#3055/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 93/ 4/ 6 0:25 (192)
ただいま禁煙中(前) 青木無常
★内容
桜並木のペーヴメントを選んだのに理由はない。風はぬるんではいたが花見の時
機にはまだ間がある。だいいち、咲きはじめの桜などおれは好きじゃない。でもた
ぶん、散りしだく花吹雪の下を歩くときも今年はひとりのままだろう。
だからサイドウォークに立ちならぶ商店の一軒を選んで入ったのも、たいした理
由があったわけじゃない。
だいたい世間が軒並み不況の風にあおられている折も折、高度経済成長期の亡霊
に憑かれたようにモーレツ社員をきどってみたところで、エンジンがぶち切れるま
で幾許もないことは最初からわかっていた。ただ生来のひねくれの虫がむずむずと
首をもたげていただけだ。それもいまじゃおとなしくなり、こうして仕事をさぼっ
て愚にもつかないヒマつぶし。
スポーツ用品店にはめずらしい、ほどよく薄暗い感じの店内を入口から一瞥し、
客らしき姿の見当たらないことを確認しつつ歩を踏みこんだ。いつきても繁盛して
いた記憶がないにもかかわらず、売上は開店以来順調にのびつづけているらしい。
秘密の地下室で密輸兵器でもあつかっているにちがいない。
リングシューズの棚からダンベルのコーナーへと視線を移動し、視界のかたすみ
にうごめくものを見つけて首を横にむけた。店奥の一角にうずくまってなにやらご
そごそと整理だかヒマつぶしだかをしていた小麦色の影が、いらっしゃいと呼びか
けながらふりむき、
「史郎ちゃん!」
わっと手をひろげてのびあがりつつ叫んで、そのまま数歩を踏みだした。
「元気そうだなあ葛城」
とおれも満面に笑みたたえつつ歩みよる。バリ島で仕入れた簡素な夏服がこの季
節でも寒そうに見えないのは、その肌の色より娘の全身からはちきれる鋭角の夏の
オーラのせいだろう。
元気そうだも糞もないわよ、またとつぜん現れて、元気だった? と矢つぎばや
に言葉を重ね、葛城なおみはメンソールの煙草をくわえて火をつけた。いったいこ
の娘、どこに煙草をもっているんだろうといつもくわえた後に疑問に思う。口に出
して質問したことはない。黙したままの疑問なら、ほかにもいくつもある。
「楓ちゃん、元気?」
多少からかいまじりの明るい問いかけに、せいいっぱいのニヒルにひとふりの寂
しさをまぶしておれは笑った。
「知らねえ。わかれた」
「……うっそー、いつ?」
疑問と不審は、おれには咎めだての詰問に響く。
「三ヶ月前かな。会わなくなってからは、半年くらい経ってる」
「なんで?」
肩をすくめてみせる。自分にだってよくわからない。つきあおうといったのは彼
女だったが、惚れているのはおれのほうだった。別れようといったのはおれだった
が、いまでもなぜなのかはよくわからない。ともに過ごす時間が苦痛になりつつあ
ったのは事実だが、その時点では気持ちはピークに登りつつもあった。
なんで? なんで? なんで? と五回たてつづけにくりかえしながら葛城はお
れにつめより、おれは笑いながら首を左右にふるだけ。知りたいのはおれのほうだ。
電話口での彼女の反応――うん、そのほうがいいかもね。それから数刻、いつも
どおりの愚にもつかない世間話をくりかえし、そして電話を切った。それで別離の
完了だ。以来、顔をあわせることもない。
「あんなに仲よかったのにねえ」
レジ横の店員休憩所に移動しながら葛城は、二本めの煙草に火をつける。「ほれ、
お客さんがすわれ」と一脚しかないプラスチック製の丸椅子をずずずとさしだし、
自分はカウンターに張りのいい腰をすえると、ふたりのあいだの空間に床置きの灰
皿を移動させた。
「ほらあ、この前ここにきたときは、いっしょだったじゃん。まさか別れるなん
て、夢にも思わなかったよあたしゃ。なに、その目は」
と葛城は、惚けた目つきで顔を見つめるおれの目を正面からのぞきこみつつ不審
もあらわにつけ加える。
「煙草か」ぽん、と手をうち、「なんだあ、珍しいじゃん史郎ちゃんが煙草きら
しちゃってるなんてさー。しようがないなあ。ほれ」
と差し出されたヴァージニアスリムをおれはやんわりとおしもどし、
「じつは禁煙中なんだ」
言った。
「またムダなことを」葛城は鼻で笑いつつ煙をふかす。「何時間?」
「一週間。今日で二週間目に突入してる」
顎のはった愛敬たっぷりの顔が狐につままれたように目を見開いた。
「うっそー。マジぃ? すごいじゃん。どーしたのよいったい。失恋のショック?」
「んなわけあるかい。三ヶ月も前のこったぜ」
「じゃーいったいどうしたんだよ。あれほどの超ヘヴィスモーカーがさあ」
一日の消費量がセブンスター三箱に迫りつつあったおれだからこの質問は無理も
ない。ただし残念ながらこれに対する解答もおれの内部には明確には存在しなかっ
た。
「売上、どうだい?」
「またそーやって話をそらそうとする」
「おれの会社なんか、バブル崩壊の波、まともに喰らっちまってんけど」
「あ、る、よーそれ、確かに」と煙草をもみ消しながら葛城は何度もうなずいて
みせた。「ほら、去年まではさー、大もうけとはいわないけど順調にのびてたわけ
よね売上。それがさあ、今年の一月後半あたりからまるでさっぱり」
「ボーナスん時はどうだったんだよ?」
「あ、それは来たけどねー、波が。でもやっぱ去年のシーズンと比べたらどっと
落ちてるなあ。ツアーの申込み客も極端に減ったし。板とかさー売れ残っちゃって。
買わない? 買ってよ二、三セット」
「冗談じゃねえ。そんな金ァねえよ。だいいちこちとらここ五、六年、スキーに
なんざいくヒマひとつありゃしねえ」
「あいかわらずだねー。楓ちゃんも忙しい人だし。いいカップルだ――って、別
れたのか」
「三ヶ月も前にね」
「なんで?」
堂々めぐりだ。
「バブルがはじけたから、だ」
「んなバカな」
「時期的にはちょうどつじつまがあうな。いま気づいたんだが」
「まーさーかー」
「そりゃそーだ」
といいつつ、ふと思った。もしかしたら、ほんとうにそうなのかもしれない。
惚れたのはれたの、結局そんなもんなのかもしれない。とは、楓の得意のせりふ
でもあった。
まー、いーや。
「昼飯、食ったか?」
「んーん、一時半にバイトの子がくるから。んもー、腹へっちゃって腹へっちゃ
って。背なかとお腹がくっつきそうだよあたしゃ。史郎ちゃん、なんか買ってきて
よー」
「やだ。交代がきたらいっしょに食いにいこう」
「いー? 我慢できそうにないなー」
「我慢しなさい」
「やだ」
「わがままいわない。ほれ、客だぞ」
「あん? あ、いらっしゃーいグローブかあ?」
ぱんぱんとはんぶんむきだしの太腿をたたきながら葛城は、野球用品コーナーの
前で所在なげにこちらを見つめる小学生二人組にむけて快活に歩みよる。
おれは灰皿のなかで燃えのこった吸いさしからひとすじの紫煙がたちのぼるのへ
鼻頭にしわをよせつつ、ヴァージニアスリムライトの残骸をつまみあげてもういち
ど念入りに消火すべく灰皿の底におしつけた。
へいへいへーいエースに安もののグローブは似合わないぜーと調子よく小学生相
手に売り込みをかける葛城をしりめに、おれは店外に出て缶飲料の自販機の前に立
った。オレンジエード。葛城にはウーロン茶。
毎度お、と威勢のいいかけ声を背に店を出るガキ二人組と入れちがいにレジへと
むかい、ひきだしを閉じて顔をあげる葛城にむけて缶をほうり投げる。
「おう、びっくりした。ありがとう、気前いーじゃん」
「ウーロン茶でよかったっけか?」
「上等上等、いただきまーす」
いいつつ、すでにプルタブはゴミ箱にむけて落下しつつある。両手でささげ持つ
ようにしてぐいと缶をかたむけ、
「ぶはー、生きかえるぜ」
ふたたび煙草に火をつける。
「……アイスクリームが好きだったんだよな」
「おう。よく覚えてるじゃん」
「よく買いにいかされたからな。あと、モスバーガーの木苺シェイク。わざわざ
冷凍庫で凍らせてからばりばり食うの」
「はははは。あれ、史郎ちゃん缶コーヒーじゃないじゃん。珍しい」
「ちょっと嗜好がかわってな。さいきん、こういうのも飲むようになった」
「んー失恋の影響かー?」
「ちがうっての。禁煙の影響だよ。コーヒー飲むとき、煙草がないとなんか寂し
くてなー」
「あ、それいえる。ふーん、でもほんとに禁煙しちゃってるんだあ。あんなに喫
いまくってたのにさ。すごいねえ」
「まーかーせといて」
「なーにが。わかった。よし、禁煙してんなら金がそのぶんあまってんだろ。な
んか買ってきなよ。新しいトランクスが欲しいだろう? シューズでもいいよ。グ
ラブは? もってるやつ、何オンスだっけ」
「十六オンス。ぜんぜん使ってやしねえよ。ジムにもいってねえ」
「なんでえ。また始めろよう。禁煙もしたことだしさあ」
「もう三十だからなあ。どうがんばったって、プロになれる歳じゃない」
「うーん、そんなことないよー」
「あるよ。まあプロになれたって、試合がないだろ。だいたいスタミナがなあ。
さいきん駅の階段のぼるだけで息ぎれが」
「史郎ちゃん爺いみたい」
「ははは」
力なく笑いながら葛城に背をむけ、ボクシングコーナーに歩みよった。
テーピングのやりかたから、忘れちまってるよ。
そのまま通り過ぎ、のんびりとした足どりで店内をひとめぐり。
春の陽光に通りがさざめく。行き交う車のむれ。歩道をゆく人の姿はまばらだ。
咲きはじめた桜並木が、白く揺れる。自動ドアをくぐってみたび店の外に立ち、堀
ばたにむけて下る坂道の彼方へ目をやる。
以前なら、背広の内ポケットから煙草をとりだすタイミングだった。
「おい、いくぞ」
ぼんやりしていたおれの背を、声がとんとおした。
「あ?」
「飯」
いって葛城は、浅黒い顔ににんまりと笑みを浮かべる。いつのまに交替がきたん
だろう。
「なに食う?」
問いに、答えは即座にかえる。
「んーチャーハン。なんか今日はずうっとチャーハン食いたくってさあ。朝から
チャーハンチャーハンてずうっと頭んなかチャーハン一色だったのよ」
「うし。うまい店あんのか?」
「おう、まかしとき。案内したげる。ついてきな」
とんとんと軽いステップで飛び跳ね、先にたって小ぢんまりとした中華料理屋に
先導する。くるっくー、くるっくー、都会の電線上で愛を語る山バトのカップルを
眺めあげながら、おれたちは赤い暖簾をくぐる。
「約束、覚えてる?」
ジャッ、ジャッと小気味よくくりかえされる中華鍋の振幅をBGMに、葛城は唐
突に口を開いた。
「……焼き肉?」
「おー覚えててくれたか。こんどぜったい食べにいこうね」
「うん。おたがいヒマないが」
「ホントだよねえ。もーあたしなんかさあ、今年の冬日本に釘づけで泳ぎにもい
けなかったしさあ」
眉をよせながらいかにも嬉しげな表情をして愚痴をたれる葛城に適当にうなずき
つつ、水の容器を何度となく口もとに運んだ。
飯を食っているときは落ちついていられるが、食い終わったあとにもうひとつ、
大きな違和感がくる。おれの軽い苛立ちには頓着することなく、葛城は細身の煙草
に火をつけた。気がつくと、ライターと箱が彼女の右手もとにならんでいる。
あ、うん、と目を見開きながらうなずき、たいてい手のとどく場所に置いてるよ
ねえと実例をまじえて説明した後、「なんで?」と訊きかえす。
「なんとなくね。今まで、いったいどこから煙草とりだしてんだろうってさ。疑
問に思ってたから。ほら、いつも南国風の、ポケットのほとんどついてない服ばっ
か着てるじゃん?」
「ああ、うんうんそうそう。だから煙草ってけっこう持ち歩くのに不便でさあ。
ウエストポーチ使ってんだけど、やっぱなんか変なんだよね。あたしも禁煙しよう
かなあ」
「おう」
「でもなあ。たぶん無理だよなあ。史郎ちゃんはどうなの? きつい? きつか
ったでしょーそこまで我慢するだけで」
おれは苦笑しながら、首を左右にふってみせた。