AWC お題>鬼 「鬼彩」 不知間


        
#211/1336 短編
★タイトル (YPF     )  94/ 4/18  22:54  ( 75)
お題>鬼 「鬼彩」 不知間
★内容
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  鬼彩

            不知間 貴志

 赤と黒の、チェッカー模様の床にうつ伏せ
の女。黒のレザーのコート。背の高い椅子や
テーブルの間で、立てるかどうかも疑わしい
細い鋼鉄のハイヒール、鈍い光をもつ。真っ
黒く長く、濡れて乱れた髪。皮の香り。
 さらに床には、しわも折り目もない紙幣が
数十枚、ばらまかれている。そしていくつか
の銀色のアクセサリー。口がひらいて逆さに
転がった高価なバッグ。割れたガラスのコッ
プと、レモンの薄切り。
 彼女は震えながら、顔をあげずに、拳をつ
くってベタッ、ベタッと床を叩く。一人で繰
り返し叩く。湿った響きが続く・・・

 その、いつのまにか耳まで裂けた口をゆが
め、涙を落とす。
 美しかった耳は見えざる手に引き延ばされ
て、ゆっくりと三角にとがる。歪んだ金の輪
のピアス。獣の耳だ。そして乱雑に生えた五
本のツノ。涸れることのない痛みの柱。
 少しだけ開いたままの、厚い木製のドアの
隙間から、夜明けの鉛色の光。
 自分を取り戻そうと、過去を思いだそうと
両の手で顔を覆っても、彼女をかたちづくっ
てきた記憶は、さじの上で角砂糖が燃えなが
ら溶けてゆくように、ぐずぐずと壊れてゆく。
 その冷酷な非可逆のプログラムは、無音の
まま走り続ける。左手は、もうすっかり鬼の
手だ。
 それでも、たった一人、人間としての抵抗
を試みようと、彼女は必死に立ち上がり、ふ
らつく足でカウンターの裏に回る。目にとまっ
た、鋭いアイスピックをぐいと右手でつかむ。
戸惑い、それでも一度強く息を吸い込み、倍
の大きさに醜く膨れ上がった左手の甲に打ち
こむ。
 ぶつぶつっ、と柔らかい肉を裂く音がして、
太い鉄の針が骨と骨の間を通る。
「・・・ああっ、どうしてっ!」
 何も感じない。
 ひっくりかえせば、まるで猿のように変化
したまがまがしい毛だらけのてのひらから、
唐突にアイスピックの先が飛び出している。
 それをみつめる。ほんの一瞬の逡巡。それ
から彼女の乾いた、止まらない笑いがはじま
る。本当にヒトが正気を失う時には、頭の中
でぷつりと音がする。彼女はその音を聴く。

 ひ、ひひ、ひひひひひひひひひひひ
 ひひひひひひひひひひひひひひひひ
 ひひひひひひひひひひひひ・・・ひ

・・・もう少し、しばらくたてば彼女は、すっ
かり成熟した鬼としての声で叫び始めるだろ
う。ふたつの瞳が、ゆっくりと琥珀色をおび
て薄明の中で光る。
 もはや、そんな彼女の目が見つめているの
は、長い間ささやかに外界を遮り続けてきた、
古い酒場の壁の色ではない。春に木々から吹
き出す若葉の緑のまぼろし。薄曇りの青い空。
吹き抜ける軽い風。その中に歩み去っていく
少女の後ろ姿。
 かつて確かにそうあったはずの、自分自身
を遠く見つめ続ける、赤い鬼。

 誰もとることのない電話が鳴り続けている。
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1994.4/18





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