AWC alive(4)      佐藤水美


        
#253/1160 ●連載
★タイトル (pot     )  04/04/24  21:11  (439)
alive(4)      佐藤水美
★内容
          4

 中学2年生の冬、火事で家が全焼して両親を失った僕は、伯父夫婦に引き取られ
た。住み慣れた街から、伯父の運転する車に乗って、身ひとつに近いかたちで移動
するという引っ越しだった。荷物はボストンバッグ1個しかないのだから、業者を
頼む必要もない。
 見慣れた風景が、次々と後ろに流れていく。高速道路から降りると、そこはもう
別の世界だった。遠くに海を見ながら、いくつものトンネルを抜ける。
 伯父は車中で少し眠ればいいと言ってくれたが、僕はドアに寄りかかって、外の
景色をぼんやりと眺めていた。睡眠薬を飲んでいないのに、眠れるはずがない。
 僕の体調は最悪だった。抑うつ状態、不眠、動悸、神経性食欲不振、栄養不良か
らくる貧血、そして失声症。これは心理的ストレスのために、声が出せなくなる病
気だ。相手の言葉を聞いて理解することはできるのだけれど。 
伯父の家に着いたとき、玄関から転がるように飛び出してきたのは瞬だった。
「幹にいちゃん!」
 いつものように僕を呼んで、車に駆け寄ってくる。
「こらっ、瞬! 危ないじゃないか、下がってろ!」
 車庫入れをしようとしていた伯父が、ウィンドウを下げて声を荒げた。
「だって!」
「だってもクソもない。危ないと言ってるのがわからんのか、4年生にもなって!」
 瞬はひるむ様子もなく、父親にふくれっ面をしてみせた。場の雰囲気がたちまち
険悪なものに変わる。僕のせいで親子喧嘩になるのは嫌だったし、この場合は伯父
の言い分のほうが正しかった。
 僕はウィンドウを叩いて瞬の注意を引き、ゼスチャーで下がるようにと伝えた。
「わかったよ」
 瞬はあっさり承知して、すぐに立ち去った。
「まったく、瞬のやつにも困ったもんだ」
 伯父が顔をしかめて、低い声で呟く。でも僕の目には、ちょっと叱りすぎのよう
に映った。
 玄関では、伯母と冴子が迎えてくれた。冴子は瞬の姉で3人姉弟の一番上、当時
はまだN女子大の1年生だったと思う。
「幹彦くん、よく来たわね。いろいろ大変だったけれど、今日からここがあなたの
家よ。伯父さんや私を本当の両親だと思って、甘えてちょうだいね」
 僕は伯母の言葉にうなずくと、ぎこちない動作で頭を下げた。
「さあ、早く上がって。車に乗りっぱなしだったから疲れたでしょ?」
 今度は冴子が明るい声で言った。母さんの面影が、従姉の優しい微笑みと重なり
合う。胸に空いた穴が一段と大きくなったような気がして、僕は視線をそむけ、黙
ってうつむいた。
「行こうよ、幹にいちゃん」
 いつの間にか、瞬が僕の横に立っている。こちらを見上げる小さな顔には、心配
そうな表情が浮かんでいた。
 瞬に、こんな顔をさせちゃいけない。
 僕は瞬の頭を軽く撫でて、家の中に入った。

 リビングに入り、僕は指示されるままソファに腰掛けた。瞬のほうは、僕の腕に
すがりついて離れようとしない。
「いいかげんにしなさい、瞬」
 冴子は僕の前に紅茶とケーキを置き、年の離れた弟をたしなめた。
「あんたがいつまでもくっついてたら、幹彦くんの迷惑でしょ」
「迷惑なんか、かけてない!」
「おかしいわよ、赤ちゃんみたいで。瞬のぶんのお茶とケーキも、ここに持ってく
るから一緒に食べるといいわ。幹彦くんは逃げたりしないから、離れなさい」
「やだ! 絶対やだ!」
「瞬、怒るわよ!」
 どうして、すぐこうなってしまうのか。バッグの中を探ればメモ帳とボールペン
があるけれど、そのわずかな時間さえも惜しい。僕は瞬の膝を軽く叩き、首を横に
振った。叱ったつもりはないのに、瞬が悲しそうな顔をする。
 僕は瞬の手を取って、柔らかな手のひらを上に向けた。そこに、人差し指でゆっ
くりとひらがなをつづっていく。
 わがまま いわないこと ぼくは ここに いるから あんしんして
「うん……わかった。僕、手を洗ってくるから待っててね」
 瞬は可愛い顎を引いてうなずき、すぐに立ち上がって洗面所に向かった。冴子は
トレイを持ったまま、口をぽかんと開けている。瞬が態度を一変させたので驚いて
いるのだ。
「……すっごい!」
 数秒後、冴子は僕をまじまじと見て、驚嘆の声を上げた。
「マジックを見てるみたい。あの意地っ張りが素直になるなんて」
 瞬のことを、そんなふうに思った経験は一度もない。僕は微苦笑を浮かべ、自分
の足元に目を落とした。

 お茶を飲んだ後、僕は冴子に連れられて2階に上がった。むろん、瞬も後からつ
いてくる。
「幹彦くんはここを使ってね」
 冴子はそう言って、階段の近くにある部屋のドアを開けた。ふいに、心臓のあた
りがぎゅっと締めつけられる。
かつての僕の部屋も、階段のすぐそばにあった。階下の異常が察知しやすい場所
にいたのに、なぜ父さんに起こされるまで気づかなかったのか。僕が早く気づいて
いたら、ふたりとも死なずにすんだ。
耳元で、ごおっという不気味な音がする。廊下には煙が充満して見通しがきかな
い。炎が舌なめずりをしながら、容赦なく襲いかかってくる。
父さん、どこ? 母さんは?
苦しい……息が、できない。
僕は胸に手を当てて、しゃがみ込んだ。
「幹にいちゃん!」
「瞬、どうし……幹彦くん!」
 ふたりの声が遠かった。このまま死ねば、父さんや母さんに会えるだろうか。
「いやだよぉ!」
 瞬の泣き声が聞こえる。
「とにかく寝かせなくちゃ! 瞬、泣いてないでベッドの用意して!」
 肩を抱えられるようにして部屋の中に入る。僕はそのままベッドへ直行となって
しまった。
 横になってベルトを緩め、ズボンのホックを外す。目を閉じてゆっくりとした呼
吸を繰り返しているうちに、僕は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「ほんとに大丈夫?」
 冴子が心配そうに僕の顔を覗き込む。瞬はさっきのことがショックだったようで、
目をこすりながらしゃくり上げている。びっくりさせてすみません、と言いたいの
に声が出ないなんて。
「こんなこと、よくあるの?」
 当然、答えられるはずはない。
「あ、そっか。ええっと、何か書くものは……」
 僕は肘をついて半身を起こし、ボストンバッグを探して部屋を見回した。
「幹彦くんのバッグの中にあるのね?」
 僕は黙ってうなずいた。
「じゃあ私が出すわね。起きなくていいから、横になってて」
 冴子が出してくれたメモ帳とボールペンを使って、最初に言いたかったことをま
ず書く。
「いいのよ、そんなこと気にしないで」
 従姉は笑って言い、瞬を自分のそばに引き寄せた。僕はメモ帳に質問の答えをつ
づる。
 たまにあります
 しょっちゅうあったら身が持たないと思う。専門用語では、こういう症状をフラ
ッシュバックとか呼んでいるみたいだが、僕にはよくわからない。
「そうなんだ。私がもっといてあげられたら、いいんだけど……」
 冴子の表情が曇る。彼女はN女子大の近くにアパートを借りて、ひとり暮らしを
しているのだ。この部屋も、元々は冴子のものだったのかもしれない。僕はページ
をめくり、新しい紙面にボールペンを走らせた。
 大丈夫です おじさんやおばさんに 迷惑かけないように 頑張ります
「無理しちゃだめよ。焦らなくても、ここだって必ず治るから」
 自分の喉に手を当てて言う。僕は黙ってうなずいた。仰向けに寝た姿勢で字を書
くのは、やはり疲れる。
「ほら、瞬。いつまでもメソメソしてないの。幹彦くんは、ちょっと疲れちゃった
だけなのよ。だから心配しないで」
 だが瞬は、顔をくしゃくしゃにして目をこすり続けている。
 しょうがないな。
 手招きをすると、瞬は姉から離れて僕の胸に顔を埋めた。再び震え始めた小さな
肩をさすってやる。
 ごめんね、瞬。
 声にならないのがもどかしい。
「甘ったれねえ」
 冴子はあきれたように言うと、腕時計を見た。
「そろそろ恭一も帰ってくるわね。幹彦くんが来るの知ってるんだから、今週ぐら
いは日曜練習休んだってよかったのに」
 恭一は3人姉弟の真ん中、瞬の兄だ。有名私立大学の付属高校に在籍し、成績優
秀でスポーツ万能。小学校高学年から続けているテニスも、高2の今では、かなり
の腕前になっているらしい。伯父夫婦にとっては自慢の息子なのだけれど、僕は昔
から苦手だった。冴子には言えないが、玄関に彼の姿がなくて、かえってほっとし
たくらいだ。
「さてと、私は下に行かなくちゃ」
「おねえちゃん、もう……帰っちゃうの?」
 瞬は姉の言葉に反応して、顔を上げた。寂しさと不安が入り交じった目で、冴子
を追う。
「夕食の支度を手伝うだけよ。帰るのは食べ終わってから」
「泊まっていかないんだ……」
「だって明日は月曜日よ。瞬も学校があるでしょ」
「そうだけど……」
「ちゃんと学校に行かないと、幹彦くんに笑われるかもね」
 瞬が唇を尖らせ、むっとしたような表情を浮かべる。でも冴子は、弟の態度を無
視して続けた。
「毎朝大騒ぎだって、お母さんがこぼしてたわよ」
「もういい! さっさと帰れば!」
「どうしたのよ、いきなり怒鳴って。私、瞬の気に障ること言った?」
「だから、いいって言ってるだろ!」
 学校で何かあったのかもしれない。僕は横になったままではいられなくなって、
上半身を起こした。急に姿勢を変えたせいか、軽いめまいを覚える。心臓が妙にど
きどきして気持ちが悪い。
「何なのよ、もう。あんたって、ほんとに扱いにくいわね」
「どうせ僕は……普通じゃないよ」
 上目づかいで姉をにらみ、暗い声で呟く。僕の見たことのない瞬が、目の前にい
た。
「はあ? 私がいつ、普通じゃないなんて言った?」
 冴子は両手を腰に当てて、憤然としている。瞬は恭一とも、こんな喧嘩腰のやり
とりをするのだろうか。
僕は急いでメモ帳をめくって短い文を書き、冴子に見せた。
すみません ぼくが瞬と話してみます
「でも……。わかったわ、マジックに期待するしかないみたいね」
 瞬は下を向き、両手で目をこすっている。冴子は疲れた人のようにため息を吐き、
部屋を出ていった。
 メモ帳をめくって新しい紙面を出す。僕はちょっと考えてから、ボールペンを走
らせた。従弟の肩を軽く叩いてみるが、なかなか顔を上げようとしない。やむを得
ず、メモ帳を瞬の目の前に突き出した。
学校のこと 言われたのがいやだった?
 従弟が黙ってうなずく。僕はメモ帳を再び手元に戻し、次の文を書いた。
 瞬が思ってること 聞かせて
「お母さんも、おねえちゃんも……わかってない」
 何を? よかったら教えて
「学校、行きたくない」
 ああ、やっぱり……。
「毎朝、お母さんに追い出されるんだ。行かないのは、わがままだって。でも電車
に乗ると、気持ちが悪くなったり、お腹が痛くなったりするし……」
 瞬は今痛んでいるかのように、胃のあたりをさすった。うまく電車を乗り継いで
も、片道1時間半はかかると、前に伯母が言っていたのを思い出す。僕は次のペー
ジをめくった。
 体の具合が 悪くなること お母さんに言った?
「言ったよ。小児科にも連れていかれた。だけど、先生は何でもないって……」
 でも つらいんだよね
「うん……」
 もしかして 学校で いじめられてる?
「ううん、それはない。ただ、僕は……みんなと違う」
 どういう意味? 
 瞬は答えなかった。僕はまたページをめくり、別の文を書く。
 ちがっていても いいと思う 
「でも……」
 みんなと 同じほうがいい?
「よくわかんない」
 瞬が首を振る。自分の気持ちを言葉で表現するのは、易しいようで難しい。それ
は僕も同じだ。
 ほかの子と ちがっていても 瞬は瞬だよ
 ぼくにとっては 大切な いとこ
「幹にいちゃん!」
 瞬がいきなり抱きついてくる。上半身がぐらりと揺れ、僕は慌てて後ろに片手を
ついた。幼い頃とまるで変わらない。
 ちょっと苦しいんだけどな。
 メモ帳を手離し、小柄な背中に腕を回す。
「僕、おねえちゃんに謝ってくる」
 その決意を歓迎する意味で、僕は瞬の頭を撫でた。
機嫌を直した従弟が部屋から出ていく。こんなに長く筆談を続けたのは、初めて
だった。顔をしかめて、みぞおちのあたりをさする。
 疲労が身体に重くのしかかり、気分も悪かった。上半身をベッドに戻し、眠れな
いとわかっていても目を閉じる。
 僕は何故、生きているのだろう。
 ひとりになると、いつもそのことを考える。
カウンセリングの先生は、生き残ったことに罪悪感を持ってはいけないと言って
いた。でも僕は、ふたりを踏み台にしてまで、生きていたくはない……。
ドアの向こう、一階のほうから賑やかな話し声が聞こえてくる。恭一が帰宅した
らしい。下に降りて、あいさつをしておいたほうがいいのだけれど、今は呼吸をす
るだけで精一杯だ。
火事の前は、僕も彼のような声を出していたのだろうか。
笑うこともあったのだろうか。
何もかもが、遠くなってしまった。
両方の目尻から、熱いものが滑り落ちていく。涙など、涸れたと思っていたのに。
「幹にいちゃん」
 ドアが微かに軋む音と共に、瞬の声がした。目を開けると、溜まっていた涙が一
気にこぼれたが、僕は拭おうともしなかった。従弟が猫みたいに足音を忍ばせて、
ベッドに近寄ってくる。
「おねえちゃんに謝ってきた。あれ……どうしたの?」
 ひざまずいて、こちらの顔を覗き込む。どうもしないとでも言うように、僕は首
を横に振った。
「お母さんが、晩ご飯できたよって。おにいちゃんも帰ってきた」
 再び首を横に振る。何も食べたくない。
「食べないの? じゃあ、僕もここにいていい?」
それは駄目だ。片肘をついて身体を起こし、メモ帳とボールペンを取り上げる。
下に行きな
長々とした言葉は書きたくない。僕は紙面を瞬に向けた。
「だって……」
 おなか すいたろ? 早く行きな
「幹にいちゃん、どこにも行かない? ずっと、ここにいてくれる?」
 何故そんなことを言うのか。でも、理由は聞かなかった。瞬の本音を2回も受け
止めるのは、さすがにきつい。
いるよ
「ほんと? ほんとにほんと?」
 信じて
「うん、信じる」
 瞬はうなずいて答えると、はにかんだような笑みをみせた。可愛い、と思う。
「幹にいちゃん、目つぶって」
 僕は何の疑問も持たず、言われるがままに目を閉じた。頬を包むような手の感触
と共に、暖かくて柔らかいものが唇に押し当てられる。
「……大好き」
 切なげな声に目を開けたとき、瞬はもういなかった。ドアがバタンと閉まり、階
段を駆け下りる足音が遠ざかっていく。
 僕は仰向けになって寝転がり、指先で自分の唇に触れた。死の影が、胸の中で微
かに揺らいでいる。
 お互いにとってのファースト・キス。
 新しい歯車が回り始めたことに、瞬も僕も気づいていなかった。

 しばらくして、冴子が部屋に夕食を持ってきてくれたものの、僕はほとんど手を
つけなかった。申しわけないと思ったけれど、薬と水を受け取り、食器を下げても
らう。食事をろくに摂らないまま薬を飲み続けているせいか、このところ胃の具合
まで悪い。
従姉が行ってしまうと、僕はパジャマに着替えて睡眠薬を飲み、電灯を消してベ
ッドの中にもぐり込んだ。暗闇の怖さも、むかむかする感じも、数分我慢すれば薬
が消してくれる。下の階から響いてくる笑い声やテレビの音を聞きながら、僕はた
め息を吐いて、まぶたを閉じた。
目が覚めたのは、翌日の早朝だった。ドアの向こう側が、何だか騒がしい。
そっか、今日は月曜日だっけ。
専業主婦の伯母は別として、伯父と恭一、そして瞬の3人が出かけるのだから、
慌ただしいのは当然だ。
僕も起きなくちゃ。でも、身体が動かない。朝が、1日のうちで最も調子の悪い
時間帯なのだ。
誰かが足音を大きく響かせて、階段を駆け上ってくる。
「おいっ、瞬!」
 僕はベッドの中で、びくりと身体を震わせた。理由はわからないけれど、恭一は
明らかに怒っている。
「何やってんだよ、さっさと降りてこい!」
 怒鳴り声がドアを突き抜けて、部屋の中まで響いてくる。
 いったい何があったのだろう。
 僕は片肘をついて、上半身を少し起こした。ちょっと動いただけなのに、動悸が
する。胃が、ぎゅうっと絞られるような感じがして、気分が悪い。
「早くしろっ!」
 恭一が瞬の部屋のドアを開けたらしく、バーンという大きな音が聞こえる。
「やだっ、行かないっ!」
 瞬の金切り声が耳に痛い。
「いいかげんしろっ、この馬鹿!」
「うわあっ、やめてよおっ!」
 瞬の叫び声と、何かが崩れ落ちるような音。ドアを開け放ったままにしているみ
たいで、怒鳴り合いの様子がよくわかる。恭一には元々短気なところがあるが、そ
れにしてもこの怒り方は普通じゃない。
 いくら何でも、やりすぎだよ。
すぐにも飛び出していって、恭一を止めたい。よろよろと起き上がり、やっとの
ことでベッドから出る。でも重い身体を引きずって歩き始めた途端、周囲が突然
ぐるぐると回り始めて、僕はその場で倒れてしまった。貧血のせいだ。
「うっせえっ! 呼びにきてやってんのに文句言うなっ!」
「そんなの頼んでないっ!」
「何だとォ!」
 ぎゃあっという子供の悲鳴がする。恭一が瞬に暴力をふるっているに違いない。
 やめろ、やめてくれ!
口を開けて喉に力を込めても、声は出ない。
「とっとと着替えて学校に行け! 俺が遅刻したら瞬のせいだからな! 何でこん
なことやらなきゃいけないんだよ、幹彦がすればいいのに。あの役立たず!」 
「幹にいちゃんのこと、悪く言うなっ!」
「生意気な口を……いってえ!!」
 今度は恭一が叫び声を上げる。どうやら瞬が反撃したらしい。
「恭一、瞬! あなたたち、何やってるの!」
 階段を急いで上ってくる足音と共に、伯母の声がした。
 これでやっと喧嘩が終わる。
「恭一、あなたに瞬を呼んできてって頼んだけれど、喧嘩をしなさいとは言ってな
いわよ」
「おにいちゃんがぶった、おにいちゃんがぶった!」
「こいつ、俺の手に噛みついたんだぜ。見てよ、血が滲んでる」
「おにいちゃんがぶった、おにいちゃんがぶった!」
「うっせーぞ、瞬!」
 何かがひっくり返ったような音。
「ふたりともやめなさい! ほんとにもう……あなたたちは、どうして喧嘩ばかり
するのよ」
「だから嫌だって言ったろ? 最初から幹彦起こして頼めばよかったんだ」
「そうはいかないわよ」
「昨日、姉貴が言ってた。瞬は、あいつの言うことなら何でもきくって」
「でもね……」
「俺、もう行くから。完全に遅刻だよ、最悪」
 階段を駆け下りる音が響く。
 僕は心の底から恭一が嫌いになった。
「瞬、支度しなさい。今日はちゃんと学校に行くっていう約束よ」
「お腹……痛い」
「またそんなこと言って! おにいちゃんと喧嘩できるくらいなら行きなさい!」
「でも……」
「瞬、あんまりお母さんを困らせないでちょうだい。これから幹彦くんを、病院に
連れて行かなきゃならないのよ」
「病院?」
「そうよ、早く元気になって欲しいでしょ?」
「うん。元気になったら、またお話しできるようになる?」
「ええ、きっと。そうじゃないと困るわ」
「わかった。僕、学校に行く」
 瞬の言葉に呼応するように、僕は冷え切った身体をゆっくりと起こした。めまい
は治まっていたが、すぐに立ち上がるのは禁物だ。
 大丈夫かな、瞬……。
従弟の、まだ幼い顔を思い出す。高校生の兄に容赦なく叩かれても、母親から同
情の言葉ひとつもらえないなんて。噛みついたのは良くないけれど、瞬だけが悪い
んじゃない。僕が恭一を止められたら、こんな騒ぎにはならなかった。
 ベッドの縁につかまって、静かに立ち上がる。少し回る感じがしたが、この程度
なら耐えられそうだった。
 窓際へ行き、カーテンを開ける。朝日が眩しくて、僕は目を細めた。
冷たいガラスの向こうには、スロープみたいな坂道や葉を落とした庭木、整然と
並ぶ家々があった。さらに遠くへ目を転じると、私鉄の線路や入り江に浮かぶ小島
まで見えてくる。この家が、高台の上にあるからこそ得られる眺望だ。
あそこの島の名前、何て言うんだっけ。
ずっと昔、父さんが教えてくれたような記憶があるのだけれど、思い出せない。
ふいに目の奥が熱くなり、僕は両手で顔を覆った。とても大切なことを忘れてしま
ったような気がして、涙が溢れてくる。
 もう嫌だ、生きていたくない。
 僕は鼻をすすりながら、窓枠のロックを外した。ガラガラと大きな音を立てて窓
を開ける。向かい風に逆らって大きく前に身を乗り出したとき、坂道を下りていく
人に気づいた。
 金の紋章が入った黒いランドセルに紺色のコートと制服。服と同じ色の丸い帽子
を被っている。のろのろと歩いては立ち止まり、目のあたりをしきりにこする。
 瞬だった。
 元気になったら、またお話しできるようになる?
 不安げな幼い声。さっきとは違う涙が出てきて、胸の奥が締めつけられる。僕が
見ていることなど知らずに、小さな後ろ姿は次第に遠ざかっていく。
 北風にあおられるように、僕は上体を起こした。脚の力が抜け、膝を折ってその
場にうずくまる。
 死にたいの? 死にたくないの?
 自分でも、どうしたいのかわからない。
 部屋に吹き込む風が、ひゅうっと鳴った。
 
 伯父の家に来て5日、僕は部屋の中で寝込んでいた。
 恭一と瞬が喧嘩をした日の朝、窓を開け放って北風に当たったのが悪かったらし
い。たちまち風邪を引いて、高熱が出た。
熱は点滴と薬でいくらか下がってきたとはいえ、まだ38度近くある。胃の調子
が悪くて、うっかり咳き込むと、腹の底から突き上げるような吐き気に見舞われて
しまう。ベッドを汚さないために、枕元にはビニール袋とタオルを置いているが、
今のところ使ってはいない。
 瞬はというと、部屋の中に入るのを禁じられているのか、所在なさげに扉の前を
行ったり来たりしている。姿が直接見えなくても、足音でわかるのだ。
 喧嘩の翌日から、瞬はちゃんと学校に通うようになった。僕には行きたくないと
言っていたけれど……。
 階段を上ってくる誰かの足音が聞こえる。
「あれ、おにいちゃん」
 瞬の声がする。恭一が帰宅したようだ。もうそんな時間になっているのかと、壁
掛け時計に目を凝らす。1日のほとんどをベッドで過ごしている僕は、時間の感覚
が麻痺していた。
 文字盤がぼやけてよく見えない。室内が薄暗いせいもあるが、このところ視力が
急に落ちていて、部屋の中にある物さえも、目を細くしなければはっきりとした形
を捉えにくくなっていた。メガネを作らなきゃ駄目かなと思う。
「何してんだよ」
「……別に。おにいちゃんこそ、今日は早いね」
「またすぐに出かける。おまえ、俺の部屋に入るなよ」
「頼まれたって入んない」
「やけに強気じゃ……ああ、幹彦か。味方ができてよかったな。まあ、せいぜい看
病してやれよ。俺は忙しいから」
「だったら早く出かけなよ」
「そうするさ」
「いてっ! 何するんだよ!」
「じゃまだ、どけ」
 何かが壁に当たったような、鈍い音がする。同時に微かな泣き声を聞いたような
気がして、僕は起き上がってベッドから出た。ふらつく身体でドアに向かう。
 バタンという乱暴な音がした。恭一は自分の部屋に入ったらしい。
 僕はノブを回してドアを静かに開けた。案の定、瞬がべそをかいて目の前に立っ
ている。
 こっちにおいでと言う代わりに、僕は従弟の頭を撫でてやった。瞬がはっとした
ように顔を上げる。潤んだ目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……幹にいちゃん」
 しくしくと泣きながら抱きついてくる。
 恭一と瞬は仲が悪い。何故そうなったのか、僕も知らない。
 でも自分より明らかに力が劣る者に対し、執拗な暴力をふるう必要はないはずだ。
 向かいのドアが開き、恭一が姿を現した。黒っぽいショルダーバッグを肩にかけ
ている。こちらと目が合うと、むっとしたような表情になった。僕のほうも、知ら
ず知らずのうちに睨みつけていたのかもしれない。
「何だよ」
 声さえ出たなら、言いたいことは山ほどあった。恭一は尊大な歩き方をして近寄
ってくる。僕の部屋の前を通らないと、階段を下りられないからだ。
「幹彦、知ってるか? おまえ、本当は施設行きになるはずだったんだぜ。父さん
が母さんを説得して、この家に引き取ることにしたんだ。感謝しろよ」
 恭一は薄笑いを浮かべて告げると、階段を駆け下りていった。
 手放しで歓迎されたわけじゃないことぐらい、あいつなんかに言われなくても知
っている。でも、やっぱり悔しい。僕は下唇を強く噛みしめた。
「……めんね」
 瞬がしゃくり上げながら言う。
 何を?
「……ごめん……ね。ぼ……僕の……せいだ」
 瞬が悪いんじゃないよ。
僕は背を屈め、従弟の身体を強く抱きしめた。
 瞬に対する恭一の暴力は、かなり以前からあったらしい。しかも伯父や伯母、冴
子の目が届かないところでやるという、陰湿なものだった。兄にいじめられたと訴えれ
ば、後でさらにひどい仕返しをされるから、黙って耐えるしかなかったのだ。
 とはいえ、瞬も成長するに従い、やられっぱなしではなく反撃もするようになる。
周囲の人間には、それが激しい兄弟喧嘩と見えるのではないか。
 学校が長期の休みに入ると、必ず僕の家に遊びに来ていたのは、そういう理由が
裏に隠されていたからだと思う。庇ってくれる人がいなければ、その場から逃げ出
すしかない。自宅に戻らねばならない日、瞬はいつも大泣きして僕たち家族を困ら
せた。あれはわがままなんかじゃなくて、悲鳴だった。
 子犬みたいに飛び跳ねて、よく笑う子供。本当は泣きたかったのに、無理して明
るく振る舞っていたのかもしれない。家で待っている辛い現実を忘れるために。
 早く気づいてやれなくて、ごめん。
 僕はメモ帳にそう書いて瞬に見せた。従弟は再び大粒の涙をこぼしながら、抱き
ついてくる。
「ずっと……一緒にいて……」
 いるよ
 人差し指で、瞬の背中に文字を書いた。何度も何度も、繰り返して。

                      to be continued




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