#165/1336 短編
★タイトル (YPF ) 93/11/23 6:11 ( 82)
すりガラス 不知間
★内容
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すりガラス
不知間 貴志
「結局、歌はわたしに残るのかな」
佐和子は、狭い木造の部室にある、ぼろぼ
ろの小さなピアノにもたれかかり、ふと思い
ついた言葉を一人、口にする。目の前の白鍵
は、すべてすっかり黄ばんでいて、黒鍵もガ
サガサと艶を失っている。壁に張り付けられ
た、破れた巨大な五線譜の、すみの方に小さ
く、なにやらヒワイな意味の英文の落書きが
ある。
交通事故は、佐和子からピアノそのものを
奪いはしなかった。だが、混乱する記憶の順
番。弾けたはずの曲が、ところどころはがれ
落ちたように、思い出せなくなる。
狭くなって欠けた視野。混乱する遠近感。
やっと生え揃った髪を両手で触れる。頭蓋
骨を、ゆっくり。そうすると、指は必ず同じ
ところをなぞる。骨に開いた穴。指の下の、
頭皮の下の、たぶん丸い、アクリルの人工骨
のフタ。
(この中の、わたし・・・)
忘れるのが、恐い。沈黙が、恐ろしい。佐
和子は、また早いメロディを弾く。止まる。
そしてまた、繰り返された沈黙。
どうすればいいのか、佐和子は途方にくれ
る。頭の中に何枚も、白くて霧のような、先
が見通せない壁がある・・・
どのくらい、時間がたっただろう。
突然、彼女の目の前に、ストンと楽譜が置
かれる。緑色の表紙。混声合唱組曲。
振り向くと、佐和子には、かすかに見覚え
のあるような気のする少年。そう、確かにこ
の学校の、数百の男子学生の中の1人。サイ
ズの大きめの、ブレザーの制服。
「きみ、大丈夫?」
(誰だろう?)佐和子にはわからない。
「ええと・・・」佐和子は、あいまいにうつ
むく。「大丈夫よ」
楽譜をもってきた少年は、悲しそうに笑う。
そして「・・・これ、弾けるはずだよ」と、
楽譜を開いて佐和子に見せる。
中に、細い鉛筆で乱雑な書き込みが散らばっ
ている。それは、ちょっと驚いたことに佐和
子自身の書いた文字である。が、彼女には、
なにひとつ思い出せない。彼女は不安をおぼ
える。
(無くなった、部分・・・)
「さぁ弾いて・・・佐和子!」
少年に名前で呼ばれたことに、ふと彼女は
気がつく。それがきっかけとなった。うなず
いて、椅子にきちんと座り直す。背筋をのば
して、深呼吸。
”やや強く”
忘れた自分の書き込み通りに、弾きはじめ
る。自分自身が曲を知らないのか知っている
のか、指と頭がちぐはぐな感覚に、佐和子は、
ぐらりとめまいを感じる。
1小節の前奏。少年は、その後を歌いはじ
める。ゆるやかに太く声変わりしつつある、
乾いた声だ。
−−−驚いたことに、気がつくと、コントラ
アルトのパートを佐和子は口ずさんでいる。
四声必要な合唱曲に、二人だけでは奇妙な
節がそこここにあった。が、佐和子には、し
だいに、もう、どうでもよくなっていった。
自分が知らないはずの歌を、口が勝手に歌っ
ているという出来事さえ、素直に受けとめて
みよう、そう思った。
佐和子は、考えはじめていた。
(この人の名前を後でちゃんと聞いてみよう)
(それを、もういちど憶えよう)
(大丈夫。ほら、もうそんなに恐くない)
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(for AWC: sample #1)