#276/1336 短編
★タイトル (GSC ) 94/ 7/23 5: 9 (150)
我が矛盾論
★内容
最近わたしは、世の中の正しいことと正しくないこととをはっきり区別できなくな
って困っている。極端に言えば、相反する二つの見解のどちらも正しいし、またどち
らも正しくないので、わたしは生きて行く為の思想的拠り所を無くしてしまった。
【1】 必然と偶然の矛盾
不可解の最たるものは、世の中の物事全て、即ち森羅万象・あらゆる現象は、はた
して必然なのか偶然なのかという点である。明日、誰と誰が何人死ぬかということは、
もう何千万年・何億年も前から必然的に決まっているのであって、それを変えること
はできない。もし誰かの意志によって人一人の命を救うことができたとしても、それ
は急激な変更ではなく、何億年も前からそうなるように決まっていたのである。だか
ら人の運命は結局プログラム通りであり、ただそれが誰にも予測しえないだけのこと
なのである。
人間の意志や思考は自由だとも言うが、その意志や思考力を左右する物はその人の
脳髄であり、その脳髄は祖先からの遺伝や周囲の環境によって形成されたものである
から、本人の力ではどうにもならない。
そこでわたしが言いたいのは、そういう当たり前のことを誰もが分かっているはず
なのに、必然を偶然と思い込み、一喜一憂する人間たちの営みは実にはかないという
ことである。
【2】 弱肉強食の矛盾
生物は食物や栄養なしでは生きて行けない。強い動物は弱い動物を食べ、弱い動物
はさらに弱い動植物を食べて生きている。植物の多くは無生物を栄養としているが、
中には食虫植物もいて、これらの仕組みはまさに残酷と言わねばならない。
とりわけ人間は食物に限らず、生存の為あるいは生甲斐の為に、いとも簡単に弱い
生物を殺す。牛乳を飲み、卵を食べ、革靴を履き、植物や動物の線維を使った衣服を
着る。必要最低の弱肉強食はやむをえないとしよう。しかし、番犬を飼い、ペットの
動物や鉢植えの植物を愛するのは必要性とか愛玩というよりも、人間のおごりや贅沢
の部分が多いのではないか。茶の湯・生け花・絵画・音楽などの芸術はじめ、文学・
科学・政治など、文明の全ては他の生物を犠牲にしないものは無い。まして競馬・闘
牛・サーカスのような娯楽や賭け事の為に動物たちを訓練するなどは望ましくないこ
とと言わねばなるまい。なのに、わたしは毎週土曜・日曜になると、つい競馬の電話
投票をして楽しんでしまう。
人間なにもせず、ただ食べるだけ食べ、眠たい時に眠って、のんびりと一生を過ご
すことができれば、それが他の生物を殺さずに済む一番よい方法である。本当は芝生
に座ることも・草笛を吹くことも・種なしぶどうを栽培することも・ゴキブリ退治を
することも、なるべくやめるほうがよいのである。が、そんな暮らしは到底できよう
はずがない。
【3】 競いあいの矛盾
人はなぜ競争や競技をするのだろうか。それはただ単に勝ちたいからである。自分
が勝ということは必ず相手が負けるということであるから、これほど酷な話はない。
競いあうことにより進歩するのだとか、例え負けても本試合にいたるまでの努力こそ
大切だなどと言う理屈も在るにはあるが、所詮それは負け惜しみであって、結局の所
お互いに勝ちたいのである。
「勝つことよりも参加することに意義がある。」と言われるオリンピックなどは、
競争の最たるものと言えよう。なにしろ各種目に金メダルは一つしかないから、金メ
ダルを獲得した選手や国は満足であろうが、他の全ての選手や国々は銀メダル以下で
ある。
全国高校野球大会で、何千校の中から、トーナメントでたった一つの優勝校を決め
ようというのも、わたしに言わせれば無茶な話だ。スポーツに限らず、あらゆる分野
において順位・優劣・表彰者などを決めたがるのはいったいなぜなのだろう?賭け事
・宝籖・株式投資はいうにおよばず、学校の成績や職場における地位や役職にいたる
まで必ず順位差があり、誰かが上で誰かが下になる。これほどまでにランクづけをし、
競争心を煽らなければ、人間の意欲や努力をかきたてることができないのなら、文明
の進歩などいらないとさえ思う。勝ち負けや順位や他人の評価に拘らず、地道に努力
を続ける人こそ理想のはずなのに、世の中そのようにはなっていない。
【4】 進歩発展の矛盾
わたしは子どもの頃から、進歩発展の為の学問や努力をなによりも大切に思って来
た。が、いつの頃からかそのことに疑いを感じはじめ、以下のような疑問を抱くよう
になった。
第1は、科学技術の進歩による自然破壊とか人類の傲慢さを憂うる気持ちで、既に
各方面から警告や自粛の声が上がっている通りである。
第2に、進歩発達には終りがないということで、これは人類と自然界との永遠の凌
ぎあいを意味する。
第3に、文化が進歩すればするほど学術が複雑になり、我々の学ぶべき事柄が無限
に増大して行くが、人間もうソロソロ勉強から解放されてよいのではあるまいか。
第4に、文明による恩恵は主観的かつ総体的にすぎないという点で、昔の人と現代
の人といったいどちらが幸せであるか、簡単に答えを出すことはできない。例えば、
今日我々が飛行機で外国旅行をするのと、江戸時代の人が徒歩でお伊勢参りや京見物
に出掛けるのとで、いずれがより感激的であるか比べるのは難しい。日本は世界一の
長寿国になったそうだが、昔の人々の一生と現代人・未来人の一生とで、どちらがよ
り充実しているか考え直してみたい気がする。
けれども、かりに進歩発展を無意味だと結論づけてみたとして、それならば人間な
にも努力せずに暮らして行けるだろうか。
【5】 忍耐の矛盾
同じような理屈になるが、忍耐とは何かと考えてみるに、やはり釈然としないもの
がある。 「切磋琢磨」 「艱難汝を玉にす」 「かわいい子には旅をさせろ」 「
冬来りなば春遠からじ」などと古来様々に言われているが、はたして人間の成長にと
って本当に苦難は不可欠なのだろうか?成功した人には必ず苦労話が残っているが、
もしそれらの苦しみがなかったならば彼らは成功できなかったのだろうか?数少ない
成功者の陰に、逆境に押し潰されて、あたら持てる能力を無駄にしてしまった人が何
人いたことか!それに引換え、さほどの努力も苦労もなく順調に出世して行く人間が
けっこういるのである。こう言う場合、「それは落伍者の負け惜しみだ。」と笑い飛
ばすのは簡単であろう。
わたし自身、同世代の内ではけっこう苦労して来たつもりでいるが、もっと恵まれ
ない人もいれば逆にのんびりと育った人もいて、それらが公正に評価され、苦労が報
いられているかどうかはなはだ疑問である。「幸せと感じるか感じないかは気の持ち
よう、心掛けしだい」とか、「幸・不幸は人間の知恵で計りえない」と言うのも、一
種の慰めに聞こえてならない。
さらに言えば、節度と欲求・忍耐と自由・遠慮と権利主張とをどう兼合わせ両立さ
せて行くか、なかなか難しい。我慢しなければならないことと要求すべきこととの限
界や基準をどこに置くのか、それは時代や立場によって異なるから、客観的判断は容
易でない。
【6】 本音と建て前の矛盾
世の中で成功する人はほとんど全てと言ってよいほど、建て前と本音を上手に使い
分けている。が、そうするほうが得だと分かっていながら、使い分けのできない不器
用な人も多い。
今、「本音と建て前のいずれがより大切か?」と問われたら、読者はなんとお答え
になるだろう。日頃本音で暮らしている人は、「無論本音に決まっている。」と言い、
わたしも即座に、「終始一貫本音で行くべきであって、建て前など許しがたい。」と
断言したくなる。しかしそのじつ、わたしはけっこう建て前でものを言っており、ふ
と恥ずかしくなることがある。
さて、普段建て前を巧みに使い分けている人間は、一見「本音が大切」と答えそう
に思えるが、こういう場合、建て前論者の癖に案外「当然建て前も必要だ。」と、つ
い本音を吐いてしまうものである。このあたりのニュアンスや駆け引きになると、わ
たしごとき単純思考の人間には到底分析できない。
かつてわたしが教員養成校を卒業した折り、最年長の同級生が別れの挨拶の中で、
「教育の世界くらい建て前を重視する所はない。君たちもそのことを充分年頭に置く
よう心得たまえ。」と言ったのにはびっくりした。学校教育こそ本音一筋で行くべき
ものとの理想に燃えていた時だっただけに、わたしは驚くと言うより半ばあきれてし
まったが、30年を経た今日、やっと彼の言ったことが身にしみて分かった。
【7】 時間と空間の矛盾
時間に始まりと終りがないのはなぜか?宇宙にはてしがないのはなぜか?わたしは
既に小学校3年生の頃からこのことを不可思議に思い、今もその疑問は解決していな
い。
昔々のその昔、さらにそのまた昔を辿って行くと、時間に始まりはない。始まりが
ないはずの時間が、現に始まって今続いているのはなぜか?これほど不思議なことは
ない。
宇宙の外側の外側、そのまた外側はどうなっているかと考えると、空間にもはてし
がない。はてしのない宇宙が現に一定の位置をしめて存在しているのはなぜか?はて
しない広がりを持ちながら、一定の空間内に納まっているのは不思議と言う他ない。
相対性理論によれば、時間と空間は一体であって、全ての動きが完全に停止した時、
空間は無限大に広がり時間は進まなくなるというし、逆に無限大の速度で走ることが
できたとすると、空間は1点に縮小し時間もまた消えるという。この難解な理論をわ
たしの頭脳で理解するのは難しいし、時間と空間が同じ現象の二つの側面であるなど
とは信じがたく、第1、無限大のスピードで走るとか、全ての動きが停止するとかい
うことのあろうはずがない。
しかしながら、全ての物体や現象は相対的関係にある以上、時間や空間の限界につ
いて、一人の人間の主観や浅知恵で認知することは無可能なのかも知れない。
【8】 無神論者の矛盾
神が存在するか否かについては古今幾多の論説がある。しかし結局のところ信じる
か信じないかであって、信じる人にとって神は存在するし、信じない人にとっては存
在しないのである。わたしは残念ながら後者であり、神に祈り神に任せて救われる人
々を羨ましいと思う。神は愛にして無限、大いなる絶対者であるとすれば、なぜこの
世に戦争や病気や在りとあらゆる不幸・不平等があるのだろうか?「それも全て神の
御心による。」などと言われても納得しがたい。神を自然法則そのものだとする説や、
理想的な人間像を神に求める考え方もあるようだが、わたしはなかなか信仰の境地に
入ることができず、頭の中でどうしても神の存在を否定してしまう。
ところが、神社の境内に入り神殿の前に立つと神々しい気分になり、わたしはいつ
も柏手を打ち頭を下げる。これ必ずしも新鮮な空気や壮厳な雰囲気によるだけでなく、
何か目に見えない力がそこに感じられるから不思議である。
渡辺昭弘の著書〈仏教〉を読んで、わたしは感動し得心し満足した。それでも死後
の世界や霊魂の不滅は信じていない。なのに、仏壇に向かってお経を読み、墓の前に
ぬかずいて手を合わせるのが好きなわたしである。
わたしは神仏を理屈として否定しながら、心のどこかでは信じているのだろうか?