#1236/1336 短編
★タイトル (AZA ) 00/ 1/12 1:41 (200)
大山鳴動 1.姉と弟 永山
★内容
エレベーターを使うと人と出くわす可能性が高くなる。この先どうなるか分
からない。目撃されるのは避けねば。
そう判断した北田光夫は、手の甲をさすりながら非常階段へと回った。
緊急の用事ができて、光夫は姉のマンションに駆けつけた。来る度に、自分
の住む古びたアパートと比べてしまって、僕も女ならもっとましなきれいなと
ころで一人暮らしさせてもらえたに違いないと思った。
だが、今日の光夫にそんな感情は沸かなかった。
階段をなるべく急いで、それでいて音を立てないように昇る。暗いし、周囲
の建物の影になっているから、人目には着きにくいだろう。強い風だけが鬱陶
しかった。身体がふらふら揺れる。ここに来るまでハンドルを握っていたとき
も、指が強張ったようになったが、あれは極度の切迫感からだった。今現在は
風に身体を倒されないよう、指に力を込めて手すりを握る。
光夫は飽きっぽい性格で、力はあるがスポーツらしいスポーツを継続的にこ
なした経験がない。加えて、去年受験浪人をして過ごしたおかげですっかりな
まっている。手の甲に負った細かい傷も気になって、集中できない。
「こんなことになるなんて。僕が悪いんじゃないのに」
泣き言をこぼす。追い打ちのように、長髪が目に掛かる。
目的の四階まで達した頃には息が激しく乱れていた。身体が落ち着くのを待
ちながら、ガラス越しに廊下に人がいないのを確認する。
「まるで今から人を殺しに行くみたいだ」
つぶやき、光夫は笑い出したくなった。
無論、彼は人を殺しに来たのではない。一時間ほど前、殺して来たのだ。
光夫は口をきつく閉ざすと、非常口の扉をそっと開けた。ノブの回る音は風
に紛れた。
(姉さん、助けてくれよぉ)
扉を閉め、姉の住む部屋へ足早に向かう。
姉の悦子は物静かだが大人びたところがあり、光夫にとって頼れる存在だっ
た。その上、両親には言いにくい話も聞いてくれる。
(僕を救えるのは姉さんだけだ)
ドアの前に立ち、ブザーを押す。今までの習慣で、中からの反応を待たずに
戸を開けて滑り込むように室内へ。白い明かりが目にまぶしい。
「姉さん、悦子姉さん。大変なことになったんだ。奈美恵と口喧嘩してて、気
付いたら僕、あいつを突き飛ばしてて」
急いた精神状態から、一気に喋る光夫。来客中かもしれないという考えは、
はなから頭になかった。
「そしたら、奈美恵、頭をぶっつけて。死んでしまったみたいで」
リビングルームにたどり着いた光夫の舌が止まった。足も止まった。息も止
まりかけたが、さすがにそれは続かない。
リビングの奥、窓際に足が――女性の身体がぶら下がっていた。
「姉さん?」
寝起きのときよりもさらにかすれた声で、光夫は言った。突っ立ったまま、
右手人差し指で姉のいる方向を差す。
どのぐらいその格好を続けていただろうか。
首を吊って動かない姉を前に、光夫は急に膝を折るとその場にへたり込んだ。
うなだれ、呪文のように言葉を唱える。
「何で? 何で死んでるの?」
光夫はかすかに顔を上げると、姉へにじり寄った。箪笥の角や椅子の脚に膝
をぶつけたが、かまわず前進する。
(こんな肝心なときに……。いやいや、それよりもまず、どうして自殺なんか)
段々冷静になってきた。とは言え、彼自身、殺人を犯しているのだ、何が冷
静で何が冷静でないのか、頭の中では混乱の極みに達している。
光夫の両目が探照灯のように、一定のスピードで姉の周囲を見渡す。さらに
部屋全体も。
そしてテーブルの上に見つけたのが、走り書きの文字が踊る便箋一枚。遺書
らしい。
光夫は手を伸ばそうとして、やめた。指紋を着けるのはまずい。そんな直感
が働いた。
真上から覆い被さり、文面を読む。細く柔らかな文字は姉のものに間違いな
い。しかも署名入りだ。
「『私、死なせてしまいました。ごめんなさい。命をもって償います。北田悦
子』……? 死なせたって何?」
短い文だった。
身体を起こすと、思わず腕組みをする光夫。やがて閃いた。
(何て偶然だよ! 同じ日に、人を殺してしまうなんて、さすが姉弟だな……)
光夫の表情が、水に濡れてふやけた紙のようになった。あまりのことに、泣
き笑いしそうになる。
(姉さんは罪の意識に耐え切れず、自殺を選んだって訳か。僕は死ぬのも捕ま
るのも恐くて、助けを求めに来たって言うのに)
心中でぶちぶちとこぼしていた光夫に、再び閃きが訪れる。
(――これを利用できないかな?)
光夫は遺書を見つめた。それからおもむろに部屋中を歩いて回る。見違える
ような素早い動きで、風呂場やトイレ、押し入れの中まで覗く。
「どこにも死体なんてないぞ」
つぶやき、ほくそ笑む。
(僕と違って、姉さんは外で人を殺してしまったんだな。誰かに見られること
もなく家に帰って来たものの、良心の呵責から死を選んだ……そうに違いない。
ということは、姉さんの事件もまだ発覚していない。発覚していたとしても、
警察にとって犯人不明のはず。悪いけど、姉さん、奈美恵を殺した役になって
よ。同じ殺人犯としての自殺なんだ。どうせなら、僕を助けてよ。いいだろ?)
「と、いうことはですねえ」
刑事のやたら間延びした口調に、光夫は相槌を打つのをやめた。最初からず
っと調子を合わせてきたが、もういいだろう。ただでさえ、悲嘆に暮れる演技
に精を出さねばならないのだ。
「あなたと上沼奈美恵さんの付き合いをよく思っていなかった悦子さんは、あ
なたに内緒で上沼さんと話し合いの場を持った。ところが話し合いは決裂。そ
れどころかつかみ合いになってしまったのかな。悦子さんは上沼さんを突き飛
ばしてしまった。上沼さんはそのステレオの角に後頭部を打ち据え、運悪く死
亡。動揺した悦子さんは自首することもなく、自殺を選んだ、と」
「刑事さんの仰る通りだと思います」
鼻をすすり、応じる光夫。
「僕と姉さんは仲がよかったんですが、奈美恵との交際だけは反対されていま
した。それでも黙認してくれてたみたいなんですが……僕と奈美恵がこの夏か
らほとんど同棲状態になったのを機会に、再び口を挟むようになって……。ま
さか、僕が出かけている間にこんな事態になるとは、予測できませんでした」
「遺書の筆跡も、悦子さんのものと見て間違いないようだし」
悦子の手帳にある文字と遺書とを比べる刑事。
「殺人か過失致死かの判断が難しいが、いずれにせよ被疑者死亡という形でじ
きに処理できるでしょう」
「ああ、そうですか……」
答えながら光夫は考えた。このまま収まってくれれば万々歳だ。車を使って
姉の遺体(と遺書)を苦労して運び、吊り下げ直した甲斐があったというもの。
だが、喜びを表面に出す訳には行かない。恋人を殺された男として、そして
姉に死なれた弟としてどう振る舞うのが最も自然だろうか。
「あのう、刑事さん」
探りを入れるつもりで、ゆっくりと聞いた。
「何でしょう?」
手帳を閉じ、放り出した刑事は、気味悪いくらい丁寧な物腰で応じてきた。
「姉さんが人を殺したと思いたくないんですよ。それも僕の彼女を」
「お気持ちは分かりますよ」
「誰かが奈美恵を殺し、姉さんに罪をなすりつけたというのはあり得ない話で
しょうか?」
薮蛇になる恐れはないと踏んだ。光夫がやったのは、結果的に姉に罪を被っ
てもらっただけで、最初から計画していた訳ではない。何より強力な事実は、
本物の遺書の存在だ。大丈夫、ばれるはずがない。
「そう言われても、困りましたねえ」
刑事は立ったまま頬杖をつき、小首を傾げた。苦笑いを浮かべていたが、目
までは笑っていない。
「それじゃあ伺いますが、上沼さんを殺すような人物に心当たりは?」
「いえ、誰それっていうのはありません。自分の彼女という贔屓目もあるかも
しれませんけど、うじうじしたところのない、さっぱりした人で、先の見通し
もきちんと立てて」
話す内に、身体の中で虚しさが募る。
(そんないい人を、僕は殺してしまったんだ。さっぱりした性格だったからこ
そ、奈美恵はずけずけと物を言い、僕は腹を立てて一瞬、我を忘れた)
変な気分だった。確かに後悔はしているが、うまく切り抜けられた安堵感に
浸ってもいる。
「あー、そういうのはもう結構です」
刑事の声に我に返った。奈美恵の人柄に関して、ほとんど無意識でぺらぺら
と喋っていたようだ。
「上沼さんの交友関係を教えていただけますか」
「はあ、それでしたら口で言うよりも」
机上の手帳を指差した。再度、刑事が拾い上げる。
「では、これはお預かりするとして……念のため、悦子さんの交友関係にも当
たっておきますかね」
「ど、ど、どういうことでしょう?」
動揺が表れたかもしれない。光夫はとっさに顔一面を撫でた。
刑事はうつむき加減になり、どこから取り出したのかペンの尻で頭を掻きな
がら答える。
「ふっと思い付いたんですが、もしこの件があなたの言う通り、真犯人によっ
て偽装工作がなされているとしたら、真犯人の狙いは上沼さんではなしに、あ
なたのお姉さんだったかもしれない……ということですよ」
「ははあ、はいはい、なるほど。それなら、姉さんのマンションに行けば分か
ると思いますよ」
安心して、今度は口ぶりが軽くなった。気付いて、慌てて修正する。沈痛な
面持ちになって、「だけど、姉さんを殺すような人となると、なおさら見当も
付きません」と言い添えておいた。
「これからお時間、かまいませんかね」
「かまわないも何も、僕だって少しでも協力したいですから。両親への連絡は
済ませましたし。あ、奈美恵の親には言い出しにくくて……」
「それなら私どもの方で知らせておきます。あなたには悦子さんのマンション
まで付き添ってもらいたいなと思ったんですがね」
「もちろんです、飛田さん」
そう答える光夫に、相手の刑事は目元をかすかに歪めた。
「発音が悪かったようですな。私の名前はひだではありません。飛井田です」
マンションに引き返すと、光夫は思わぬ来客に出くわした。
猿島孝典。姉の恋人で、どこかのサラリーマンだ。いささか奇妙なのは、ス
ーツ姿であること。午後十一時を過ぎて、恋人の部屋をスーツ姿で訪ねるとい
う状況がよく分からない。
そう言えば……と、光夫は思い出した。つい先日、姉と電話で話をした際、
彼氏は今出張中だと言っていたような記憶がある。出張から戻り、その足で恋
人の元に駆けつけたのならスーツ姿でもおかしくない。
警察から北田悦子の死を知らされ、猿島は呆然とした。
「こんなときになんですが……あなたは今夜、何の用事でここへ?」
飛井田のぶしつけな質問に、機械的に答える猿島。光夫の聞いていたのとは違って、
出張ではなく旅行からの帰りだという。さらに猿島は続けた。
「それで、彼女の顔を見たいというのもありましたが……もう一つ、ハムスタ
ーを返してもらおうと思って」
「ハムスター」
「はい。私が飼っているんです、ハムスターを一匹。旅行の度に悦子さんに預
かってもらっていましたが、これが最後になるなんて……」
光夫は再度、記憶を蘇らせた。ずっと以前になるが、姉と会ったときのこと
だ。珍しく、色の濃いサングラスを掛けてきた姉を変だなと思い、訳を聞くと、
姉はサングラスを取った。ぎょっとした。姉の左目の周りに青い痣ができてい
たのだ。「猿島さんに殴られたの」と笑いながら言う。預かっていたハムスタ
ー――ミッキーという名前まで付けていたそうだ――を間違って死なせてしま
い、そのことを素直に謝ったところ、容赦なく殴られた上に、別れようとまで
言われたらしい。殴られた恐怖と痛み以上に、ハムスター一匹のことで感情的
になる猿島に驚いた姉だったが、どうしても別れたくなかったので、必死にな
ってひれ伏すように謝罪した結果、何とか破局は避けられた。ただし、猿島か
ら、もう一度同じことをしたら終わりだからなと釘を刺されもした。
話を聞いた光夫は、別れた方がいいと進言したかったが、言い出せなかった。
姉の様子があまりにも悲哀を感じさせたので、あの時点でやはり別れるなんて、
どうせできるはずがないと判断した。
「おかしいですなあ」
飛井田がのんびりした口調で、疑問を表明した。猿島だけでなく、光夫の視
線も引き寄せられる。
「先ほど、北田悦子さんの部屋をざっと見ましたが、ハムスターの姿はなかっ
たようですよ。篭らしき物さえ見当たらなかった」
「そんはなずは」
唇を歪め、怪訝な表情をなした猿島は、飛井田の横をすり抜けて行こうとし
た。慌てた風もなく、手を伸ばして引き留める刑事。
「ああっと、部屋に行くのなら、我々も立ち会います。すみませんね」
光夫は廊下に佇み、一人、考え始めていた。
ハムスターがいない……? 姉さんが死なせてしまったと言ってたのって、
まさか……。
光夫は、ハムスターの遺体がどこにあるのか、気になってたまらなくなった。
――大山鳴動 1.姉と弟・終