#4740/5495 長編
★タイトル (AZA ) 98/12/30 10:18 (200)
そばにいるだけで 31−4 寺嶋公香
★内容
「逃げようとする動作の中で、偶然、膝が当たったのかと思った。それにして
はきつい当たりだったんで、気になりはしたけど。とにかく押さえ込み続けて
たら、いきなり顔を殴られたわけ」
相羽はタオルを離し、指先で骨の具合を確かめるように鼻梁をなぞった。ち
ょっぴり、しかめっ面になる。
「いてて。寸前でよけようとしたのになあ。一瞬遅くて、鼻の頭をこすられた
よ。畜生、じんとする」
「相手の奴は分かってて殴ったんだろうか」
長瀬が疑問を呈する。相羽はため息混じりに答えた。
「多分ね」
「そんな、許せなぁい!」
富井が身体を震わせるようにして、声を張り上げる。
「抗議に行かなきゃ!」
「正直言って抗議したいところだけど、僕一人が勝手にできるもんじゃないん
だ。道場の間でのことだから、先生が話を通してくださると思う」
「そんなのって」
白沼が不満を顕著に表している。彼女の足はさっきから、苛立たしげに地面
の砂利を叩いていた。そこはもはや土が露出し、黒くなっている。
「道場での話し合いはやってもらうとして、今、とにかく謝ってもらうべきだ
わ」
これには町田達も同意してうなずく。
だが、当の相羽が「さっき謝ってもらったよ。試合場で」と言ったものだか
ら、白沼は声を大きくした。
「私が言ってるのは、当事者が謝るべきだってことよ。あんな無茶苦茶、許さ
れていいわけがない」
「道端でやったら、犯罪だよね」
井口が極端なことを言う。
と、そこへ足音が近付く気配。
皆で一斉に振り向くと、あの江口主税の兄という男性が、小走りにやってく
るのが分かった。
「いたいた。ここにいたのかい。探した」
全力疾走したとも思えないが、江口兄は息をはあはあさせていた。髪が乱れ、
服にもしわが寄っている。
「うちのばかな弟が、とんでもないことをして、申し訳ない」
大の大人が頭を垂れる。最初のときに比べると、声におろおろした響きがあ
った。
謝ってもらえるのはいいけれど、心情的にしっくり来ないのも事実だ。本人
に代わって……というスタイルは受け付けない。意味がない。
「あの、あなたは」
相羽が聞き返す。応援に来た唐沢達はすでに顔を合わせていたが、相羽自身
は江口の兄とは今が初めてであった。
相手の自己紹介を聞いた相羽は唇をなめ、多少逡巡の仕種を見せてから、や
がて口を開いた。
「主税君は今、どちらにいるんですか」
「それが」
途方に暮れたように、立ち尽くしたまま言い淀む江口兄。このまま黙ってい
ても仕方ないと踏ん切りをつけたか、喉仏をごくりと動かしてから始めた。
「着替えもしないで、飛び出して行ってしまった。行き先の見当は付いている
んだが……困ったもので。
それよりも君。名前や番地なんかを教えてくれないか。あとでお詫びに伺い
たいんだ。本当に済まないと思っている」
手帳らしき物とシャープペンシルを取り出した相手に、相羽は首を横に振っ
た。
「はっきり怪我をしたわけじゃないから、もういいです」
「しかし」
二度ほど押し問答を繰り返して、江口兄がひとまず折れた。しかしそれは形
ばかりで、手帳を引っ込めると、財布を取り出してきたのだ。
「これは当座の。治療代と慰謝料を含めて」
と、お札を何枚か抜き取り、相羽の手に握らせてくる。
「いただけません。いらない!」
相羽はタオルを放り出して立ち上がると、江口兄との間に距離を置いた。
周りの者はどうすることもできず、ただただ唖然と見守る。
「そんなこと言わずに、受け取ってくれ」
「僕はいらないと言ってるんです。ほらっ、鼻は大丈夫、血も出ていません。
仕舞ってください」
「気が済まないんだよ。子供は子供らしく、素直に。な」
「そんなお金、受け取る理由がないです。僕が望むとしたら、弟さんともう一
回、フェアに試合することだけだと、分かってください。その前に……弟さん
と会って、話がしたい。同じ流派なのに、僕が先生から教えてもらったのとま
るで正反対のことをするなんて、信じられないよ……」
喋る内に気分が重たくなってきたのだろうか、相羽の声は怒りの響きから絞
り出すような調子へと変化していった。
「手を焼いているんだ、あいつには」
江口兄もまた、うめくような口調になっていた。
「君達のような子供相手に話しても始まらないのだが……。あいつは小さい頃
から喧嘩っ早くてね。すぐかっと来る質なんだ。しょっちゅう、親父達が学校
に呼び出されていた。注意しても直らず、ほとほと困り果て、精神を鍛える目
的で、こちらの道場に入れた」
思わぬ打ち明け話に、相羽を初めとする中学生はしばし聞き入った。口を挟
むことができなかったとするのが適切だろう。
「効果はあったようなんだ。大人しくなったし、礼儀も多少は知ったらしかっ
た。無理矢理入れた割に、楽しがって通っているようにも見えた。それで、今
日、初めての試合だったんだが。ああ、君も初めてだね」
「はい、そうです」
「まあ、格技の客観的評価は自分には無理だが、うちの弟は相当自信を持って
いた。当然、勝つ気でいたよ。それが、同じような年頃の君にやられて……ふ
う。逆上してしまったんだ、あれは。情けない」
ため息混じりに語り終えた江口兄は、眼鏡を少し押し上げると、眉間の辺り
を指で揉んだ。そして眼鏡を戻すと再開する。
「今はまだ、恐らく荒れていると思う。あいつが落ち着いて、精神的に強くな
ったら、もう一度試合してやってほしい。こちらかもお願いするよ」
「試合を組むのは僕の決めることじゃないですけど、望むところです」
「……君の家は、幸せでいっぱいなんだろうね」
突然、ぽつりと、つぶやくように言った。
相羽が反応する間もなく、江口兄は、
「それじゃあ、お大事に。今日のところはこれで失礼するよ。連絡がしたいと
きは、道場を通じて行うとしよう」
と言い残して去って行った。
気まずさと戸惑いと不安感が入り混じったような、表現しがたい空気が淀み
を持って漂っていた。このまま忘れようとしても、心のどこかに引っかかる。
見えない蜘蛛の糸のように、払っても払いきれないで残っている。
「勝ちは勝ちだ。とりあえず、祝勝会やるか?」
唐沢が取り繕うように言った。
相羽はゆっくりと首を横に振った。
「サンキュ。でも、今日は無理。このあと最後までいなくちゃいけないし、終
わってからも反省会があるしね」
* *
純子は最初、自宅に送ってもらうつもりでいた。大きな仕事を終えて、安心
できる場所で早く休みたい気持ちが強くあった。
しかし、車中で生徒手帳のスケジュール表を見たのが、気まぐれを引き起こ
すきっかけに。
「あ! ――変更、お願いしていいですか」
「どうしたの、急に大声出したりして?」
運転する杉本は本当に驚いたのか、ハンドルから片手を離して胸元に当てた。
「行ってほしいところがあるんです。どこにあるのか、詳しく知らないけれど、
ここ」
指差した箇所には、「市民体育館第二競技場」の文字。
運転中の杉本が覗き込めるわけもなく、市川が代わりに読み上げた。
「杉本君、どこだか知ってる?」
「はい、まあ。でも、ここからだとそれなりに遠いっすよ。線路を跨いで、ち
ょうど反対側って感じです」
「このあとは夜までスケジュールに余裕を持たせておいたから、私は問題なし
だ。行きましょう」
「はーい、りょうかーい」
杉本がのんきな口調で受け答えをした。忙しい鷲宇とはすでに別行動だから、
身軽である。
「ところで、こんな体育館で何があるの? 面白いこと?」
「知り合いの子が出てるんです」
「何に?」
「……武道の試合だと聞いてます」
細かいことは分からない。自信がないため、声が小さくなる。
「へえ? 興味あるのかしら」
「いえ、私はあんまり……さっきも言いましたように、知り合いの子が」
「だから、知り合いの子に興味があるんじゃないの?」
「そ、そんなことありません。ほら、知り合いが出るんだったら、応援に行く
のって、当然でしょう? もし独りぼっちだったら、かわいそうだし」
「ま、そういう見方もあるか。私達も一緒に応援してあげようか。応援は多い
方がいいに決まってるわよね」
「え、いえ、いいです、そんな」
しどろもどろになってしまった。言葉が出なくなってからも、純子は顔の前
で片手を激しく振った。
「分かったわ。下ろしていけばいいのね。帰りは大丈夫?」
「はい。相羽君がいるから、多分」
「え? じゃあ、知り合いって」
市川がまじまじと見つめてきたので、純子は口を滑らせたと初めて気付いた。
顔が赤らむのを意識し、うつむいてから答える。
「はい……信一君です」
「へえぇ。詩津玖(しづく)ったら全然そんなこと言わないから……あっ、信
一君のお母さんは知ってるのかな?」
「ご存知のはずです。ただ、今日はお仕事で見に行けないそうですけど」
純子は答えながら、
(『しずく』って、おばさんのことよね。素敵な名前だわ。水滴の『雫』と書
くのかな)
なんてことを思った。
それから四十分ほどで目的地に到着。杉本が途中、迷ったようだが大勢に影
響なかったろう。何せ、すでに体育館の回りには帰り行く人々が散見されたの
だから。
「終わっちゃってるみたいよ。ジュン、どうする? このまま帰ろうか」
車内の市川に尋ねられたが、純子は首を横に振った。
「しばらく待ってます。ありがとうございました。市川さんも、杉本さんも」
「そう? 風邪ひかないように、くれぐれも注意してよ。自分一人の身体じゃ
ないんだって自覚して」
「はーい」
間延びした調子で明るく応じ、コートの襟を寄せる純子。
「どうも心配だなあ。とにかく、待つんなら建物の中で。いいわね?」
「もちろん。あの、お気を付けて帰ってくださいね」
「言われなくても、安全運転で行くよ」
杉本は相変わらず調子よく言った。先ほど路地に入り込んでしまった際には、
ふらふらと迷走寸前の危なっかしい運転だったのに。
「それじゃ、次は撮影のとき」
「分かってまぁす」
まだ口うるさく言いたそうな市川に、純子は手を振った。
車を見送るや、第二競技場を目指して駆け出した。と言っても、すぐには分
からず、先に案内板を探す羽目になった。緑やピンクで色分けされた鳥瞰図を
見て、ようやく見当が付く。
息を切らしてたどり着いた先は、ああ、やっぱりがらんとしていた。
「はぁ。お、遅かったわ。はぁ」
まさか見に行けるようになるなんて思ってなかったので、正確な時間までは
聞いておかなかった。そのことが後悔されなくもない。
(でも)
純子は玄関口で備品の青いスリッパに履き替えると、残り香のような熱気の
残る競技場内に、足をそっと踏み入れた。
(ここで頑張ってたんだわ、あいつ。勝ち負けは知らないけれど……きっと、
全力を尽くしてやったに違いない)
間仕切のところから首を巡らせ、全体を見渡す。目を閉じれば、情景が浮か
んできそうだった。
(うふふ。私も頑張ったんだから)
両方の拳を握りしめたそのときだった。
「――ひょっとして涼原さん?」
背後でしたその声に、純子は飛び上がらんばかりに驚いた。多少よろけて、
重い扉に身体をぶつけながら振り返る。
相羽がいた。すでに道着姿ではなく、紺色のポロシャツにジーンズ、そして
ジャンパーを引っかけた出で立ちだ。手から大きなスポーツバッグを提げてい
る。
「何だ、まだいたのね。あは、びっくりするじゃない、もう」
慌てぶりを取り繕うために笑った。
−−つづく