AWC 吉外信報69                 大舞 仁


        
#7164/7701 連載
★タイトル (XVB     )  99/11/13   0: 6  ( 90)
吉外信報69                 大舞 仁
★内容

『アモールとプシケー』(黄金のろば)より
物語の解説
 この物語のヴェヌスとは元型的な太母を意味しています。だから元型的なイ
メージゆえにきわめて残忍で、女性としてあまりにもきらびやかになり、しか
も厚かましくふるまうようになります。これは愛すべき汚れのない花プシケー
がぞっとするような残酷な怪物と命がけの恋をするのを見たいと思うのであり
ます。
 一方プシケー側から見ると、母性世界からすべての結婚は敵愾心に満ちた男
性の一面が、処女の輝きを強奪することであり、冥王ハーデスのプロセルピナ
(コレー)の強奪なのです。結婚とは山頂をおもわせるような孤独から男性を
待っていて、やがて良人つまりクピードがあらわれると、プシケーが闇の中で
身を置くことなのである。結婚とは男性にとって、攻撃、勝利、強奪、欲求の
満足であるのに対し、女性では何よりも誘拐、うばいとること、すなわち強奪
であると思われるのです。
 処女が到達するのが死の結婚(実際に死ぬのではなく「結婚」にて語るとき
心の中に、元型的な経験をすでにもっており、それをたんに肉体的な結合であ
るとは考えていない)プシケーは死の結婚を彼女の直観によってできごとの背
後にある意味をとらえたのである。プシケーは怪物との結婚によって、ヴェヌ
スのしかるべき罰を当然のこととして自己をささげる決意があってこそ、一人
寂しく岩の上にすてられる身となった。そのため、彼女が去ると群集の悲しみ
はつのり、また両親の悲しみもひときわつのったのであります。
 やがて舞台は一変し、物語の中でも最も深い印象を与えるエピソードがあら
われる。そう、プシケーはクピードが創り出した楽園の中にいるのであります。
しかしこの幸せは、暗闇の恍惚状態であると言わねばなりません。彼女にとっ
ては、ただ感じられ聞えるだけで、だたそれだけで満たされているようにみえ
るのです。この不安定な状態は長く続くはずがない。エデンを追われたアダム
とイブのようにこのプシケーの楽園にも蛇、彼女の姉たちが入ってくるのであ
る。姉たちは嫉妬にかられてプシケーに夫を見るように再三そそのかし、つい
にプシケーは闇の中に燭台を持ってきて、真実の夫の姿を見てしまう。プシケー
は「心地よい牢獄」として、クピードと共にいる無意識的な無我夢中の中の流
れの中に漂っていたが、夫の姿を見た今となっては、感覚的な楽園の影のよう
な非現実を見、愛人との接触において自らの女性性、より高い意識性へと向っ
ていくのを認めるのであります。最初に説明した処女の輝きを犯した不名誉に
対して闇の中での彼女ができることは、男性を殺し、去勢することなのである
が、光と知識を得た以上、プシケーは無意識の暗闇を打ち破り、母性能力の露
骨さから開放され、はじめてクピードを真から愛し(暗闇の中では性と快楽の
肉体的なものだった)彼を認めたのである。
 クピード自身は、このようなプシケーを望んではいなかった。彼は彼女を闇
の中にとどまるように言い、光のある現実へ向う無意識的な傾向は、プシケー
は強かったし、他の何物(暗闇でのクピードに対する愛)よりも強かった。と
彼は思ったに違いない。暗闇の中のプシケーは夜の伴侶にすぎず、昼の伴侶で
はなかった、世間から引っ込んで彼のためにのみ生活し、彼の昼間の存在、彼
の現実と神性を共にすることはなかったのである。
 プシケーは彼を失うという痛手は受けたが、今や、プシケーは意識という光
で、彼がもっている彼女を支配する神的な力をうばいとり、二人は平等なもの
としてお互いに対決しうる立場になったのである。

疲れた…ここまで書いてメール友人にみせたところ、これはエリック・ノイマ
ンの文章のところどころ断片の写しじゃないかとの諫言を浴びせられた。私の
意見としてはばれたかと言うところ、これはそうじゃないとシラをつきとおす
こともでき。これが完成すれば偉い人の解釈であるだけにある形ができるはず
たが、わたし自身『死の結婚』について他の心理学関係の本を読んでも納得で
きる答えが見つからない。わたし自身がプシケーに了承していないのかもしれ
ない。
 ということで、今回は180度方向転換して雑談をば、『アモールとプシケー』
という物語の主人公プシケーには私には同意できない部分があります。プシケー
が怪物との結婚を承諾したのは潔いと言えます。そしてプシケーに良人に光を
あて、刃で首を斬るように言った姉たちへの復讐(良人が姉たちを嫁さんに欲
しいとプシケーが言い愚かな彼女たちはそれを信じて谷底に身を投げる)は物
語として残酷で面白い、けらけらけらと笑えます。
 だが、問題はそれからです。プシケーが夫クピードを失ってから何度も自分
では解決できない問題に直面してから何度も死のうと思い(ええいうっとおし
いやっちゃな)、そこに牧神パーンを始め、問題を変わって解いてくれる蟻(個
人的には、蟻は嫌いだ)、葦(どちらでもいい)、鷹(鳥はなんでも好きだ)、そ
して塔(どちらでもいい)が登場する。どれもプシケーに助言を与え、プシケー
はそれに従うだけです。こんなことなら誰でもできるのではないかと思います。
本では難題を解いていくという風に言われているが、彼女は実は他のものに言
われるまま、自分で考えることは何もしていないではないのでしょうか。その
上最後には、プルセルピナから貰った小箱の中身を愚かにも開けてしまい、う
まいぐあいに傷を治したクピードの登場で彼女は助かり、クピードの父親ユッ
ピテルの助言を得て、ヴェヌスも説得されて、二人の結婚は神々から祝福され
てめでたしめでたしとなる。こんな物語で果たしていいのか!!

 面白いのは、人によって物語が幾通りにも解釈できることだ。今受けている
心理学の参考本になる物語(数万、否星の数ほどもある物語たちの中で心理学
の参考本となる物語は心理学者たちの創りだした自分たちの解釈にあった数十
の本のみと言える。その数は宝くじの確率と良く似たものと言える)はクリス
タルのカットのようにどんな方面から見ても、どう解釈しても自分に当てはま
るようにできていることになる。そのため、わたしみたいに心理学にはまりこ
むと沈没(撃沈されてしまいました)してしまう可能性もあるということです。
これは趣味としての遊び(これも誤解のないように)として扱うのならいいが、
のめり込むと危ないと注意しなければならないのである。
 最近になって心理学も恐山のわけのわからない言葉をしゃべるイタコも、ダ
イヤモンドのカットのようにどう読み取るのも個人と勝手だということに気が
つきました。
                               大舞 仁







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