#254/1160 ●連載 *** コメント #253 ***
★タイトル (pot ) 04/04/24 21:16 (170)
alive(5) 佐藤水美
★内容
5
それから数日後、僕はやっと起き上がれるようになった。食事のほうも、量は多
くないけれど、前よりは食べているつもりだ。
瞬を守らなければ。
その一心が、僕を突き動かしていた。とにかく体力をつけないと、恭一には対抗
できない。
月が変わり、僕は自分から転校先の中学に通い始めた。ただし失声症が治ってい
ないため、教室には入らない。まずは保健室で補習授業を受け、今までの遅れを取
り戻さねばならなかった。
意気込んではみたものの、これが体力的にも精神的にもかなりきつかった。終業
は普通の生徒より早く、午後2時すぎには家に着くのだが、めまいがするほどの激
しい疲労で夕方まで寝込んでしまう。
補習を一時中断して休むこともできたが、僕は頑張り通す道を選んだ。あと1ヶ
月もすれば3年生になる。恭一に馬鹿にされるのは嫌だったし、高校受験のことも
考えれば、簡単に挫折するわけにはいかない。
瞬はそういう僕が心配だったのだろうか。学校から帰ると真っ先に僕の顔を見に
来たし、おやつを食べるのも宿題をするのも、この部屋だった。
「幹にいちゃん、ただいま」
「今日のおやつはプリンだって。幹にいちゃんにもあげるね」
「この問題、ぜんぜんわかんない。どうしよう……」
疲れて気分が悪いはずなのに、瞬の相手をしている間だけは忘れていられた。そ
して以前の出来事を思い出して悲しくなると、瞬は必ず言うのだ。
「眠くなっちゃった、ここで少し寝かせて」
そしてベッドの中にもぐり込んできたかと思うと、僕の首に腕を回す。ちょっと
苦しいけれど、そのぬくもりは決して嫌なものではなかった。
どんな形にせよ、僕が学校へ行くようになったので、伯父夫婦はむろん心療内科
の主治医も、回復のきざしが現れたと言って喜んでいた。
両親を失って2ヶ月半あまり。そんな短期間で、我が身に起きた現実の全てを受
け入れることは不可能だった。心の裏側では未だに両親の死を拒んでいたし、火に
対する恐怖心も相変わらず強かった。
あいつら、何もわかっちゃいない。
胸の中でそう吐き捨てて、醒めた目で大人たちを見る。
僕はひとりだった、どうしようもなく孤独だった。たとえ、瞬のぬくもりに慰め
を感じていても。
その「時」が来たのは、突然だった。
補習を終えた僕は、いつものように校門を出て、バス通りにつながる細い道を歩
いていた。昨日までの寒さはどこへ行ったのか、春めいた日差しが降り注いで、汗
ばむような暖かさだ。時折吹く南風が、伸びすぎた前髪を揺らす。
あれ? この匂い……。
僕は立ち止まって周囲を見回した。甘い香りが、ふいに鼻先をかすめたからだ。
どこから匂ってくるんだろう?
匂いの元を探して、僕は道を外れた。
どこをどう歩いたのか、自分でもよくわからない。気がつくと、知らない住宅街
のまっただ中にいた。
見るからに古そうな家や新築の家。ベランダで揺れる洗濯物、小型車がぎりぎり
通れる程度の道幅。空っぽのガレージにブロック塀、背の高い垣根。ゴーストタウ
ンみたいに、人の声も車の音も聞こえない。
僕はため息を吐き、また歩き出す。不思議と、心細さは感じない。伯父の家に戻
ろうという気持ちさえ、微塵もなかった。
帰らなくちゃ。母さんが待ってる。
強い向かい風が吹き、思わず顔を背けて目を閉じる。
あれ? 何の音?
サイレンに混じって響く、鐘の音。
僕はゆっくりと目を開けた。
家が……燃えてる?
夜空をあぶる炎、舞い踊る火の粉、放物線を描く水の帯。
危ないから下がって!
爆発するぞ!
あの中に父さんと母さんが! お願い、助けて!
わかったから下がんなさいっ! 救助はどうなってる!? 救助は!?
火勢が強すぎます! 突入できません!
誰かが、僕の肩に冷たい手を置く。
可哀想だが、あれはいかんな……なんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ……。
うわああああ!!
声にならない叫びを上げて走り出す。
再び鼻をくすぐる、あの匂い。
見てごらん、幹彦。やっと花をつけたのよ。
母さんが指差したその先には――黒こげの庭木。
夢なのか、現実なのか。
わからないまま、僕は坂道を駆け下りていく。
ここは、どこ?
薄目を開けて、空を仰ぎ見る。
僕はブロック塀に寄りかかって、しゃがみ込んでいた。胸の動悸が激しく、気分
がひどく悪い。
また、フラッシュバック? ああ、そんなことはどうでもいい。
僕は斜めがけにした鞄を肩から外し、塀に手をついて身体を支えながら、やっと
のことで立ち上がった。
どこからか、踏切のカンカンいう音が流れてくる。線路が近くにあるのだ。
僕は片手で胸を押さえ、上体を少し屈めて歩き始めた。脚がガクガクして、左右
にふらついてしまう。
見つけるんだ。
決意にも似た思いが、僕を支配していた。
線路を戻れば、家に帰れる。父さんや母さんに会える。また一緒に暮らせる。
それは喜び以外の何ものでもなかった。
音のするほうを頼りに、ひとり進んでいく。
迷路のような住宅街を抜けると、ようやく線路が見えた。人が入れないよう、高
い金網フェンスが張り巡らされている。
がっかりした途端、僕はフェンスの下部が破損しているのに気づいた。おあつら
え向きに、穴まで空いている。側に近づいて大きさを確認すると、子供や小柄な人
ならもぐり込めそうな感じがした。
いいぞ、X電鉄。
僕は腹這いになって、穴に頭を入れた。匍匐(ほふく)前進するみたいに腕を使
って前に進む。普段は引け目すら覚える、貧弱な痩せっぽちの身体に、今日ほど感
謝したことはない。
少々時間はかかったが、僕は無事侵入に成功した。勝ち誇ったような気持ちで線
路の真ん中を歩く。故郷の方角は定かではなかったけれど、たぶんこっちの、トン
ネルがあるほうでいいはずだ。
「……ちゃん!」
誰かが叫んでいる。でも、僕には関係ない。
特急電車が、もうすぐ連れて行ってくれる。父さんと母さんのいる場所へ。
「幹にいちゃん!!」
突然、制服の上着の裾が引っ張られた。仕方なく振り向くと、顔をくしゃくしゃ
にした子供が僕を見上げている。
「何してんだよ、こんなとこで!」
目を潤ませ、大声でわめく。
君は、誰?
僕はその子供の顔を、ぼんやりと見た。
「どうしちゃったんだよおっ! 僕だよ、僕がわかんないのっ!?」
こちらの腕をつかみ、強く揺さぶる。
「しっかりしてよ! 僕のこと思い出して!」
離せ。
すがる手を一度は振りほどいたものの、子供はしつこく僕の身体にしがみついて
くる。こんなことをして何の得になるというのか。
「瞬だよ! 相川瞬! 思い出してよっ、幹にいちゃん!」
瞬?
「……しゅ……ん……」
動かなかった声帯が、意外にも小さく震えた。
「そうだよ、瞬だよ! 思い出したんだよね、思い出してくれたんだよね!?」
瞬の目から、涙がはらはらと落ちてくる。
泣くなよ。
僕は両手で小さな顔を包んだ。
「早くここから出よう、お母さんも心配してる。電車が来たら危ないよ」
必死に説得する従弟の額に、僕は黙ってキスをした。
「幹にいちゃん?」
「うち……、うち……に……か……かえ、る」
「帰るって……何言ってんだよ! ここがどこだかわかってるの!? 線路の上な
んだよ、轢(ひ)かれたら死んじゃう!」
「それ……で、い……いい……」
「よくないっ、ぜええったいダメ!!」
瞬は金切り声で叫び、僕の身体に両腕を回した。苦しくなるほど、力をこめる。
「は、はな……せ……」
「離さないっ!」
遠くのほうでカンカンという音が始まる。踏切の遮断機が下りたのだ。
「早くっ、幹にいちゃん!!」
瞬は力まかせに僕を引きずろうとした。身体が、ぐらりと揺れる。でも僕は足を
踏ん張って止まり、従弟の肩を両手で強く前に押した。
ところが瞬は、上体をのけぞらせながらも僕の上着をしっかりつかんで、決して
離そうとしない。
「あ……あっち、いけ……」
「嫌だあっ! 僕も一緒に死ぬ!」
「ばか……いう、な」
僕は顔を上げた。右に緩くカーブした線路の先から、ごおーっという地鳴りのよ
うな音が響いてくる。派手な塗装を施した巨体が、いよいよやってくるのだ。
――ガタンガタガタガタンガタンガタンガタン
電車特有の音が急速に大きくなる。あのカーブを曲がれば、たぶん運転席からも
僕たちの姿が見えるに違いない。
従弟は目をぎゅっとつぶり、僕の身体に両腕を回したまましがみついている。
一緒に死ぬ!
瞬は本気だ。僕が今、この子を振り切れなかったら。
ガタンガタンガタンガタガタガタガタン
再び顔を上げる。カーブを曲がった電車が真正面に見えた。赤い塗装に銀色のラ
インを光らせ、警笛を鳴らしながら一直線に突き進んでくる。
生きていたってしょうがない。僕には死ぬ権利があるはずだ。
でも、瞬は……!
僕が瞬を抱えて線路から外れるのと同時に、電車がキィ―――という気色の悪い
悲鳴を上げた。従弟をかばい、金網フェンスに張りつくようにして身を伏せる。強
い風が、叱りつけるように僕の背中を叩いた。
まるでチキンレースみたいじゃないか。
電車が行ってしまうと、僕はようやく瞬に目を向けた。
「だ、だい……じょぶ、か?」
瞬はぎこちない動作でうなずくと、身体を小刻みに震わせながら僕の首に腕を回
した。きつく閉じた目から、涙が止めどなく溢れてくる。
どんなに怖かったことだろう。
「……ごめん、もう……しな……い」
僕は瞬を抱き上げると、フェンスの穴へと急いだ。
to be continued