AWC 『Z−NETは今日も晴れ』(1)旅烏


        
#201/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (LAG     )  87/ 6/11  14:26  (139)
『Z−NETは今日も晴れ』(1)旅烏
★内容

「所長、所長...もう朝ですよ、起きてください」

「タマちゃんかぁ..ゆうべ遅かったんだ、もう少し寝かしてくれよ...」

出勤してきた若い女が、事務所のソファでだらしなく寝ている男に、声を掛けた。

「どうせ飲みすぎか、パソコンゲームのやりすぎでしょ..起きて起きて」

強引にソファで寝ている男の手を引っ張ると、洗面所のほうへ背中を押してやった。

愛知県は岡崎市の町のなかにある冬野探偵事務所は、立派な看板の割に戦災で
焼け残ったに違い無いと思わせる、いまにも倒れそうな古いビルの2階に有った。
所長は冬野和正35才..独身の..良い男ならいいのだが、なかなか現実は小説の
ようにはいかないものだ。
社員は玉井礼子23才、通称タマちゃんと猫のような名前で呼ばれている秘書兼
事務員が一人である...
小柄で、なかなか可愛い顔立ちなのだが、気が強いのがタマに傷
(冬野所長に言わせると傷にタマだ!となる)である。

「何で私が、こんな事しなくちゃいけないんだろ?いいかげんにして欲しいわ!」

洗面所から、タオルで顔を拭きながら出てきた冬野所長は愛敬のある顔に似合わず、
深刻な表情を作って玉井礼子に聞いた...

「今月の収支はどうなっているかな?」

「私のお給料が出して貰えるかどうか心配しているところですわ」

「なるほど...それはマズイな...俺の給料が出ても君の分が出ないと...」

玉井礼子はあきれたように、ため息をついて言葉を続けた...

「事務員の私に給料が出るかどうか心配している時に、責任者の所長に給料なんて
 出る訳ないでしょ!とんでもないわ、全く」

「おっ、おい!それじゃあ俺はどうやって生活するんだ!」

「そんな事、しがない三流会社のOLに聞かないで下さい!私のお友達なんてボーナス
 のたびに海外旅行してるんですよ...こっちは熱海だって行けやしないってのに」

所長の冬野和正は、私立探偵として希に見る腕利きなのだが、生来の不精者である上に
浮気の調査とか結婚相手の身元調査などの手軽な仕事は、すべて断ってしまうので
不景気この上無い状態であった。

「探偵が不景気という事は世間が平和で結構なことだがな...」

「そんな事じゃ、当分お嫁さんは来そうも無いですわね..先日の調査依頼も断って
 しまうし、何を考えているんだか...
 今月だけは私のお給料は、月末に全額持って帰りますからね!」

ここのところ2ヶ月というもの玉井礼子のサラリーは2回に分割して支払われて
いた...

「あんな、亭主の浮気の調査なんて低俗な仕事が出来るものか!刑事事件か、それに
 類した事件以外、俺は扱わんぞ!第一、ラブホテルの前でしゃがみこんでアベックが
 出てくるのを待つなんてみっともない真似はしたくない...」

「探偵事務所で喰い詰めて首吊りするのも、負けずにみっともないと思うんだけどな」

玉井礼子は、部屋の片隅に置いてあるパソコンの前に座ると、器用にキーボードを
たたき出した...
この事務所で玉井礼子を除くと、ただ一つの値打ち物といえる16ビットの
コンピュータは、パソコン通信のホストにもなっていて、一応他の探偵事務所などとの
連絡が出来るようになっていた。
ホストの名前はZ−NETと言って冬野和正のニックネームであるZEEKのZを
とった安易な名前である...
ごく希にこのNETに調査依頼が入る事もあったが、それは全て他の探偵事務所で手に
余るような難事件ばかりであり、しかも難事件なるものは、そうたびたび起こるもので
はないので、敏腕探偵も暇を持て余すという事になる...

「あらっ、珍しく調査依頼が入ってますよ!」

「犬がいなくなったから捜してくれとか、浮気の調査なんてのはごめんだからな」

「いいえ、今度だけは仕事してもらいますからね..ドブ掃除だってかまいませんわ」

「滅茶苦茶言うなぁ...所長は俺だぞ」

冬野和正はソファに寝そべってタバコをふかしながら、情けなさそうに少し出てきた
腹をなでた...

「今日の午前中に依頼人をこちらによこす、とだけしか書いてありませんけど」

「どうせ、ロクな依頼じゃないさ、コーヒーを入れてくれ..」

玉井礼子は立ち上がって、ソファに寝ている冬野所長を横目でニラむと..

「仕事もせずに寝ながら人にお茶を入れさせるなんて、いい気分でしょうね...私も
 一度で良いからしてみたいものだわ」

冬野所長は情けない顔をすると「女房でもないのにイヤミを言うなよ」とボヤいた。

「こういう人とだけは結婚しちゃいけないって事が良く分りますわ、ここに勤めて所長
 を見ていると..」

礼子は部屋の片隅を仕切った簡単な洗い場から金属製のお盆に自分のものと2つの
コーヒーカップをのせてきて、冬野所長にコーヒーを手渡しながら言った。

熱いコーヒーをすすりながら冬野所長が「ひどい言われようだなぁ..」と嘆いた時、
階段をギシギシ言わせて誰かが上がってくる足音がした。

「お客さんですよ、いいですね所長..必ず引き受けて下さいよ、より好みしてられる
 状態じゃ無いんですから」

「分った分った、そううるさく言うと嫁の貰い手が無くなるぞ」

冬野所長は、うるさそうに手を振ると玉井礼子を事務机のほうに追いやった...
まもなくドアがノックされて、いかにも疲労しきった感じで、青白い顔色の痩せた
50がらみの男が入ってきた。

「あのう..冬野探偵事務所はここでしょうか?」

入口に近い事務机から、依頼人らしい男に玉井礼子が最上級の笑顔で答える。

「はい、こちらが冬野探偵事務所です..今日は珍しく、
 いつも忙しい所長も居ますからどのようなご相談もお受けいたしますわ..ほほほ」

礼子の、あまりの変り身の早さと愛想の良さに驚いた冬野所長は、ぼんやりしていて
煙草の火がズボンに落ちたのに気が付かなかった...

「アッチチチ!わっ!ズボンに穴が..まだ月賦が終ってないのに...」

玉井礼子は目をつぶって長嘆息した...

目の前で起こったドタバタ喜劇にも、殆ど関心がなさそうなカモ...いや、依頼人は
そわそわと落ち着かず、早く話しを切り出したそうである。
客の前にお茶がだされて、依頼人の話しが始まった。

依頼人の名前は平野隆治といった...

「じつは一身上の危機でして、2日以内にある書類を捜し出さないと身の破滅なのです
 もう手遅れかも知れませんが..」

冬野所長は「なんだ捜し物か」という、がっかりした表情を見せたが、依頼人の態度は
真剣そのものであり、次の言葉は冬野所長と玉井礼子を椅子から2センチほど飛び上が
らせるのに充分であった...

「2日以内に捜し出せたら、謝礼は100万円支払いますが...」




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