩む
物質と物質は混淆(こんこう)しない  エルドレは幻惑であるが
ゆえに彼らから見知られることはない  男たちは鉄板の上に不吉
な光を帯びた炬火(たいまつ)を並べ火渡りや鉄火術や熱湯術を試
みる  円陣を作り剣の技巧を競ったりレスリングに興じる  威
嚇(いかく)する太い唸(うな)り声や罵声(ばせい)や見事な技
に感嘆狂喜する叫びで喧噪(けんそう)はますます絶頂を極め 檣
(ほばしら)の天辺から布張りの飛行器巧(グライダー)を背負っ
て滑空する者まで現れる  両方枕でこのちらちら赤く浮游(ふゆ
う)する炎を眺めながら エルドレの胸中に不思議な安堵(あん
ど)が訪れる  いつのまにやらひたひた寄せる潮騒が聞こえる
度胸を誇った船乗りはそれぞれ対になって次第に物蔭(ものかげ)
で身を横たえる  ひっそりと静寂が船を蔽(おお)う  唾液
(だえき)や汗のたてる音が徐々に明瞭になる  微かな呻(う
め)きが聞こえだす  次第に甲高い吠え声になる  逞(たく
ま)しい胸と胸とで 鋼のような腕と腕とで互いを抱きあい 虚し
い寂寥(せきりょう)の賜物(たまもの)というよりも 第一級の
健康の証として男たちは肉を賞味しあう  ソドミイの幽霊  こ
とごとく青史を培った者の武勲の誉よ  ポルボイ・アポローンの
愛でし美形の少年たちを可憐な花に転身させるローマンスとは異な
り 巨大な股巾着を突き立てて天球を揺るがすような祝砲を打ち上
げる  漿液(しょうえき)は天の辺と海の辺とを結びつけ濛々
(もうもう)たる黒雲を湧出させる  神々のごとき猫撫で声は洩
らさない  太い咆哮(ほうこう)を上げ永劫(えいごう)の苛役
(かえき)を強いられたシーシュポス同様に 神々を悪様(あしざ
ま)に呪い エリニュスの庇護(ひご)の下に涜神(とくしん)し
ようとする  嵐を擁する黒雲の奥で 船首に括られた雷霆(らい
てい)のごとく劇(はげ)しい閃光が発せられようとしている
エルドレは微睡(まどろ)みながらラドルの闘いの日々を反芻(は
んすう)する  あのロリエやオリーブの枝で編まれた勝利の栄冠
を四度克ち得た日のことを  半歳の乾燥期の間を白無垢の衣を纏
(まと)い深い眠りに耽(ふけ)っていたボウの叢(くさむら)が
ひときわ華麗に輝き 新たな生命の歓喜を呼び戻し うねうねと波
打つ日に 聖地の若者は皆一斉にあの眉間の広場に群がる  競技
会はオルリー公の腎水が新しく準備された勝利の冠に注がれるのを
合図に開始される  ギムナシオンやパライストラで十箇月みっち
り訓練された若者が一堂に会し 凝灰岩の切石で造られ渋い大摺鉢
(おおすりばち)の偉観をもつ競技会で各々の技を競う  ヘルメ
スや名手ポリュデウケースの加護を受け少年のころから拳闘に素晴
しい素質を顕したエルドレは 並み居るつわものを打ち倒し 四度
目の覇を目前にして 溢(あふ)れる野心に胸躍らせる  最後に
して最大の呼び物 ついには王の後継者が決まるかも知れぬという
期待を抱いて 聖地ラドルの老若男女は大理石で造られた観覧席か
ら固唾(かたず)を呑んで見守る  決勝戦に勝ち残った相手は王
の第一の忠臣ソロドネスであり その戦歴を物語るごとく 鼻が潰
れ 耳が剥(は)がれ 片目を失い 頑強な躯(からだ)を持ち
上背や重量などは優にエルドレの倍以上もある豪傑である  歓声
と拍手が湧き起こる  エルドレはセスタスのついた革皮を甲に巻
きつけ闘いに挑む  ふうと息をついて出る陰性の中音  次第に
獰猛(どうもう)な獅子のごとく吠え始め 巨躯(きょく)をぶる
っと揺すってソロドネスが突進する  エルドレは臆(おく)する
ことなく体形斜めに構え 躍りかかる大男の脇腹にするりと辷(す
べ)り込み 左足にふわり重心を落とすと 左肩を内側に捻(ね
じ)りつつ思い切りよく左腕を顔面狙って突きつける  人々の鈴
生りの視線がソロドネスのその醜い顔に注がれる  忽然(こつぜ
ん)と起こる不思議な笑い  打たれた方はよろめきもせずにやり
と唇を綻(ほころ)ばせ嘲(あざけ)るような陰性中音の笑いを洩
らす  眉間のあたりがぴりぴり痙攣(けいれん)したかと思うと
躯(からだ)を大きく右に回転させながらエルドレの腹に左拳でず
しんと一発喰わせる  すかさず巖(いわお)のごとき右拳を顔に
打ち下ろす  絶えず笑いを響かせながら分を盗み寸を奪い乱打す
る  ひゅうと鮮血が迸(ほとばし)る  エルドレの頬が金属鋲
(びょう)の打擲(ちょうちゃく)によって裂けてしまうのだ
白い腕の美わしい娘たちの一団から衣裂くような悲鳴が飛ぶ  漆
黒の守護者の長い鼻が波打ち白虹貫日のごとく鋭い牙が天を突く
汗と血潮に塗れ男たちの裸体は鈍重な光沢を帯び 乱れた呼吸の合
間にぴくぴく引き攣(つ)る筋肉が殺気鬱々(うつうつ)として異
様に美わしい  観衆は息を呑む  腹の底に殷々(いんいん)と
響く咆哮(ほうこう)が激昂(げっこう)の前兆 あの静謐(せい
ひつ)の一刻をもたらしている  まるで絶頂期の快楽を享受しよ
うと  エルドレはソロドネスの一方的な攻勢に屈するかのように
じりじり爪先で後退るが 相手の躯(からだ)が油断のあまりゆら
りバランスを崩した隙(すき)を見てとると 間合を維持していた
左腕をすすっと伸ばしロングフックを放ち すぐさま肘(ひじ)を
直角に曲げ上体をくるりと捻(ひね)りながら右拳で獰猛(どうも
う)な単眼巨人のこめかみを殴りつける  どろりと赤い澱(お
り)が零れる  相手は反撃に怯(ひる)み 慌(あわ)てて拳を
上向きに構え しゃくるようにしてエルドレの腹を抉(えぐ)ろう
とする  接近戦が開始されラドルの人々は一斉に立ち上がる
興奮の坩堝(るつぼ)に陥る  口角泡を飛ばし 足踏み鳴らし
両手を振り上げ 怒涛(どとう)のごとく勇者の名を代わる代わる
に喚く  ボウの変幻自在の叢(くさむら)が驚き中宇に舞い上が
る  エルドレは左手でソロドネスのアッパーカットを払いのけ
顔面に迫るパンチを上体ぐいと反らして躱(かわ)す  そうして
相手の懐深く飛び込むと 腕よ貫けとばかり左ストレートを鳩尾
(みぞおち)に減(め)り込ませ 途端にふっと浮いた咽喉元に渾
身(こんしん)の右アッパーを炸裂(さくれつ)させる  オルリ
ー公が上気した眼を輝かせ儀礼用サーベルを鳴らして躍り出る
群衆も歓声をあげて観覧席から雪崩てくる  紅蓮に染まる放物状
の帯が空中に架けられる  強烈な一撃は顎を無残にも打ち砕き
ソロドネスの巨体を仰向けにゆっくりと宙に漂わせ 大きな地響き
とともにボウの叢(くさむら)の中に沈める  意識を喪失させな
がらも このつわものは人差指を伸ばした腕を天に上げ敗北を認め
る  エルドレは 汗と血と泥に塗れた逞(たくま)しい好敵手の
躯(からだ)の中心でおくびあげ 果実のように柔らかく弛緩(し
かん)した逸物に精一杯の優しい接吻を与える  王妃エレアは頬
を薔薇(ばら)色に染めてこの若い勇者に熱い眼指しを送るのであ
る  (つづく)




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