#919/1336 短編
★タイトル (PRN ) 97/10/12 20:58 (123)
お題>幽霊 叙 朱
★内容
幽 霊 叙 朱
表がざわざわとうるさい。子供たちの笑い声も聞こえる。引きずるような靴音
にときおり、ぱたぱたという突っかけ草履も混じる。
障子が明るくなったような気がして、徹子は目を開けた。
−もう朝になったのか。
外光に天井の桟がはっきりと見えている。隣りの布団には、産着の幼子がいる。
まだ眠っているようだ。思わず徹子の頬に笑みが浮かぶ。夫婦で待ち焦がれた赤
ん坊だった。こうやって側にいるだけで夢のような気分になる。
「あやちゃんがさあ」
表を通る子供が声高に喋っている。
「おや、うちの彩(あや)のことかしら」
思わず聞き耳を立てる。
「あやちゃんがいないんだよね」
これは女の子だ。
−彩なら、ここにいるわ。
徹子が心の中で呟く。その時、柱時計が突然鳴り出した。
−ひとつ、ふたつ、みっつ。
徹子は、ぼんやりと柱時計を見上げた。短い針は3時を指している。夜中の3
時だ。とすると、まだ夜は明けていない。それなのに、どうしてこんなに明るい
んだろう。
障子からの白い光に照らされて、闇に産着と布団だけがぼんやりと浮かんでい
る。
「あやちゃんがさあ、いなくなったんだよ」
今度は男の子の声だ。
「早く見つけて、連れて帰ろうよ」
子供たちの声は、次第に大きくなってくる。その声の感じではせいぜい小学生
くらいだろうと思われた。
小さな子供たちが、こんな夜中にいったい何をしているのだろう。徹子は首を
傾げる。足音がますます大きくなる。障子のすぐ向こうは、低い竹垣越しに裏通
りに面していた。普段でも、子供たちはあまり通らない路地だった。
「早く見つけて、連れて帰ろう」
子供たちの声が、寝間に響いてくる。徹子は、恐怖を覚えはじめた。
−まさかこの子たちは、彩(あや)を連れ去りに来たんじゃあるまいね。
直感だった。徹子は慌てて起きあがり、赤ん坊を抱き上げた。
「ほんとに、あやちゃんはどこにいったんだろうね」
「ここらあたりにいると思うよ」
「必ず見つけるからね」
「隠れてもだめだよ」
寝間が真昼のように明るくなった。かと思うと、徹子の背骨から腕、足にかけ
て重いものがのしかかるような感覚が襲う。途端に金縛りにあったかのように、
手足の自由が利かなくなった。
−お願い、彩を連れていかないで。
徹子は目をつぶり、ひたすら祈った。赤ん坊を抱きしめる。
−私たち夫婦にやっと授かった一人娘なの。お願いだから、連れていかないで。
障子ががたがたと揺れ始める。畳がうねる。四角い寝間が歪み始める。
「助けて、誰か助けて」
堪え切れずに徹子は叫んだ。腕に抱えた赤ん坊の体が、少しずつずり落ち始め
る。力一杯抱きしめているはずなのに、と徹子は焦る。
−だめよ、だめ。私のところにいるの。
徹子の必死の願いもむなしく、赤ん坊は腕の間から抜け落ちてゆく。眼球が飛
び出るほどに目を開けて、徹子は抜け落ちて行く産着(うぶぎ)を見つめる。
「ああ、やっぱりここだったんだ。あやちゃん、さあ行こう」
障子の向こうから、子供の声がする。もう腕の中に産着の感触はない。見ると、
赤ん坊は畳の上を、障子に向かって動いている。
「だめよー、だめ」
徹子が半狂乱になり、叫び続ける。頭を振り、足を蹴る。死にものぐるいで、
体を倒し、ごろごろと転がりながら、障子へと向かう。右手で産着をつかむ。引
きずり寄せて、胸に抱え込む。
−だめよ、だめ。彩はここにいるのよ。
抱きしめる腕にいっそう力を入れる。そうしていないと、安心できないほど、
小さな体の感触は頼りなかった。
「もう、いいだろう」
突然の太い声が徹子を竦ませた。
いつの間にか、男が障子の前に佇み、心配そうな顔で、徹子を見ている。夫の
敬介だった。徹子は、敬介の顔に笑みを見つけて、安心した。
「ほら、彩は大丈夫よ。私が守ってあげたから、すやすやと眠っているわ。ほら」
腕をかかげてみせる。
あれほど大きく聞こえていた子供たちの足音が、にわかに小さくなり、話し声
も聞こえない。
徹子の期待に反して、敬介の表情には変化はなかった。悲しげな笑顔だった。
「徹子、もういいだろう。みんな、向こうで待っているんだ」
言いにくそうに喋り続ける。
「腕の中をよく見てごらん。きみが抱いているのは、彩じゃあない」
「何をバカなことを言ってるの。私たち夫婦にやっと生まれた一人娘よ、忘れた
の」
徹子は大きく嫌々(いやいや)をした。
「ほら、こんなに幸せそうな顔をして、よーく眠っている。寝顔はあなたにそっ
くりでしょ」
徹子は腕をゆっくり揺らした。敬介がますます困惑した。
「違うんだ。いいかい、きみは信じたくないだろうが、彩はね、もうここにはい
ないんだ。きのう、息を詰まらせて、死んでしまったんだ。事故だった。仕方が
ない。誰もどうすることもできないんだ。だから、もう、みんなと一緒に、彩に
お別れを言おう」
敬介が徹子に手を伸ばす。徹子は、思わず後ずさりをした。
「違うわ。あなたは嘘をついてる。彩は死んでなんかいないわ。ほら、ここにこ
うして生きているじゃない。あなたも、彩を私から取ってしまうつもりね。どう
して?」
徹子の姿が、寝間の闇に紛れてしまいそうになり、敬介は急いで、障子に手を
掛けた。ゆっくりと開く。
すると、開く障子を待ちきれないかのように、白い光が寝間に射し込んできた。
低い竹垣の向こうで、無数の提灯が揺れていた。白い明かりを放ちながら、提灯
は徹子を誘うように揺れていた。
白い光は、瞬く間に寝間を真っ白に満たし、そして徹子の目から胸へと入り込
んだ。徹子は緩慢な動作で、腕を開いた。音もなく、産着だけが畳に落ちた。開
け放たれた障子口からは、白い光が次から次へと流れ込む。徹子は空白になり、
白い波に飲み込まれた。
徹子の耳に、敬介が囁きかける。
「徹子、みんなが待っているから、もう行かなくちゃ」
敬介が徹子を手招きする。
「きみは眠っていたから、覚えてないかもしれないけど、火事だったんだ。ぼく
が目を覚ましたときには、もうすっかり火が回っていて駄目だった。すぐに意識
を失った。彩も煙を吸い込んで駄目だった。生まれて、たった二日だけ、この世
界で生きた。そして死んだ。それが、彩にとってどういう意味だったのかは分か
らない。いや、なにか意味があったのかどうかすらも、ぼくには知る由もない」
徹子には思考がなかった。敬介の手のひらの動きだけを追いかけた。障子口の
向こう、提灯はどこまでも続いている。
敬介が指で示したさきには、子供たちが歩いていた。明らかに、敬介と徹子と
は違う方向を目指しているようだった。
「彩は、仲間に入れたのかしら」
徹子は平静な気持ちで呟いた。敬介が笑ってうなずく。
「みんな、彩を待っていてくれたんだ。あの子たちはまた、やり直しさ」
「あたしたちは、どこへゆくの?」
徹子が問いかけた。格別、知りたいわけではない。ただ何となく、口に出ただ
けだった。敬介は肩をすくめた。
徹子は敬介に手を引かれるようにして、障子口を通り抜け、低い竹垣をふわり
と飛び越えた。途端に徹子の背後で、障子が燃え、竹垣が崩れ落ち、瞬く間に一
軒家は焼け落ちた。徹子は焼け跡をちらりと振り返ると、白い提灯の海へと身を
躍らせた。
(幽霊−了)