AWC 「雪の中」    時 貴斗


        
#1151/1336 短編
★タイトル (VBN     )  98/12/22   0:49  (146)
「雪の中」    時 貴斗
★内容
 びゅうびゅうという恐ろしい音をたてながら、相変わらず激しい
勢いで雪が男の体に吹き付けられている。ざっく、ざっくと雪原を
踏みしめながら、男は真っ白な視界の中をやみくもに歩いていく。
 「米山!氷川さん!」
 男は叫ぶ。何度も、何度も叫び続けてきた名前だ。だが相変わら
ず、返事はない。
 「寒い……」
 自らの両腕で、自らを抱きしめる。体の芯まで冷えきって、歯が
がちがちいうのを、止めることができない。

 視界不良の中、丘を越え、分厚く雪のコートをまとったエゾマツ
の間を抜け、氷ついた川の上を渡り……そしてまた丘を越え、分
厚く雪のコートをまとったエゾマツの間を抜け、氷ついた川の上を
渡り……。
 雪山で遭難し、疲弊してくると、方向感覚が失われて同じ所を堂
堂巡りすることがあるのだという。そんな雪山に関する乏しい知識
が、男の頭に思い起こされた。
 すでに時間の感覚も、方向感覚も、失われていた。
 男は雪山での登山を、なめていたのだ。

       *       *       *

− 我々は"円錐"の中でしか動き回れないのだよ。 −
− どういうことですか?先生。 −
− 垂直方向に時間を、水平方向に空間をとった座標系の中では、
  現在の座標を頂点とする倒立した円錐の中でしか、動き回れな
  いのだよ。まあ簡単にいえば、空間を移動すれば時間もたつ、
  ということだ。 −
− 先生の研究は、時間は経過しないまま空間を移動する、という
  ものでしたね。そんなことができるんですか。 −
− ああ。例えばおそろしく強力な重力場では、時間の経過が遅く
  なることくらいは、科学雑誌の記者をしているくらいだから君
  も知っているだろう?例えばブラックホールのシュワルツシル
  ドの壁では、完全に時間が止まってしまう。 −
− でもそれでは運動も止まってしまうのではないですか?時間が
  たたないまま運動する、というのとは違うと思いますが。 −
− 時間がたたなくする方法の一つの例を挙げたまでだ。ではもっ
  と分かりやすい例を挙げよう。ワームホールは知っているだろ
  う?あれだと入り口と出口の間には時間の差がない。 −
− ああ、遠く離れた2つの場所を瞬時に移動する、"宇宙の虫食い
  穴"のことですね。 −
− そうだ。ここで重要なのは2つの場所が「遠く離れている」と
  いうことではない。場所を移動しているのに時間が経過してい
  ない、ということだよ。 −

       *       *       *
 
 思えば、あの立て札を無視したのがいけなかったのだろうか、と
男は思う。
 「ここより先、遭難の危険あり。」の立て札を見た時、米山は言っ
たものだ。
 「いいよ。無視、無視。迂回してったら、とんでもなく遠回りに
なるぜ。」
 その時すでに、ちらほらと雪が舞い始めていた。雲行きも怪しか
った。あの時、思い切って引き返す決断をすべきだったのだ。
 ……甘かったのだ。
 進むに従って、雪の勢いはその猛烈さを増していき、遂には真っ
白な雪の壁に視界が阻まれた。気がつくと、前を行く二人の姿が見
えなくなっていた。
 「おい!米山、氷川さん!どこだ!!」
 ……返事がない。男は駆け出した。途端に足が深い雪の中にず
っぽりと埋まってころんだ。どうしようもないあせりが、男の口を
からからに渇かせ、全身から汗が吹き出し、恐怖が喉元を這い登っ
てきた。
 「米山!氷川さん!!」

       *       *       *

− 先生の研究は、完成されたのですか? −
− ああ。実験室のレベルではね。我々は直径1メートルの、"時間
  が経過しない"空間を作った。もちろん方法は教えないよ。こ
  れはまだ極秘段階だからね。
  我々はその空間にマウスを放った。マウスはその、1メートル
  の円内に入るやいなや、フッと消えてしまった。 −
− ……どうして、消えるんですか? −
− 考えてもみたまえ。0秒の間に無限の距離を移動できるのだ
  よ?つまり無限の速度を持っているわけだ。そんなものが見え
  ると思うかね? −
− マウスは……どうなったんですか?円から出てきて、どこに
  も変化がなかったんですか。 −
− いや、マウスはそこから出てくることはできない。マウスは永
  遠に時間軸上の一点にとどまっているが、我々は時間軸上をど
  んどん未来方向に進んでいく。だからマウスが我々と同じ"時
  空間"に出てくることはできないのだよ。 −

       *       *       *

 男は腕時計をのぞきこむ。
 ……8時27分。
 何度見ても同じ事だった。時計は壊れてしまっていた。まさかこ
の寒さで動かなくなってしまった、というわけではあるまい。おそ
らくあの時に壊れてしまったに違いない。
 真っ白に舞い続ける雪の中、男は右も左も分からず歩き回ってい
た。突然、足元の雪がぼろりとくずれた。男は崖のふちから突き出
した雪庇の上に足を踏み出してしまったのだ。
 「わあっ!!」
 4メートル近く転がって、岩にぶつかって止まった。危ないとこ
ろだった。下方を見やると、急斜面が延々と暗闇に向かって延びて
いるのだった。
 あれからどのくらいの時間がたったのだろうか。ほんの5分にも
思えるし、10時間もたったようにも思える。右腕がまだずきずき
と痛む。
 南西に4キロほど行った所に、避難小屋があるはずだ。しかし男
には、もうどちらが南西なのかも、分からなかった。

       *       *       *

− 我々は次に、もっと大きな空間を作ることにした。実験室の中
  ではなく、普通の土地にね。我々は直径3キロメートルの、"時
  間がたたない空間"を作ることに成功したのだよ。でもこっち
  の方は未完成だ。安定して存在させ続けることができないの
  だ。 −
− 普通の土地に、ですか?そんな事をしてもし誰か入り込んだら
  どうするんですか。 −
− その辺は大丈夫だ。場所は辺鄙な所だよ。北海道の旭岳の山奥
  だ。しかも季節は冬。登山コースからも外れている。しかも空
  間は安定して存在させ続けることが不可能だから、春が来る頃
  には元の普通の空間に戻ってしまうだろう。 −
− もし、誰か迷いこんだとしたら……どうなります? −
− この空間は閉じているから、絶対に外に出ることはできない。
  そうなったら大変だ。 −
− 春が来るまで、出られないというわけですか。 −
− いや、その人間には春は来ないな。ずっと冬のままだよ。冬の
  大雪山といったら、極寒の地だ。永遠に逃れられない、"寒冷地
  獄"だね。まあ、もっとも、誰か入り込んだとしたら、の話だ
  が……。 −

       *       *       *

 「寝てはだめだ。」
 男は重くなるまぶたを必死にこじあけ、ずるずると重い足をひき
ずって歩いていく。その足にはもうほとんど感覚がなかった。凍傷
になりかけているのかもしれない。
 気をゆるめると、睡魔が容赦なく襲ってきて、心地よい眠りの中
に引きずり込まれそうになる。
 あと何時間待てば、朝が来るのだろうか?この雪はいつやむのだ
ろうか?
 ……分からない。
 雪の凍りつくような乱舞に巻かれながら、男は丘を登っていく。
この丘を越えれば、今度こそ……。

 必死の思いで丘をのぼりきった男の視界に、再び分厚い雪のコート
をまとったエゾマツの林が、薄ぼんやりと広がってきた。


<了>




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