#293/1160 ●連載
★タイトル (pot ) 04/06/18 20:54 (236)
alive(12) 佐藤水美
★内容
12
8月、夏休みも後残すところ10日あまり。蒸し暑い夜だった。
「本当にそれでいいのか?」
1階奥にある夫婦の部屋で、伯父は僕に向かって念を押すように問いかけた。出
て行ってくれと言ったのは自分たちのほうなのに、これ以上何が訊きたいというの
だろう。僕は湧き上がる反発心を抑え、黙ってうなずいた。
伯父がウーンと呻って腕組みをする。何が気に入らないのかわからないけれど、
結論はとっくに出ているはずだ。
「そこまで言うのならやってみなさい」
僕はありがとうございますと言って頭を下げ、そそくさと部屋を出た。居間を抜
けて廊下を通り、階段の前で立ち止まる。静まりかえった2階を見上げると、自然
に深いため息が出た。実を言うと、瞬には何も話していないのだ。
今度こそ、僕自身の口からありのままを話さなくちゃいけない。
急に重くなった足を引きずって階段を上っていく。
どんなふうに説明すれば納得してくれるだろうか。それとも「あっ、そう」なん
て案外簡単に言われちゃうかな……だとしたら、ものすごくショックだけど。
僕は自分の部屋の前まで来ると、隣にある茶色いドアに目をやった。その向こう
には瞬がいる。
まだ起きてるかな?
声をかけてもいないのに、心臓がドキドキしてくる。胸に手を当てて数回深呼吸
したけれど、動悸が治まる気配はなかった。
駄目だ、やっぱり出直そう……。
我ながらふがいないと思いつつ、うつむいてノブを回す。
「あ、幹彦」
「わあっ!」
僕は驚きのあまり声を上げ、その場を思わず飛び退いた。瞬がいつの間にかドア
を開けて首を出していたからだ。落ち着きを取り戻しかけていた胸の鼓動が、再び
速くなる。
「何だよ、俺はゾンビか?」
瞬は頬を膨らませて言うと部屋を出て、ドアを後ろ手に閉めた。
「ごめん、瞬。ちょっとびっくりしただけ。まだ起きてたんだね」
笑ってごまかそうとしたが、顔が妙に引きつってしまう。僕は額の汗を手の甲で
拭った。
「こう暑くちゃ寝られないよ。それに喉が渇いたから、コーラでも買ってこようと
思ってさ」
瞬はそう言ってジーンズのポケットに手を突っ込んだ。小銭のジャラジャラする
音が聞こえる。
「今から? どこまで行くの?」
「裏の坂をちょっと下ったところに自販機があるんだ。すぐ近くだよ」
事も無げに言う。たとえ目的地が目と鼻の先にあっても、中学生の瞬を夜遅くに
ひとりで外出させるのは心配だ。
「僕も喉が渇いたな、一緒に行こうか」
「うん!」
瞬の顔に明るい笑みが広がった。
生温い夜風が木々の小枝を揺らし、僕たちの頬をなでていく。街灯の白い光が、
暗い舗装道路のところどころを丸く照らしている。
坂道を下り始めたとき、僕たちはどちらからともなく手を伸ばして互いの指を絡
ませた。幼い頃のように手を繋いだのは何年ぶりだろうか。
男と女だったら、人前でも堂々としていられるのに。
この道を選んだのは他ならぬ僕自身だから、簡単に弱音を吐いてはいけないのだ
ろうけれど……。
「お父さんと何話してたの?」
瞬にいきなり訊かれて、僕は内心ひどくうろたえた。すぐには声が出せず、時間
稼ぎをするように乾いた唇をなめるしかなかった。
「ねえ、聞いてる?」
「……進学のことだよ」
喉から絞り出した声はかすれていた。気持ちの悪い動悸をなだめようと、自分の
胸を軽くさすってみる。
「大学受験するんだね?」
「まあ……いちおうはそのつもりだけど」
「志望校とか決めた?」
「いや、まだ……」
伯母との会話を思い出してしまう。僕は下を向いてサンダル履きの足元に目を落
とした。
「俺、幹彦の受験が終わるまで我慢する。勉強の邪魔は絶対にしないから」
きっぱりと言い放ち、握った手に力を込める。瞬の真っ直ぐな思いが伝わってく
るだけに、僕はよけいに苦しくなった。
大学に合格してもしなくても、高校を卒業したら僕はあの家を出なければならな
い。そのひと言がどうしても紡げないのだ。
「見て、あそこだよ」
瞬が指し示す方向に、赤く塗られた大きな自販機があった。街灯よりも明るく光
って辺りを照らしている。
「へえ、こんなところにあるのか」
「こっちのほうがコンビニに行くよりずっと近いんだ」
僕にとって自販機の出現はありがたかった。たとえ一時的にせよ、進路の話題か
らは逃れられる。
瞬と僕は道路を横切って反対側に渡り、ガードレールをまたいだ。自販機の周囲
には光に引きつけられた小さな虫が数匹いて、勢いよく飛び回っている。
「俺はコーラにするけど、幹彦はいつものこれ?」
瞬は虫を追い払うように手を軽く振ったあと、青色の缶コーヒーを指差した。
「瞬と同じのがいい」
「だって炭酸は苦手だろ?」
意外な台詞にとまどった様子で、まじまじと僕の顔を見る。
「コーラが飲みたい気分なんだよ」
「ふーん。まぁいいや、今日は俺のおごりね」
コーラを買っている間も、瞬は僕の手を離そうとしなかった。心の中を見透かさ
れているようで、何か落ち着かない気持ちになる。
ふたりきりの夏の夜。人はおろか、車や自転車も通らない静かな道。付近にある
家々の窓は暗く、住人たちは皆眠っているみたいだ。
テレビドラマだったら、きっとこんなシチュエーションの中で告白するんだろう
な。腕のいい演出家が、優柔不断な僕のために格好の条件をそろえてくれたという
のに、肝心の台詞を口にする勇気がない。
僕は救いを求めるように空を見上げた。白い三日月がぽっかりと浮かんでいる。
「何か面白いものでも見えた?」
瞬の声がして、僕は我に返った。
「いや、その……月が出てるなって……」
「月? ああ、ほんとだ」
瞬は僕にコーラの缶を手渡すと、顔を上げて夜空に目をやった。
「幹彦は流れ星って見たことある?」
「あるよ。小学生の頃だったかな、林間学校でキャンプしたときにね」
「どんなふうに流れるの? すごく速い?」
瞬は僕の顔に目を移し、いつになく真剣な表情で訊いた。
「僕が見たやつは落ちるっていう感じだったな。あっという間に消えちゃったよ。
でもどうしてそんなことを?」
「別に……ただ訊いてみただけ。それよりコーラ飲もうよ」
僕たちは繋いだ手を離して、近くのガードレールに並んで腰掛けた。瞬は手早く
缶を開け、喉を鳴らして炭酸をほとんど一気に流し込んでいく。
「ちえっ、もうなくなった」
不満そうに言い、自販機横のゴミ箱に向かって空き缶を投げる。缶はきれいな放
物線を描いて、グレーのポリバケツの中に落下した。
「ゴミは入るのに、何でシュートが入んないんだろ?」
その呟きが可笑しくて、僕は声を立てずに笑った。
このまま時間が止まればいいのに。
叶わぬ願いと知りながらも祈らずにはいられない。
「今、笑った?」
「笑ってないよ」
可笑しさを堪えているから声が震えてしまう。
「笑ってるじゃん」
瞬はそう言って、突然僕の脇腹をくすぐった。
「やめろって……あははは!」
「ほら笑ってる! もっとこちょこちょしてやるぞー!」
「ちょい、タンマ……ぎゃははは!」
瞬は身をよじって逃げようとする僕を押さえつけ、脇腹だけでなく脇の下までも
容赦なく攻撃してくる。くすぐったがり屋の僕は笑い転げてしまって、抵抗しよう
にも力が全然入らなかった。
「降参する?」
「する、するっ! もう勘弁……」
僕は瞬に抱きつかれたまま、あっさりと白旗を上げた。息が切れ、笑いすぎて腹
筋が痛い。
「ねえ、幹彦」
「ふう……何?」
「俺って……」
瞬はふいに言葉を切って腕に力を込め、さっきのくすぐりっこで熱くなった身体
を押しつけてきた。熱帯夜と呼ぶにふさわしい蒸し暑さのせいもあって、お互いに
かなりの汗をかいている。まるでサウナの中で抱かれているみたいだ。
「あのさ、瞬。ちょっと……」
「俺って頼りにならない?」
喉の奥から絞り出すような声だった。
もしかして、見抜かれてる……?
汗はたちまち冷たくなり、舌が縮み上がる。何喰わぬ顔をして、調子のいい台詞
を吐けるだけの図太さは持ち合わせていなかった。
「な……何で?」
「ここんとこずっと、幹彦が苦しそうだったから……」
その言葉を聞いたとき、僕は大声を上げてわめきたい衝動に駆られた。
離れたくない、離れたくないよ!
でも僕は、心の叫びを瞬に伝えられなかった。伝えたら必ず、「何故?」と訊かれ
るのはわかりきっていたからだ。
理由を説明しようとすれば、どうしても伯父や伯母とのやり取りまで明らかにせ
ざるを得なくなる。今の心理状態で口を開いたら、僕は彼らに対して恨みがましい
台詞を垂れ流してしまいそうだった。自分の親の悪口を聞かされたら、誰だって不
愉快になるだろう。
それに、瞬はまだ中学生だ。僕の言葉を何の批判もなく鵜呑みにしてしまう可能
性だってある。昔、冴子にマジックと言われたほどの力はないと思うけれど、ここ
は用心してうかつなことを口にしないほうがいい。
「大学受験を考えれば、暗くもなるさ」
やれやれといった口調で言い、瞬の背中を軽く叩いてみる。だが従弟は僕に抱き
ついたまま離れようとしなかった。
「……違うよ」
瞬は僕の胸に顔を埋め、くぐもった声を出した。
「俺が聞きたかったのは、そんなことじゃない」
「だったら何を聞きたいの?」
卑怯じゃないかと、自分でも思う。告白を先送りできる言いわけにしがみつきな
がらも、心の奥では、瞬のほうから核心を突いた質問をしてくることを望んでいる。
「幹彦にとって……俺はどんな存在? 従弟とか恋人とかじゃなくて、その……ど
う言ったらいいか……」
瞬はまだ自分の気持ちを整理しきれていないらしい。やるせない様子で何度もた
め息を吐き、鼻をすする。しかし、ここ数日間の僕の態度に、不審感をつのらせて
いることだけは紛れもない事実だ。
「瞬、顔上げて」
僕は可愛い従弟の名を呼んだ。暗くて表情はよくわからないけれど、瞬の目はた
ぶん濡れているだろう。
「僕にとっての瞬は、かけがえのない存在。わかった?」
「……うん」
こちらの不安を掻き立てるような、弱々しい声だった。
「ほんとにわかった?」
「……わかったよ」
瞬はぶっきらぼうに答え、手の甲で目元をこすった。そんな子供っぽい仕種さえ、
愛おしくてたまらない。
「もうそろそろ行こうか」
僕は再び瞬の背中を軽く叩いた。家を出たときが午後11時を少し回っていたか
ら、あまりぐずぐずしてもいられない。
「12時になったらまずいよ」
「……りたい」
「えっ、何?」
「俺は……幹彦の支えになりたい」
瞬が声を震わせて呟く。
ずっと前から、僕がこの街に来たときから、君は支えてくれているじゃないか。
笑いながらそう言おうとしたけれど、目と鼻の奥がいっぺんに熱くなって言葉に
ならなかった。うっかり口を開こうものなら、みっともないほど大泣きしてしまい
そうな自分がいる。
でも……言わなくちゃいけない。僕の身に何が起こっているのかを。瞬が示して
くれる愛情に報いたいのなら、自ら話さなければ意味がない。
僕は下唇を強く噛んだ。自分の中にある様々な感情が、黒々とした巨大な津波と
なって押し寄せてくる。
瞬は何も知らない。知らないから、こうして抱いてくれる。僕はため息を吐いて、
従弟の頭に頬を寄せた。涙がこぼれそうになって思わず目を閉じたが、間に合わな
かった。
これ以上、甘えてはいけないんだ。
「瞬……」
僕の話をよく聞いてくれと続けようとした、そのとき。
遠くのほうから、自動車の走行音が聞こえた。かなりのスピードを出しているら
しく、音が急速に大きくなる。
瞬と僕は慌てて離れ、ガードレールから立ち上がった。黄色い目玉をふたつ光ら
せた怪物が、暗闇と静けさを切り裂きながら坂を駆け下りていく。
「……帰ろう」
数秒後、僕の口をついて出たのは帰宅を促す言葉だった。瞬に気づかれないよう、
指で素早く濡れた目元を拭う。
「うん。あれ、コーラまだ飲んでなかったんだ」
「あ……確かに」
好きでもない炭酸飲料のことなど、すっかり忘れていた。よく冷えていたはずの
缶は、僕の左手の中で汗をかいたようにぐっしょりと濡れている。
「ぬるくなっちゃったかな」
そう言いながらタブを起こして缶を開け、ひと口飲んでみる。
「おいしい?」
「まあまあかな」
僕は当たり障りのない返答をして、ガードレールをまたいだ。瞬も続いてそれに
ならう。道路を横切って向こう側に渡り、行きと同じように手を繋いだ。1本のコ
ーラを、ふたりで交互に飲みながら来た道を戻っていく。
「瞬……さっきはありがとう。嬉しかったよ」
偽らざる本音を口にすると、従弟は黙ってうつむいた。整った横顔に愁いの影が
過ぎるのを見たとき、僕の胸は張り裂けんばかりに痛んだ。
9月になり新学期が始まると、僕たちは否応なく忙しい日常生活に引き戻された。
学校行事の多い2学期に、顔をつき合わせてじっくりと話し合う余裕や時間はほと
んどなく、お互いに自分のスケジュールをこなしていくだけで精一杯だった。
夏休み中の辛い出来事は夢であって、現実ではない。
疲れ切った身体をベッドに横たえて暗い天井を見つめていると、ついついそんな
ことを考えてしまう。錯覚から始まり願望となった言葉を繰り返しているうちに、
それはいつしか祈りに変わっていく。
だが、僕の祈りが神様に通じることはなかった。
父さんと母さんが奪われた、あの夜と同じように。
3ヶ月後、僕はその事実を思い知らされることになる。
to be continued