AWC 「鬼」 不知間


        
#204/1336 短編
★タイトル (YPF     )  94/ 3/13   2:49  (115)
「鬼」 不知間
★内容
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   鬼


            不知間 貴志

 次に視界にはいったものは、目覚まし時計
の下の血溜まりだった。灰皿のタバコの吸い
がらの湿った臭いが、血のそれを消していた。

 僕の首筋には本当に行儀良く並んで、ちい
さく二つの穴が、ぽつりぽつりとあいていて
いるはずだ。鏡を見なくても、わかる。
 そう、鏡だった。僕が母さんとした約束は
ひとつだけだった。夜中の二時には鏡を見て
はいけない、絶対見てはいけないんだよ。そ
れをうっかり破った僕は、今夜は血に濡れて
一人で天井を見上げている。
 常夜灯のだいだい色の光が、僕の思った通
り動かない左手と指をてらす。痺れている。
 涙は、さっき母さんの艶のある唇で吸い尽
くされてしまった。残らず飲み込まれてしまっ
た。もう僕の両方の目は乾きはじめていて、
とても痛くてしようがない。
 ひと息ごとに、自分自身の人間の部分が死
んでいくのがわかった。急に氷を押し当てら
れたようになるのだ。肩が、それとひじが。
 歯をくいしばりながら、それでも必死に、
「畜生」と声を出そうとしていた。そうし続
けないと心臓が止まってしまう、そういう奇
妙な確信があった。
 自分の胸の中を通る太い血管が、信じられ
ないほど早い鼓動とともに、皮膚を突き破り
そうな勢いで、のたうちまわっている。
 立ち上がろうとしたが、かくん、と前のめ
りに倒れてしまう。右の膝から下が、まるで
乾いた棒のようになって、そこは痛みも触感
もなくて自由がきかない。鼻が床に激しくぶ
つかり、頭の中が真っ白になる。
 早く朝になれば、そうすれば助かるかもし
れない・・・けれど、血まみれの目覚まし時
計の針の示す、絶望的な夜明けまでの数時間。
 今の時から逃げたい。退屈な日常の中に戻
りたい。
・・・なんてみじめなんだろう。苦痛の間か
ら突然、コンクリートのかたまりに潰される
ような、巨大で圧力を伴った飢えと乾きが襲
う。なにかそう。”食べ物”を・・・馬鹿な。
何を考えているんだろう僕の頭は。
 なにか熱いものが股のあたりから激痛とと
もに体の中を動いている。内臓がどうかして
いる・・・胃のあたりにくるとそれは勢いを
増して一気に喉まで上ってきた。口の中の苦
さに耐えられなくなって吐き出す。べちゃり
と、小さな袋状のものが自分の口から糸をひ
いて、垂れ下がって落ちる。
 しわくちゃの小さな卵のようなものに、細
い血管の網目模様。表面の泡がゆっくりとは
じける。驚いたことにそれには・・・唇があ
る。薄くひらいて、閉じる。ひらく。息をは
く。繰り返す。眼をもたない魚のように。
 少しずつ動けるようになる。だが、それに
同時に耐えがたい空腹感と、激痛。なんとか
腕と上半身をくねらせて、青いベッドから滑
り落ち、部屋をでようと床を這う。倒れたま
ま見上げると、ああ、なんで電話はあんな遠
くに置いてあるのだろう・・・かりに手をの
ばせたとしても、こんな状態では何もできな
い。声も出ない・・・

 急にあかりがつく。
 息を深く吐いて首をあげると、そこには母
さんが立っていた。白いドレス。そして大き
な帽子。白い手袋。青いあじさいを抱いてい
て、下から見上げると顔がすっかり隠されて
いる。
 母さんは何もいわず、手をのばし、僕の頭
や顔にふれる。白い手袋が血に染まる。
・・・あじさいからの雨の匂いと手の感触で、
一瞬にして、僕は服を脱ぎ捨てるように奇跡
のように楽になってしまう。
「っ!」
 僕は悲鳴を抑えられなかった。僕ははっき
りと絶望する。僕は母さんに支配されている
ことを、人間の理性を越えた部分で縛られて
いることを、否定できないカタチで思い知ら
されたのだ。
「ぼ、僕は」
 声もすっかり戻っている。
「僕は、どうすれば、いったい、これから」
 母さんはゆっくりと手のひらを僕の口に押
しつけた。そしてそのままひざまずき、花を
床に置く。顔をそばでみせる。
 ・・・犬歯が大きくなると、笑ったままの
口元になる。これではたしかに言葉はうまく
使えない。
「そ、と、え、」
 母さんがひとつひとつの声の音をつらねる。
(外へ。家の外にだね。わかったよ母さん。
次は・・・いったい僕がどうしたらいいか、
どんなに時間がかかっても、きくから・・・)

 汚れた服のままドアを出、鍵を閉める。真
夜中の強い雨だ。僕のすべきことは、よくわ
かった。狂った理屈は、すっかり受け入れた。
 それこそ、血のつながりで。
 母さんはさっき僕が生んだばかりの”子供”
に、自分の乳房をふくませているはずだ。
 次に必要な、他人の血や肉は、僕が集める。
それにやっと・・・この空腹も満たせるとい
うものだ。

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1994.3/12 クリジスへ




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