AWC 木で首をくくる 1   永山


        
#280/1160 ●連載
★タイトル (AZA     )  04/05/24  23:18  (387)
木で首をくくる 1   永山
★内容
 大型連休を間近に控えた四月末の朝六時半。柔道着に着替えた五代春季(ご
だいはるき)はいつものように寮を出ると、西の校門をくぐり、学校裏手を塀
沿いに進んだ。やがて見えてきたのは一本の大木。地上から一メートル余りの
高さには、黒くて太い麻縄が結わえてある。彼女の練習相手だ。
 これを使って打ち込みの練習を何本も何本も重ね、すっきりとしたところで
寮に戻って朝食をいただく。五代の日課だった。
 しかし今朝に限って云えば、木を視界に捉えた瞬間から、日課をこなせない
かもしれないと五代は思った。一本の枝に、一匹の猫がぶら下がっていたのだ
から。
 細い紐のような物で首を吊るされている。元は白い毛並みだったらしいのに、
赤っぽくなっているのは血か? 全身はだらんとはしていなくて、むしろ敵を
威嚇するときみたいに四肢を突っ張っている。
「酷いことを」
 悲鳴をあげるでもなく、呟くと眉をしかめる。奥歯を噛みしめ、こみ上げて
くるものを堪えると、五代は平静さをどうにか保った。そしてしばし考える。
猫を下ろしてやるのが先か、寮母なり先生なりに知らせるのが先か。
 程なくして彼女はきびすを返し、寮への道を辿る。
 正直な気持ち、死んだ猫に触れるのが恐かった。

 日本女子柔道界期待の新星である五代が進学先にC学園を選んだのは、当然
の成り行きと云えた。団体戦では全国大会連覇中で、世界に通用する選手を幾
人も輩出してきた実績に加え、五代の中学時代の恩師がC学園と深いつながり
を持っていたのだ。
 ただ、五代自身がこの選択に完全に満足していたかというと、嘘になる。一
片だけ、不満があった。
 C学園は科学を標榜し、運動部にも科学的トレーニングを導入することで結
果を出しており、現に学校の売りとしている。大きな負傷をする危険が高い乱
取りや練習試合の類は必要最小限にとどめ、器具を使った鍛錬や栄養学等を駆
使する。気合いや根性論にまで、科学的理論を持ち込むほどだ。
 一方、五代は小さな頃から自然にある物を使って鍛えてきた。また、同年代
の者と乱取りを何よりも楽しみとしている。お互いの力の伸び具合を感じるこ
とが、嬉しくてならない質だ。ライバルに恵まれた証でもある。尤も、そのラ
イバルが今はもういないのは、試合で大きな怪我を負ってしまったからなのだ
が。
 五代は推薦枠で入学試験に臨むに当たって、学園側に一つだけお願いをした。
トレーニング方法は自分で決めさせてほしい、と。認めてもらえないのなら、
別に不合格でもいいとさえ考えていた。傲慢なのではなく、純粋な故に。
 大木相手の打ち込みはその一つであり、元々は撤去計画が持ち上がっていた
のを、五代の願いにより手つかずで残されたのだ。
「スキャンダルは避けねばなりません」
 昼休みの校長室で、校長が云った。向かい合わせに座る五代は特に反応せず、
耳を傾ける。彼女は猫の死体が吊るされた一件について、よほどのことがない
限り、学校側の決定に従うつもりでいた。
 甲高い声で校長は続けた。
「あなたは我が校の宝の一人です。そんなあなたに嫌がらせがあったと公に知
れたら、イメージダウンになります」
「あの、よろしいでしょうか」
 小さく挙手し、発言の許可を求める五代。すぐにOKが出た。
「私に対する嫌がらせかどうか、分かりません」
「そうですね、決め付けはいけませんね。でも」
 何だそんなことという風に、校長は目元に皺を作ってにっと笑った。が、す
ぐに険しい表情に戻る。
「真実が何であるのかは二の次なのです。このことが公になったら、五代さん、
あなたに関するスキャンダルに仕立てられる可能性が大いにあるから、内部で
かたをつけようというのです」
「そういうことでしたら……」
 小さな疑問も解消し、五代は異を唱えるのを終わりにした。
 すると今度は校長から提案が出された。いや、提案ではなく、選択肢とすべ
きだろう。
「こんな悪戯をしたのが誰なのか、突き止めたい? 突き止めなくていい?」
「……これからも続くようでしたら、当人に注意してやめさせないと困ります。
けれども一回きりで済むのなら、取り立てて騒がなくても」
「結構ですね。私達と同じ考えです」
 校長は満足げに頷いた。話は済んだという風に手を一つ叩いた彼女に、五代
は取っておいた質問を投げ掛けた。
「明日からも今まで通り、あの木を使用してもいいんでしょうか?」
「ああ、そうね。あなたの好きにしてよろしい。でも、猫の死体があった木で
練習をするなんて、気味は悪くないのかしら?」
 不安がない訳ではない。でも、やっと慣れてきた木をこんなことで手放すの
は惜しいし、練習の進捗具合にも悪い影響が及びかねない。
「多分、大丈夫です」
 五代は笑顔でもって返事した。

 学校の片隅での早朝の出来事だったし、猫の死体の処理も手早く行われたた
め、生徒の中に見た者はいないと考えるのが普通だ。
 しかし、人の口に戸は立てられないのか、午後最初の授業が終わると、五代
に聞いてくる者が現れた。
「本当の話なら、五代さんが心配で」
 そう云ったのは顔見知りの男子、名倉修一(なぐらしゅういち)。他のクラ
スからわざわざやって来て、教室に連れ出し、廊下の端で深刻な表情で始めた
ものだから、五代の方もびっくりした。
 ちなみに入学してさほど経たないこの季節に、幼なじみでもない男子と顔見
知りなのは、入学式でのちょっとしたエピソードによる。
「名倉君に心配されるほどやわじゃないってば」
 五代は腕の筋肉を誇示してみせた。相手をやや見下ろす形になるのは、身長
差の関係でやむを得ない。五代が大きいのではなく、名倉が小さいのだ。発条
はあるものの、体格も細身で、非力感は否めなかった。
「そんなことより、猫事件の話を誰から聞いた?」
「あれっ、秘密なの? 奥(おく)先生が教えてくれたよ」
 数学の奥先生は確かに朝、職員室にいた。もう五十半ばを過ぎたベテラン教
師で、お喋りや噂話が好きなようには見えない。神経質そうで、むしろ口数は
少ないと思っていたが。
「僕だけに教えてくれたみたいだったな。昼休み、職員室に用事があって行っ
たときなんだけど」
 怪訝な心持ちが面に出たらしい。名倉がフォローを入れた。
「『名倉は五代春季と親しいらしいな』と前置きがあって、今朝、こんなこと
があったという感じで話してくれた」
 敬語の欠片も出て来ない。五代は微かに眉根を寄せた。が、悪気の全く見ら
れない名倉の童顔を目の当たりにしては、注意する気も失せる。
「私が死んだ猫を見てショックを受けてると思った、ということ?」
「と言うか、嫌がらせを受けたことがショックなんじゃないかなって」
「嫌がらせとか悪戯だとしても、私に対してなのか、はっきりしてないわ」
「いいや、間違いない」
 心配してくれる割に、恐がらせるような台詞を平気で口にする。
「あの木で練習してること、みんな知ってる。たくさんの木の中から、五代さ
んの使う木を選んで猫の死体を吊るしたんだから、五代さんへの嫌がらせに決
まってる」
「学校の誰かの仕業と思ってるの? 何で?」
「何でって……」
 意表を突かれ戸惑った風に口ごもる名倉。全く予想していなかったようだ。
「ぼ、僕は逆に、学校関係者じゃないなんて、考えもしなかった。外の人なら、
猫の死体を投げ込むだけとか、門や塀の上に置くぐらいじゃないかなぁ? 忍
び込んで木を選んで吊るすって、凄く大変だよ。夜、暗い中の作業になるだろ
うし」
 云われてみれば、名倉の見方にも納得できるところはあった。外の人間が犯
人としても、わざわざあの馴染みの大木に死んだ猫を吊り下げたということは、
やっぱり五代自身への何かが背景にあるように思えてきた。
 そこまで考えた五代は、はたと気付いてかぶりを振った。
「やめよ、こういう話。誰がやったか、気にしないことにしたのよ」
「ええ? どうして気にならないんだよ」
「誰に対する悪戯であっても、結局は愉快犯。騒ぎ立てたら、相手を喜ばせる
だけ。そう思ったら、練習に支障ない限りいいかなと」
「愉快犯と決め付けるのは早いよ。五代さんに弱くなってほしいと願う人だっ
ている」
「弱くって、柔道の話? そんな莫迦なことって」
「勝つのが目標なら、あり得なくはない」
「あのね、名倉君。それ以上続けたら、いくら私でも怒る」
 ぽんと音を立てて相手の(頼りない)肩に手を置き、真剣な眼差しを送る。
 五代の仕種をどう感じたのか、名倉は傍目にも明らかにびくりとした。
「柔道をする人に、そんなさもしい性根の人はいない。ずるをして勝ちたいと
考えるくらいなら、そもそも柔道を始めやしないわ」
「……けど」
「けどぉ?」
 まだ分からないのかと、思わず手に力がこもった。手のひらを通じて感情も
流れ込むのかもしれない。名倉は今度は本当に身を引いた。そして早口で云う。
「入部早々、先輩に勝っちゃった五代さんは、妬まれたって不思議じゃない」
「どうしてそういう風にしか考えられないのか、理解できない」
「僕だって理解できないよ。スポーツマンに悪い人はいない、みたいな考えを
どうして持てるのか」
 最初の恐怖心が去ると、元々弁の立つ名倉だ。舌の回転も速ければ、頭の回
転も速い。
「私が云ってるのは、理屈とは違う」
 筋道立てての説明ではかなわない。感覚的・人情的な主張であることは端か
ら承知している。
「別に否定まではしないよ。でも、五代さん。本当に安全と分かるまで、注意
した方がいいと思うんだ」
「先輩を疑えって?」
 声を大きくする五代に、名倉は慌てたように首を激しく横に振った。
「そういうんじゃなくて、どう云えばいいのか……。決め付けずに、注意を払
っておくべきだと」
「ご忠告、どうもありがとう」
 突っ慳貪に応じると、五代は勢いよくきびすを返した。休み時間が終わる。
 教室に向かって歩き出してから、さっきのは言い過ぎたと自分がちょっと嫌
になった。でも、振り向くのは躊躇われて。

 放課後、いつものようにみっちりと練習を重ねて時間を過ごし、仕上げに体
重別に乱取りを行った。しかし頭一つ抜けている五代にとって、同じ階級の女
子では仮令上級生でも相手にならないのが実状だ。尤も彼女は互いの成長に喜
びを感じるタイプ故、実力差があっても何ら気にせず、根気よく付き合う。
 そんな乱取りが終わった直後、三年生の花隈妙子(はなくまたえこ)が声を
掛けてきた。そう、入部当初の練習試合で、五代が勝ってしまったあの先輩だ。
「物足りないみたいだから、一丁、私とやらないか」
「――」
 午後の名倉とのやり取りが一瞬よぎり、返事に窮した五代。花隈はやや下膨
れ気味の頬を震わせ、笑みを見せた。そして優しい口調で云う。
「こっちが頭を下げて頼まないといけないのかな」
「いえ、そんな。お願いします」
 本心からの当て擦りなのか、それとも軽い冗談なのか、表情や声だけでは判
断できない。五代は急ぎ承諾した。
 畳の中央で距離を取って対峙してから、肝心なことを確かめていなかったと
気付く。乱取り形式なのか、試合形式なのかを尋ねた。
「どちらでもかまわないが、前回不覚を取った私としちゃあ、試合形式が望ま
しいな」
 どちらでもかまわないという枕詞が、全く意味を持たない。五代が無言で頷
くと、副主将の胡桃沢晶(くるみざわあきら)が審判役を引き受けようかとい
う姿勢を見せたが、その彼女が花隈に逆三角の顔を向ける。
「キャプテン、一年は新人戦が近いですよ。体重差がありますし、万が一、怪
我でもさせては」
 こけ気味の頬を微かに震わせ、胡桃沢。巻かれた赤と白の旗をどうしようか
と、手で弄んでいる。
 花隈は直には答えず、五代に目を合わせた。そして胴間声で云う。
「新人戦程度なら、別に出なくてもいいよな?」
「……仰る意味が飲み込めないので、もう一度お願いします」
「優勝して当たり前の大会に出場しても、面白くないだろうって意味さ」
「そんなことはないです」
 荒っぽい云い様の先輩に対し、即答で返す五代。
「優勝が当たり前なんてあり得ませんし、どんな大会でも私は楽しみ――」
「あんたの当面の目標は、全国高校と全国女子ジュニアだろ。少し先の話だか
ら、新人戦を回避することにしたら、今、お互い遠慮抜きで試合できるって訳
だ」
 花隈は腕を振り、準備運動の仕種を見せた。理由付けをしているが、要は真
っ向勝負をすぐにやりたい、ということらしい。
「分かりました」
 成り行きを抜きにすれば、五代にしても試合は望むところ。赤い紐を受け取
って腰に巻くと、軽く興奮してきた。思わず拳を握り、指の関節を鳴らした。
次いですぐに脱力し、その場でとんとんとんとリズミカルに飛び跳ねる。
「お願いしますっ!」
 速い動作で頭を下げ、畳の中央へ改めて進み出た。再び対峙すると、花隈の
方は目を細めた。
「断るまでもないが、本気で」
 静かに云う。告げられた五代は黙って頷く。
「始めぃ!」
 胡桃沢の声と合図で勝負が始まった。同時に、五代も花隈も両腕を上げ、気
合いを呼び起こす声を張る。女子だけに甲高い。
 四月の対戦では、小柄な五代が花隈の懐に潜り込んで担ぎ、簡単に一本を奪
った。花隈に油断があったのか、あっさり組んだのが理由になるかもしれない。
組んで力尽くでねじ伏せようという思惑が崩れたのだ。それにしても、見事な
一本だった。
 だから当然、第三者的な予想としては今回、花隈は安易に組みに行かず、様
子みをしつつ、自分の得意の組み手になることを窺う作戦だろうと踏んだ。
 だが現実には、主将は予想を裏切った。初対決時と同様に組みに行った。
 ただし、そこから先は違う。足を飛ばす。それも執拗に。右足が勢いよく、
五代の両足を払おうとする。持ち上げる感じで組むことで、軽量の五代の重心
を浮かせ、一気に倒さんとする戦法。
 悪くはない。体格差から云って、スタミナかスピードに自信があれば、五分
の試合時間内に成功する可能性が高い。そして花隈にはスタミナがある。
 が、あまりにもあからさま。剥き出しの作戦で、見抜く云々のレベルでない。
かわしきることができる選手は、五代の他にもごまんといるだろう。実際、五
代は身体が浮いてしまわぬよう、注意しつつ、巧みに足払いをかわしていった。
 慣れると、反撃の機会を窺う余裕が出て来る。タイミングよく懐に飛び込め
たら、一瞬で投げに入る自信があった。きれいに決まるかどうかは、現時点で
は運次第だが……。
 だが、花隈も一筋縄では行かない。右足のみによる攻撃だったのが、左右か
らの無差別攻撃に転じた。あたかも、五代が慣れるのを待っていたかのごとく。
いや、事実、待っていたに違いない。初戦でかかされた恥を忘れず、策を充分
に練って来たのだ。パワーで押しつつ、五代にリズムを掴ませない。主導権を
常に握って、終盤、五代の力負けを見越して一気に勝負をかける――そんなと
ころだろう。
 これではいけない、と五代は思った。流れが悪い。断ち切らなくては。組み
手争いをするだけなら、落ち着いて考えられるのだが、今はそうも行かない。
両サイドから足への攻撃が気になる。しかもそれは今や、足払いと云うよりも、
下段蹴りと化しているようだ。かつてソウルオリンピックで韓国の選手が軒並
み使った戦法。一部から“あれは柔道じゃなく、空手だ”“喧嘩柔道”等の批
判が上がった、手強いやり口。
 状況を打破するには、審判から注意を受ける覚悟で何らかの軽い反則――意
識的に場外に逃げる、技の掛け逃げ、袖口を掴む等々――を行い、試合を切る
のが一つの手だ。五代はこれを採りたくない。消極的な試合運びは嫌いだし、
再開したときにすぐにまた同じ形に持って行かれるパターンに陥りかねない。
そうすると反則を重ねざるを得なくなり、最悪の場合、不名誉な失格負けとな
ってしまう。いくら部内の練習試合と云えども、それだけは避けたい。
 一旦試合を切って、再開直後に奇襲することも考えられた。だが、これもう
まくない。奇襲となると、諸手刈りや朽木倒しといったタックル系の技が代表
格だが、体重差がある場合、簡単に食い止められ、押し潰される危険性が高い。
 やむを得ない。五代は賭けに出た。
 相手の繰り出す足のリズムに合わせ、タイミングよく左手を放す。花隈の左
側に身体を寄せると同時に畳を蹴り、両足とも飛んだ。
 虚を突かれて目を見開く花隈の足下を、五代は自らの両足で横から挟み込み、
刈る。かに挟み。決まった。
 花隈がバランスを崩し、しりもちをつく。審判の胡桃沢は、有効の判定。
 手を突いて起き上がろうとする花隈に、五代はその上半身めがけて飛び付い
た。押さえ込みに持って行かんとする。崩れ横四方のような形になり、体格差
を物ともせず、押さえた。
「押さえ込みぃ!」
 胡桃沢が、押さえ込みに入ったことを宣告する。花隈は事態を信じられない
かのように、ほんの数瞬、ぽかんとした。
 対照的に五代は勢いに任せ、返せないように位置取りを図る。足を開いて突
っ張り、自分のお腹を突き出すようにして体重を載せた。
 下の花隈は当然もがき、逃れようとする。上体を反らされただけで、五代の
方は若干、身体が浮く。必死に力を込めるとともに足の置場所を転々と移し、
弾き飛ばされないように掴まえる。懸命に。
 上がってくる熱気と、自身の発する熱とで、最早汗まみれになっていた。目
に入る汗が染みる。普通なら拭いたいところだが、今手を放すなんて、とんで
もない。重量級の選手を押さえ込みで破る千載一遇のチャンス。
 が、花隈もだてに主将をはっている訳ではなかった。先輩の意地と重量級の
意地とで、気合いもろとも身体を起こしにかかる。ある程度空間を作ると、肘
を立てる余裕が生じ、さらには手を突くこともできる。
 するともう花隈のものだ。自分自身の腕をジャッキとして、身体を起こす。
上に五代が乗っていても、全く問題ない。五代が押さえ込みに入ってから十五
秒と経たず、形が崩れた。
 情勢の変化に、胡桃沢が「解けた」と云い掛けたが、その台詞が宙に消える。
 花隈には、これで脱出できるという安心感が生まれていたのだろう。五代は
隙を見逃さなかった。
 進んで押さえ込みを解くと、相手の腕を素早く両手で取り、固めた。
 あらぬ方向から力を掛けられ、花隈の右腕は敢えなく伸びきる。五代は更に
スピードを増し、一瞬、腰を浮かすと、自らの身体の向きを逆にし、花隈の巨
体の右側に、仰向けになる。
「がっ!」
 苦しげな声を吐く花隈。腕拉ぎ十字固めに捉えられていた。
 五代は角度を確かめ、渾身の力で一気に絞る。花隈の口から、「あ、が」と
いう短い悲鳴が断続的に出た。テコの原理で、肘関節が逆に極まっているのだ。
効いていないはずがない。
 それでも花隈は参ったをしない。気を紛らわせて痛みを堪えようというのか、
もがきつつ、声を張り上げる。
 胡桃沢の緊張した面持ちが、心配げに上から覗き込むのが見えた。五代は、
技の選択を誤ったなと悟った。先輩は参ったしまい。するはずがない。
 このまま力を入れ続け、腕を折るなり筋を切るなりすれば、花隈の参ったが
なくても五代の勝ちだ。腰を反らせ、腹を突き出すようにすれば相手の腕は自
然と伸びきる。
 だが、そんな非道い真似はできない。元より選択肢にない。
 仕方がない、と思った。手に込める力を緩めようとした。その刹那。
「参った」
 花熊の声がした。
 さっきまでの苦鳴が嘘みたいに、明瞭な口ぶりで云った。
 手から力が抜けたのは、花隈の声を聞いたせいではなく、それよりも以前に
技を解こうとしていたからだ。
 胡桃沢も呆気に取られたようで、判定を下せないでいた。
「やられた」
 先に身体を起こしたのは花隈。まだ横になったままの五代に話し掛ける。
「もっと力を入れたって、よかったんだ」
「……でも」
 急いで上体を起こし、正座する五代。花隈も足を揃え、荒い息をしながら正
座をした。
「分かってるって。放そうとしたから、参ったしたんだよ。どうせあそこから
反撃しようにも、握力が莫迦になってたろうから。あーあ、後輩かつ軽量の相
手に情けを掛けられるようじゃ、全然だめだな」
「……すみません」
「あんたはいいの。先生の受け売りだけど、柔道ってスポーツであり、武道で
もあるから、怪我させるまで力を入れるのは、ありとも云えるし、ないとも云
える。犯人逮捕や、決闘、喧嘩なら腕を折るのを躊躇してたらやられるかもし
れない。けれど、自分の力を試す場――試合でまで非情になることはないって
ね」
 花隈は掠れ声で云い、大きな息をついた。やっと呼吸の乱れが収まっていた。
肘をさすりながら片膝を立て、ゆっくりと立ち上がる。
「またやられた。正直、悔しい」
「すみません」
 また謝る五代。今度はちゃんとした理由がある。
「かに挟みなんて使ってしまって……。負けそうだったから、つい」
「くだらないことで謝んなって。かに挟みに頼んなきゃいいんじゃないか? 
国際大会では禁じ手なんだから」
「はい」
「まあ、こんなこと云わなくても、本分は正統派だって、よく分かってるよな。
それでは――審判。正式な裁定をしないと締まりが悪い」
 花隈に云われ、胡桃沢が慌てぶりも露に、今まで闘っていた二人に定位置に
着くように命じる。
「赤の勝ち!」
 お辞儀をして、終わった。

 更衣室で着替え終わり、帰り支度を整えていると、背後にすっと人が立った。
影が差す。
「関節技を仕掛けるなんて、どういうつもり?」
 女性にしては低いその声で、木出川良美(きでがわよしみ)と知れた。五代
と同学年だが、階級は一つ上。痩せている分、背が高い。スポーツバッグを手
に振り向いた五代は、必然的に見下ろされる格好になる。
「ルールの中で闘っただけよ」
 答えてから五代は周囲を窺った。一年生以外、いない。シャワーを使う優先
順位の関係から、三年生が最初に更衣室を出、最後が一年生になるのは当然だ
った。先輩が居残って後輩達とお喋りに興じることも時折あるが、今日はそう
ではないらしい。
「十字はともかく、かに挟みは卑怯でしょうが。柔道らしくない技だわ」
 木出川は自他ともに認める花隈のシンパ。花隈と同じ町道場に通い、花隈に
憧れてこの高校に入って来ただけあって、筋金入りだ。
「それを云い出すと切りがなくなるわよ。花隈先輩の出したほとんど蹴りに近
い足払いも、非難の対象になったことがあった」
「あれは」
 一瞬、云い淀む木出川。感情的になっているという自覚はあるのだろう。前
髪の辺りを苛立たしげにかきむしったかと思うと、やがて口を開いた。
「あれは、相手に怪我をさせる技じゃない。あなたの繰り出したかに挟みと十
字は、相手に怪我をさせかねない技だわ」
 確かに。腕拉ぎ十字固めは云うまでもないが、かに挟みも危険な技だ。靭帯
を傷めたり、膝の皿を割ったりしてしまうこともある。体重のある者ほど、重
傷になり易い。
「勝つために精一杯のことをしたまでで、怪我させるつもりは全然ない。云う
までもないと思ってたんだけどな」
 ため息混じりに云って、寮に帰ろうとする。が、肩を掴まれた。
「もう一回やって、負けるのよ」
「え?」
 理解不能の台詞に、怪訝な顔つきになって振り返った。
「近い内に花隈先輩ともう一度だけ試合して、負ければいいのよ。でなきゃ先
輩はいつまで経っても、あなたに続けて負けたのを気にしたままで、本来の大
会に集中できないわ」
「そんなお芝居をしても意味がない」
「あるわよ! さっき云った通り、先輩に大会に集中してもらうためっていう、
重要な意味が」
 さわらぬ神に祟りなしというやつなのか、口論する内に他の部員はいなくな
り、部屋には二人だけになっていた。
「莫迦らしい。仮令どんないい意味があっても、私はしたくないからしない。
これ以上この話を口にするんなら、私、先輩に報告するから」
 強い調子で五代が云うと、沈黙する木出川。花隈に知られることが、一番耐
えられないに違いない。何か云いたげに肩を震わせたが、結局口を噤んだまま、
ぷいっと顔を逸らした。
「少しは気ぃ遣えってんだ」
 追い抜き様に低い声で捨て台詞を残し、部屋を出て行く。勢いよく閉められ
たドアが、ちょっとしたつむじ風を起こした。
 五代は肩でため息をついた。

 翌朝は曇天だったが、練習できないほどではない。当然のごとく、五代は練
習相手――大木の立つ裏庭に向かった。
 昨日は部活が終わってからこっち、ずっと憂鬱だった。生徒は寮に入るのが
原則であるため、花隈や木出川とも顔を合わせる機会が多い。花隈はともかく、
木出川とは気まずかった。
 今朝はその嫌な気分を吹き飛ばすために、無理にでも足取りを軽くして、ち
ょっとスキップまでしてみた。そういうことをやっている自分が笑えるのか、
不思議と楽しくなっていた。
 ところが、五代の心情をぶち壊す事態が、再び展開されていたのだ。
 再び……そう、木の枝に猫の死体が吊り下がっていた。

――続く





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