#4683/5495 長編
★タイトル (RAD ) 98/12/24 0:10 (196)
Silent Angel 〜声なき天使の歌う歌〜【07】 悠歩
★内容
「お早う、アネット」
淡い黄金色の輝きも、もう遥か地平の彼方と帰ってしまった。代わって辺りを
支配するのは、蒼い闇。それでもこれから商売に励もうという、彼女たちの挨拶
は「お早う」だった。
「フランシス、リリア、えっとベネッタ、お早う」
マリィはその場に集まっていた少女たちへ、次々と声を掛ける。みんなマリィ
と同じ商売をして、日々の糧を得る者たち。辻娼婦と呼ばれる少女たちだった。
繁華街からやや外れたこの界隈に集まる娼婦たちは、ほとんどが十代前半の者
ばかりであった。戦後、春を売る者たちは爆発的に増えた。初めのうちは無秩序
に、彼女たちは人の集まるところならどこでも商売をしていた。いずれもが、他
に食べるための手段を持たない者たちである。それがあちこちで、秩序なく商売
をするのである。当然、様々なトラブルも発生した。場所や客を巡って、ついに
は死人が出る事態にまで及ぶことになる。
しかしこれは彼女たちにとっても、望ましいことではなかった。止むに止まれ
ず、娼婦に身を堕とした者たちではあったが、出来ることなら安全に仕事をした
い。そうでなくとも、娼婦という非合法な商売をしているのだ。せめて仲間内の
トラブルで命をなくすことは避けたい。
そんな思惑が、やがては秩序を生み出す。数人の娼婦たちが集まり、グループ
となる。グループが集まり組織となる。組織が出来ると、掟が生まれる。それぞ
れの商売をする場所が細かく決められ、不可侵とされた。それを侵せば、二度と
商売が出来なくなるばかりか、命さえ失うこととなる。新たに娼婦となる者も、
組織に対して筋を通さなければ同様であった。
この秩序によって娼婦たちは、以前よりは安全に商売が出来るようになったか
と思われた。が、必ずしもそうではなかったのだ。
組織は大人の女たちによって作られた。マリィたちのように歳若い、いや幼い
娼婦たち弾き出されてしまったのだ。秩序が生まれる前でも、大人たちに混ざっ
て上客の望める場所ではなかなか商売をすることが許されなかったが、組織が確
立さると完全に近寄ることも適わなくなってしまった。
15歳以下の少女たちは、あまり客の多くない繁華街から外れた場所へと追い
やられていたのだった。
「あっ、マリィ………お早う」
声を掛けられた少女の一人が、躊躇いがちに返事をしてくる。他の少女たちも、
一様に口ごもった短い挨拶を返してきた。みんな、マリィの連れているルウに気
づき、少なからず興味を持ったような目はしたが、そのことを口にする者はいな
い。明らかにマリィと関わることを、避けようという態度だ。一月ほど前までは、
スラムに住む中でも特に弱い者同士。姉妹のようにして助け合い、生きてきた仲
間だと言うのに。
マリィにはその理由が知れていた。彼女たちが自分の意志に反して、そうしな
ければならない訳を分かっていた。だから、よそよそしい態度の仲間たちへ微笑
みかける。
「みんな………今日も元気にがんばってね」
人見知りしているのだろう。マリィの影に隠れていたルウが、不思議そうに顔
を上げる。マリィと彼女たちの間にある事情を知るはずもないルウだったが、そ
の場の空気に違和感を覚えたのだろう。
「ルウ、行こう」
そんなルウの手を取り、マリィはみんなから離れようとした。マリィがここに
いては、他の子たちが後でどんな目に遭うか分からないのだ。
「ごめん、ごめんね………マリィ」
たまりかねたように、一人の少女が口を開いた。この場では、一番の歳上であ
る赤毛の少女は、立ち去ろうとしていたマリィを、いまにも泣き出しそうな顔で
見つめていた。
「いいの、気にしないで、アネット。私が一人で意地を張ってるだけなんだから」
「強いんだね………マリィは」
「そんなことないよ………」
笑顔で応えるマリィだったが、みんなの顔を見ていると挫けてしまいそうにな
る。辛く苦しい中、互いの肩を寄せ、助け合い、励まし合って生き抜いた友だち。
家族同様、それ以上の存在となった仲間たちと、別の決断をした心が揺らいでし
まう。
「じゃあ」
自分の弱い心に負けないうちに、ここを離れよう。そう思ったとき………
「レナ?」
マリィは仲間たちの一番後ろから、自分の方を見ている知った顔に気がついた。
いや、当然そこにいる者たちは、すべて見知った顔ではある。けれどいまマリィ
見つけた顔、レナの姿は、そこにあってはならないものだった。
「レナ、どうしてあなたがここに!」
返し掛けた踵を戻し、身体の線の細い少女たちの中に在っても、一際儚く見え
るレナの元へ歩み寄ろうとした。
「おいおい、無駄話をしていてもらっては困るよ。君たち」
背後から聞こえた声に、マリィの動きが止まる。マリィばかりではない、他の
少女たちも同じように表情をひきつらせ、俯く。
声の主が何者であるのか、振り向くまでもない。村が敵国の襲撃に遭い、この
スラムに流れ着いて二年が経つ。その間、マリィは様々な人間と出逢った。絶望
的な暮らしの中、信ずる神も失い卑劣な行為に走った者も、たくさん見てきた。
そのどれもが忌むべき所行ではあったが、いまマリィの後ろに立っている男に比
べれば、一切れのパンのために殺人を犯した者の方がどれだけ人間らしいだろう。
「おや? そこにいるのはマリィ………ミス・マリィ・レイコードじゃないのか
い」
男は芝居じみた口調でマリィの名を呼んだ。とうにマリィの存在に気づいてい
ながら、白々しいことをする。
その男に名を呼ばれただけで、全身に鳥肌が立つ。憎しみ、怒り、嫌悪。男に
対するマリィの感情は、幾ら負の言葉を並べてみてもまだ足りない。
足下のルウが、マリィにしがみついた手の力を強める。幼い少女は、その声を
聞いただけで男に恐怖を感じたのかも知れない。
「どういうことなんだい! ボルド」
そんな感情をマリィは隠さない。怒りを顕にして、背後の男へと振り返る。
「貴様、ボルドさんに向かって、なんてクチをききやがる」
両脇を固める、一見して善人ではないと分かる二人の男が、マリィに向かって
飛び掛かろうとでもいうのだろうか。ぐっ、とその巨躯を前に進めようとする。
多少気の強い人間であっても、その凶悪な顔と灰色熊のような巨体に迫られれ
ば平静を保つのは困難であっただろう。一目散にその場から逃げ出すか、恐怖の
あまりに泣き出してしまっても不思議ではない。しかしマリィは気丈にもその場
に踏みとどまり、自分に迫って来ようとする巨漢の二人を睨みつけていた。ただ
足下にしがみついたルウだけが、恐怖を感じてマリィが震えていたことに気づい
ているだろう。もっともマリィが足下に感じている震えが自身のものなのか、ル
ウのものであるのか自分でも分からなかった。
「やめないか、お前たち。男がか弱いレディに対して、凄むものではないよ」
用心棒に挟まれていた男が両手を広げ、二人の動きを制する。二人の巨漢の間
にあって、滑稽なまでに矮小な男。さも人の良さそうなふうを装い、慇懃な口ぶ
りを作ってはいるが、彼こそがマリィと他の少女たちの間を裂こうとしている張
本人なのだ。
「私の部下が失礼をした。これは私の教育が悪かったようだね………謝るよ、マ
リィ」
男………ボルド・バトゥが、マリィへと深く頭を下げる。けれどどれほど体裁
を繕ってみても、その口元に浮かんだ、常に人を見下したような笑みだけは残し
たままで。
「けれど、君も君だよ、マリィ。レディの使う言葉ではなかったね。いったい、
なにをそんなに怒っているんだい?」
ボルドの年齢は定かではない。が、間違っても二十歳前ということはないだろ
う。おそらくは、二十代後半から三十代の前半。噂では、四十を過ぎているとも
言われている。しかしその身長は、13歳のマリィよりわずかに高いだけだった。
従ってマリィに話し掛けるのには、ただ視線を真っ直ぐに向ければいい。なのに
ボルドはわざわざ顎を上げてまで、見下ろす視線をマリィに送る。言葉遣いをど
のように装っても、そんなところに本性が出てしまうらしい。
「どうしてレナがここにいるんだ?」
マリィは後方に腕を伸ばし、そこにいるはずのレナを指さす。前方のボルドを
睨み据えたままで。
ボルドを睨みつけているのは、彼に対する怒りからである。半年ほど前、ふら
りとスラムに現れたボルドは恐ろしいほどの才覚を発揮し、瞬く間に荒くれ連中
を懐柔してそのボスへと成り上がった。そしてスラムの住人たち全ての商売も、
その傘下に納めようとしている。もちろん少女たち辻娼婦もその例外ではない。
初めは強固に抵抗を続けた娼婦たちも、ボルド一味の暴力に屈し、いまだ彼に従
っていないのはマリィだけとなっていた。
それだけでもマリィがボルドを憎むのには充分な理由であった。加えていまま
た、ここにいてはいけないレナがいることに、怒りは増す。
しかしボルドを睨み続けているのは、必ずしも怒りからだけでなはない。いま
もなお、ボルドの汚いやり口に抵抗するマリィであったが、他に味方となってく
れるのはデニス一人だけであった。正直、子どもが二人きりで抗うには、ボルド
の組織はあまりにも大きかったのだ。マリィとて恐怖に感じない訳ではないのだ。
こうして対峙していても恐くて仕方ない。いま視線を逸らせば、目の前の猛獣
に喉元を噛み切られるような気がした。
だから睨み続けるしかない。
「はあ? そりゃあレナだって、働かなければ食べられないからじゃないのかい」
自分の存在をマリィが恐怖に感じていることを、知っているのだろう。平然と
言ってのけるボルドの口元に浮かぶ笑みが、その色を濃くする。
「ふざけるな、レナは身体が弱いんだよ! アンタだって、知ってるはずだ。そ
れを娼婦だなんて………」
「おいおい、ミス・マリィ、待ってくれたまえ」
真剣なのか、おどけたつもりなのだろうか。ボルドは両手を広げ、肩を竦めて
見せる。どちらにしろ、ユーモアのセンスなど欠片もない男の行為は、ただ忌々
しいだけであった。
「別に私が何かを強制した訳ではないだよ。彼女は自ら進んで、商売に出ている
んだ。私の言葉が信じられないのなら、本人に直接訊いてみるといい」
ボルドから視線を外すことには躊躇いがあったが、マリィはその言葉の答えを
求めてレナの方へと振り返った。
「本当なのかい?」
マリィとレナの間にいた少女たちが左右に分かれる。怯えたような瞳のレナが、
弱々しく頷いた。マリィの目を避け、俯いたようにも見える。
「レナ?」
再度、マリィは少女の名を呼んだ。
見た目にも娼婦たちの中で最年少と分かる少女。白く細いシルエットは、以前
会ったときよりもさらに痩せたようだ。やや距離を置いてさえ、長い栗色の髪の
傷みが見て取れる。
「私………自分の意志で………この仕事をすることにしたの」
か細い声が、ようやくマリィの質問に答えた。
「だって、いままで私………ずっとみんなのお荷物だったから………これからは、
自分の食べる分くらい、自分で稼がないと………」
「だけど、レナ、あなたは………」
「ううん、平気よ。みんなと同じことを、するだけですもの」
わずかに首を傾げ、レナは微笑んで見せた。
しかしマリィには、その微笑みが苦しげに見えた。
その言葉が苦しげに聞こえた。
マリィはその微笑みと、言葉の裏に隠された事情を察する。それが単にマリィ
の想像に留まらないことは、俯いた他の少女たちの表情からも窺える。
「さあ、これで理解してもらえたかな? ミス・マリィ。 それより、その子だ
ね。最近、君のところに転がり込んできた、新しい住人というのは」
レナのことで歯がみする思いに震えていたマリィを、さらに愕然とさせる言葉
がボルドから発せられた。驚いたマリィが見つめたボルドの視線は、真っ直ぐと
ルウへ向けられていた。
ルウがマリィの元へやって来たのは、昨晩のことだ。マリィがルウを連れて外
に出たのはこれが初めて。それなのに、もうボルドはルウのことを知っていたの
だ。
「いや、なに。立場上、この街での出来事は把握しておく必要があるのでね。特
に治安を維持するためにも、住人の出入りについては注意を払っているのだよ」
マリィの驚きを察したボルドが、ごく穏やかな口調で説明をした。が、それは
マリィに大きなプレッシャーを与える。
お前の行動は全て手の者に監視され、俺には筒抜けなのだと、ボルドは語って
いるのだ。
「お嬢ちゃんの、お名前は、なんて言うのかな?」
マリィのそばまで歩み寄ったボルドが、ルウへと話し掛ける。砂糖をまぶした
ような、甘ったるい声を作って。不自然な甘さを纏った声に、子どもに対する優
しさなどはない。ただ、形だけのもの。
ルウにもそれが分かるのだろう。ボルドの視界から逃げるように、マリィの背
後へと隠れたまま震えている。
「どうしたのかな、お嬢ちゃん。おくちが利けないのかな?」
さすがにボルドも、ルウが言葉を持たぬことまではつかんではいないらしい。
「そうだよ………この子は話せないんだ」
こんな男にわざわざ教えてやる必要はない。そう思ったマリィだったが、こん
な男だからこそ、教えてやることにした。ルウが応えないことで、いつ本性を顕
さないとも限らない。幼い子どもを痛めつけることさえ、平気でやってのける。
ボルドとは、そういう男なのだ。
「おお、それは可愛そうに」
大仰なポーズを取り、ボルドは同情したふりをする。それが本意でないことは、
この場にいる全ての者が知っていると言うのに。