#4666/7701 連載
★タイトル (AZA ) 96/ 4/ 1 0: 8 (198)
イヴリン奇譚 3 二羽岡一彦
★内容
7
<なんて大きなお屋敷でしょう−−!>
キャリガッド伯爵の館の前に降り立ったとき、テティスはまずその大きさに
目を見張った。彼女はこんな立派な屋敷をいままで一度も見たことはなかった。
目の前に屹立する屋敷の風格と壮大さ、そして広々とした庭は彼女を圧倒した。
長い馬車旅でずいぶん疲れていたが、これからの新しい生活を思うと、テテ
ィスの胸は期待と不安でいっぱいになった。
テティスがトゥスネルダやエイミィのもとを発ってから、すでに一週間が経
っていた。道中、テティスは馬車の中や宿泊地で彼女たちのことを想っては、
何度も何度も眠れない夜を泣き明かした。
それでも後悔はなかった。ただ寂しさがあった。
<でも今は、これからのことをしっかり考えなくちゃ>
彼女は辺りを見廻し、ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
テティスが振り返ると、伯爵が召使いに、馬車を裏の馬小屋に戻して手入れ
をしておくようにとあれこれ指示をしているのが見える。
召使いが去ると、伯爵はこちらを向き、手招きした。
「おいでテティス。わたしの家族を紹介しよう」
伯爵にうながされて屋敷へ歩いてゆくと、一人の若い娘が小走りに駆けて来
て、そのまま勢いよく伯爵に抱きついた。
「お帰りなさい、お父様。体のお加減はどう? 長い馬車旅で疲れたでしょう?
でもお休みになる前に、早くアンナのことを聞かせて。彼女、あれからすこし
は変わって? ううん、きっと相変わらずでしょうね。聞かなくても、何とな
く分かる気がするわ。ああもう、あたしもアンナに会いにいけばよかったわ…
…」
「わたしはアンナに会いに行ってたわけではないよ、エセル。ヨアン子爵に大
事な用があったんだ」
伯爵は彼女の腕をふりほどいて、おしゃべりを中断させた。
手をエセルの肩に置いて、
「そうだ、紹介しよう。彼女はテティス。今日からここで働くことになった女
の子だ。そして……」
と、今度はテティスのほうに向き直った。「テティス、これはわたしの娘で、
エセルという。彼女は妹で、もう一人姉のドナがいる」
伯爵に言われて、はじめてエセルはテティスがそばにいることに気づいたら
しい。しばらくきょとんとしたまま、テティスを見つめている。
見たところ、彼女はテティスよりも年齢が上のようだ。そして身長も。つい
でに言えば、気品も、教養も。エセルの表情は無関心だったが、テティスは、
恐らく自分は値踏みされていると思った。
「あたしエセル」
いきなり突き放すような口調だった。「一五歳よ。あなた、いくつなの?」
いくつ、という言葉にテティスは反感を覚えた。それはテティスは『子供』
で、自分は『大人』だと言っていた。明らかに見下されている。しかし、貴族
の生まれか否かというのが、彼女の基準ではなかったようだ。少なくともテテ
ィスはそう感じた。
−−いいわ。それなら何とかなる問題よ。
テティスは自分に言い聞かせた。
「一二よ」
と、テティスは言った。笑顔を作りながら。「あたし、テティス・アンシー
ダといいます」
三つ年下になるテティスを、エセルはその瞳でじっと凝視した。何かを判断
しているようでもあり、何も考えていないようでもあった。
「そう」
反応は、それだけだった。くるりと背を向けた。
テティスはこのときから、エセルが嫌いになった。
姉のドナ、本名をドナスタシアといったが、彼女はテティスにとってはエセ
ルよりも、もっと嫌な人間だった。身体全体から貴族の匂いが感じられた。高
貴や気品ではない、尊大で傲慢な態度が、ドナの身体に張り付いている。会っ
たその瞬間に、テティスはそれを敏感に感じ取っていた。
「わたし」
と、テティスを一目見てドナスタシアは言ったものだった。
「わたし、この子とは仲良くなれそうにないわ。生まれも、教養にも差がある
もの。もし彼女が従者としてこの家へやって来たとしても、私じゃなくて、エ
セルの世話をみさせてよ」
それを聞いて、テティスはもうすこしで叫び出しそうになった。
<あなた、いったい何様のつもりなの? あなたの世話なんて、こっちから願
い下げするわよ!>
その心の叫びを、伯爵は聞いたようだった。
「彼女はエセルにもドナにも仕えない。彼女にはわたしのそばに仕えてもらう
つもりだ。……それとドナ、他人を卑下するような言葉を軽々しく口にするも
のじゃないよ。それは自分を貴く見せしめるわけでもなく、ただ心の狭さと思
い上がりを吐露するだけだ」
父親のその言葉に、ドナはぎくりとし、うつむいて唇を噛みしめた。
−−なぜ、あたしがこんな女の前で、しかも自分の父親に叱られるのよ。あ
たしはちっとも悪くないというのに!……
おそらく彼女の顔は、恥ずかしさと怒りで真っ赤になっているに違いない。
その様子を見ていたテティスは、人知れずそっと溜息を落とした。
<彼女、きっとあたしのことを、ますます嫌いになったでしょうね……>
それは、そのとおりになっていた。
8
さて、翌日からテティスの屋敷での仕事がはじまった。
伯爵の身のまわりの世話が彼女に与えられた仕事であるが、そのほか家事の
手伝いや食料の買い出しなどもすることになっている。
テティスの他にもメイドが何人か住みこみで働いており、炊事・洗濯・掃除
などは主に彼女らがする。彼女らは別館の各部屋を割り当てられているが、テ
ティスには本館の一階にある来客用の小さな一室があてがわれた。伯爵のそば
にいて、彼の世話をするためである。
ここで、伯爵の身上について触れておかなければならない。
この頃から伯爵は、絶えずそばにいて自分の付き添いをしてくれる者を必要
としていた。
彼はもともと身体が弱く、持病の肝臓病の他、数年前から原因不明の病気を
患っていた。いっこうに熱が下がらず微熱状態が続き、せきこむと血を吐くそ
の病気は、当時この大陸全土を襲った奇病であり、当時の医学では原因も治療
法も解明されなかった。そのうえ、彼の視力はその頃から急激に衰え始め、今
左眼はほとんどその機能を失っており、ほとんど何も見えない。右眼はかろう
じて見える程度である。
その眼の治療のため、伯爵は一ヶ月ほど前に、彼の古き友人で、眼科医でも
あるヨアン子爵を召使いのマーノリファとともに訪ね、ベイリースタウンの彼
の病棟に数日間入院した。
−−伯爵は、その地でテティスと出会ったのである。
9
アロエ湖(エル・ヴォーヌンク・ルント湖)はユングフラウ山の丘陵にあり、
ベイリースタウンとリィスル家の住むテルマーヒュの町は、そのふもとに近接
している。春には様々な花が咲き乱れるアロエ湖は、美しい景観地として名高
いところでもある。
その水辺を散歩していたときに、彼は少女の姿を見かけた。少女はひとり、
丘の草の上に座り込んで、笛を吹いていた。
伯爵の心を絶望が覆っていた。
入院検査で判ったことは、もう二度と視力は回復せず、あるいは両眼とも完
全に失明するかのどちらかだった。いまの医学では治療も病気の進行を止める
ことさえできないことを、ヨアン子爵は伯爵に告げた。入院してから一週間後
のことだった。しかしそれを聞いたときのショックよりも、その時の子爵の気
の毒そうな表情だけがやけに印象深かった。どこか自分には関係のないことだ
と思えていた。
そして伯爵は従者をつけずにふらりと湖に散歩に出かけ、そこでこうしてテ
ティスと出会うことになる。
少女の吹く笛の音に、伯爵はふと足をとめた。それで少しでも絶望感がやわ
らぐとは思えなかったが、しばらくの間ずっと聴き入っていた。そうしていた
いと思った。
眼がほとんど見えない以上、彼が手で触れずにいつでも外界と接するために
頼りものは、音であり、それを聴く耳である。それは人の話し声であり、風の
声であり、木々のざわめきであり、すべては雑音であった。
「きれいな音色でしょう」
振り向くとヨアン子爵が立っていた。真っ白の医服を着ているのですぐに分
かる。「いま吹いているのは『エルン湖の岸辺』という曲ですね。彼女、とき
どきここに来ては笛を吹くんです。このあたりではちょっとした有名人ですよ」
その言葉に、伯爵は首を振った。
「きれいな音色だって? わたしには重苦しくて、どこか悲壮感のある音色に
聴こえてならないよ、アルム」
「どうしてですか?」
「それは……分からない。でもなんとなく分かるような気がしているんだ」
「変なことを言いますね」
子爵は神妙な顔つきになる。「気のせいですよ、きっと。すべては心の持ち
ようです。確かにあなたの病気は治らないかもしれませんが、そんなに思い沈
んでいては……」
「いや、そうじゃないよ、アルム。わたしのことは関係ないんだ」
伯爵はそれっきり口をつぐんだ。
このとき伯爵は何かを感じていたが、それが何かはっきりとは分からなかっ
た。あるいは分かるはずがなかったのかもしれない。
テティスの養父、彼女にとっては実の父も同然だったが、アデル・リィスル
が亡くなるのは、この翌日のことであった。
アデルの死の訃報を、その日の内に伯爵はヨアン子爵から知らされた。
病棟で過ごす最後の日の昼、伯爵は院内のカフェで召使いのマーノリファと
ともに食事を摂っていた。
そこに子爵は、突然医服のままで現れると、椅子に座る間もなく伯爵に話し
かけた。
「伯爵、お話ししたいことがあります。ここを離れる前に、一応報せた方がよ
いかと思いまして」
「まあ、ヨアン子爵、そんな神妙な顔つきをなさって。……どうぞ椅子に腰掛
けてください」
マーノリファは隣の椅子を引いた。
「伯爵の病気のことですのね。治る方法が見つかったのですか? それならど
んなことでもおっしゃってくださいな。それとも何か……悪い知らせですの?」
「悪い知らせです。ただし伯爵の病気のことではありません」
子爵はテーブルにつき、両手を組んだ。
「きのう湖で会った少女のことです。お分かりですか?」
その言葉に、伯爵は眉をひそめた。
「うん、覚えているよ」
「彼女の父親が……いえ、本当は、実の父ではないのですが」
と、子爵は言った。「昨日の夜、亡くなりました」
数秒間、伯爵の反応はなかった。かすかに息をついたあと、彼はほとんど残
っていないカップに手をのばした。
「……そう」
言ったのはそれだけだった。
子爵は伯爵の反応に不満そうだった。
「はからずも、あなたの言葉が当たってしまいましたね。しかしあのときはど
うすることもできなかった。いや、おそらく言ったとしても何も変わらなかっ
たでしょうね。それが運命です」
伯爵は子爵のほうに向き直った。
「アルム・テオ・ヨアン、では君は、私があのとき彼女の身の不幸を予言して
いたと、そう言いたいのかな? それなのに彼女を、彼女の父を救えなかった
と?」
その言葉に子爵はすこし怯んだ。
「いえ、そうではありません。私たちは神ではないのですから」
「だろうね。わたしは人間だ。だからほんのちょっとしたことで、その場限り
の決断をしてしまうこともある。そうだね、マーノリファ?」
「あら」
突然の問いかけに、彼女は顔をひそめた。「何のことです? わたくしには
分かりかねますが……」
「いいんだ。君も人間だからね。他人の思っていることをすべて感じ取ること
はできないんだ。もちろんわたしもそうだよ」
伯爵はつと立ち上がった。
「だから口で言おう。あの娘にわたしの従者として働いてもらいたい。ちょう
ど欲しかったところなんだ。何しろ私は、一人ではろくに外も歩けないんでね。
もちろん彼女の父の葬儀にも参列するよ。だから彼女のことをすぐに調べてく
れるね、マーノ?」
この伯爵の突然の提案が反対されることはなかった。
二日後に伯爵は言葉通りに葬儀に参列し、そして伯爵の使いとしてマーノリ
ファが初めてリィスル家を訪れたのは、さらにその翌日のことである。
−−続く