AWC 泣くな嘆くなパン屋のおやじ【春はノーリターン】(3)あきち


        
#3046/3137 空中分解2
★タイトル (SKM     )  93/ 4/ 4  10:31  (200)
泣くな嘆くなパン屋のおやじ【春はノーリターン】(3)あきち
★内容

         鴬の声に想いを乗せて

「この前の中華チマキ、すっごくおいしかった」
「そお?あれは秘伝なんだ」
「そういえば、あのつみれ汁もおいしかった」
「ああ、あれはオヤジの得意料理」
 姫とボート君が話しています。去年結婚したばかりのボート君の家を姫はよく訪れ
るということでした。それにしても、この話しの内容が気にかかる。

 鳥沢駅を出発した我々は甲州街道を少し戻って、山あいの集落を歩いていました。
簡易舗装の道を私はドタドタと、あとのふたりは軽快に。格好や装備が多少チグハグ
ですが、電車の中ですでに話しが弾んでいたこともあって、もう何度も山に一緒に来
ている者同士といった雰囲気です。傾斜もさほどではありませんから、私もとりあえ
ず息が続いています。

 今話題は料理について。色々話すうちに私は青ざめたのですが、ボート君の実家は
なんと割烹旅館を経営しているということでした。それで彼は小さい頃から板前さん
であるお父さんに習って板場の仕事をしてきたということです。高校を卒業して東京
に来るまでに家の調理の仕事はほとんどこなせるようになっていたというから、これ
はもうプロの板さんでしょう。私のにわかシェフとはその覚え方が違います。体の年
輪の一つ一つに染み込んでいるはずです。ベートーベンが父親の弾くピアノの下で遊
んでいたという話しがありますが、それと同じでしょう。何十、何百種類もある魚の
さばきかた、煮物、焼き物なんでも出来るという話しです。その上、洋風の料理も好
きで、奥さんに代わって自分でもそういった料理をよく作るということでした。ああ、
なんてことだ。なんで一言そのあたりを手紙に書いておいてくれなかったの。粋がっ
てお昼の料理当番など申し出るんじゃなかった。
「あきちゃさんの作ってくれるお昼、楽しみぃ」
 私の目の前に暗雲はなおも低く垂れ込める。

 人家が途切れ、いよいよ山道になってきました。濡れた落ち葉を踏み締めて、先頭
をボート君、真ん中を羽衣姫、ドンジリを私というオーダーで登って行きます。あた
りの樹々は芽吹きには程遠いといった冬枯れのままですし、植林された杉林は変に無
愛想、甲州街道を眼下に見おろせるくらいですから、そこを行き過ぎる車の騒音が風
に乗ってやって来て少々耳障り。

 私はこの山行に備えてガイドブックを買いました。私の手元にはこの山域を紹介し
たものがなかったからです。その本の高畑山の紹介文には「変化に乏しい山である」
と記されていました。それを読んでおいたので、私は覚悟が出来ていましたから、な
んとか耐えられそうです。ほんとに変化に乏しい。ガイドブックの新しい利用法を発
見したと言えるでしょう。

 でも、私は少しもがっかりしていませんでした。なぜかと言うと、私にとっての今
回の山行の目的は「山に行く」ではなく「羽衣姫と山に行く」であったからです。で
すから、どんなに変化に乏しい山であっても一向に構わなかったのです。もちろん、
口に出したりはしませんでした。私はストイックですから。

 しかし、ボート君のパワーはすごい。ぐいぐい登って行きます。姫が遅れる。後ろ
からの足音が遠のいたことに気づき立ち止まり、姫を待つ。何か声をかけてまた歩き
出す。その息が少しも乱れていないようです。ボッカ隊の私はひたすら姫が遅れる事
を念じていました。「ひぃ、ひぃとやすみ入れようよぅ」私のテレパシーが通じたよ
うです。彼は山に入ってちょうど1時間後に「ちょっと休んでいきましょうか」と言
ってくれました。ああ、しんど。

 標高が800メートルを越えたあたりから、私の「不吉な予感」が現れ始めました。
雪です。はじめのうちは微かに登山道を覆う程度でしたが、標高を上げるごとにそれ
は深くなり、標高900メートルあたりでは10センチくらいの積雪です。まずいこ
とにそのあたりから道は北側の斜面を巻くようになり、踏み跡も氷結しています。姫
のハイキングシューズは底の刻みが少ないようで、ちょっと斜面がきつくなると歩き
ずらそうです。それでも必死にバランスを取りながらボート君に付いて行きます。こ
の山行の立案者であるボート君もこの雪は予測出来なかったようで、その表情に少し
不安の色が窺えます。立ち止まってはまだまだ延々と続く雪の斜面を睨みつけていま
した。彼もなかなかりりしいではないか。私はボート君に対して急に親近感を覚えま
した。

 標高からみて頂上直下と思える斜面でその事件は起きました。
「キャー」とい黄色い悲鳴とともに羽衣姫は両手を万歳の格好で、後ろ向きのまま私
の目の前にずり落ちて来たのです。一瞬の事でした。私はとっさに右手を姫のザック
のあたりに差し出し、足をふんばり身構えました。ズンという衝撃とともに私の手に
重みがかかります。なんとかバランスを取り戻そうと姫は手を上げたままバタバタし
ています。私もふんばってはいるものの雪の上ですから、それでも足元が定まらない。
そうして抱き抱えるような格好のままふたりは一緒にずり落ちました。その時です。
ザックを押さえていたはずの私の右手は突然生暖かい感触を得ました。ちょうど蒸し
タオルの中に手を突っ込んだような感覚です。気がついてみると、私の手は姫の背中
のブラウスとセーターの間に入り込んでいたのです。な、なんということをしてしま
ったのだ。事故とはいいながら、このストイックな私にはあるまじきことを……。燃
えるような若い女性の体を肌で感じてしまった……。

 一度あることは二度あるとはよく言ったものです。
 更に傾斜がきつくなったところで第二の滑落事件が起きました。前回の教訓から私
は姫の滑落を事前にくいとめるべく、幾分接近して歩いていました。ほんの少しでも
バランスを崩したら、その段階でザックを押さえて滑りを止めようという作戦です。
これが効をそうしてどうやら危険な箇所は通過したなと気を抜いた時でした。またも
や黄色い悲鳴とともに彼女はずり落ちて来ました。失敗した。ちょっと距離を取りす
ぎたか。私は前回の教訓から二度と同じ過ちは犯してはならないと固く心に誓い、身
構えました。ドンッ。あわわ、お尻を押さえてしまった。なんという事をしてしまっ
たのだ、事故とはいいながら嫁入り前の女性のお尻を思いきり抱きしめてしまうとは。
私の不吉な予感が的中してしまった。

 あのぅ、文章にするとですね、確かにこういうことなんですが、山ではよくあるこ
となんです。変な目で見ないで下さいよ。滑るのが止まって「ああ、よかった」と無
邪気に喜んでいたのは姫の方なんですからね。

 そんなこんなで我々は頂上にたどりつき、お昼と相成りました。時計はちょうど1
2時を指していました。一山越えたというか、地獄に落ちる恐怖を分けあったという
か、試練を乗り越えた我々3人は、以前にもまして和気合い合いといった雰囲気です。

「ねえ、あきちゃさん、キュウリは何本切ればいいの?」
「そうだな、2本かな」
 羽衣姫がサラダ用のキュウリを切っています。サラダと言っても簡単な物で、刻ん
だキュウリの上に蟹缶をあけて、私が作って来たドレッシングをかけるだけです。
「あきちゃさん、パンの厚さはこんなもん?」
「そうだね。あ、この餅網火にかけといて」
 ボート君がトースト用のパンを準備しています。彼のサバイバルナイフが威力を発
揮しています。
 私は昨日作ったトマトソースを大型のコッヘルにあけ、火にかけました。チョリソ
と呼ばれるスペイン特産のソーセージを薄切りにしてその中に放り込みます。アスパ
ラやグリンピースを彩りよくその上に並べて、煮立ったところで卵を3個落としまし
た。あとはこの卵が半熟になるまで数分暖めるだけです。

 さあ、出来た。味はどうかな。ちょっと酸味のあるソースが歩いたあとの喉にはこ
とのほかおいしく感じられます。パンとの相性もいいようだ。姫もボート君も「おい
しい」を連発してくれました。おお、なんとかプロの舌にもパスしたか。私の心配も
杞憂に終わったようです。これで、ワインかビールがあれば最高だ。ただ、お酒はほ
とんど飲めないという姫のために、今回はアルコールは抜きと決めていましたのであ
きらめましょう。それでも私は十分満足でした。

 食後のお茶をゆっくり飲んでいるころから、一転にわかにかき晴れて、まぶしいば
かりの陽光が我々を包んでくれました。登りでかいた汗も食べている間に乾いたよう
です。我々は後かたづけをして、次の目的地倉岳山に向かいました。

「下りの斜面に雪がついていたらどうしよう」という姫の心配も、ちょうどすれ違っ
た登山者の「ほとんど雪はありませんよ」の言葉に吹き飛んだようです。ポカポカ陽
気の明るい尾根道を我々は軽快に飛ばします。私も文字どおり肩の荷をだいぶ降ろし
ていますので身軽です。

 倉岳山は見晴らしも良くないので、軽くいなして、一路下山の途につきました。ガ
イドブックに変化に乏しいとされながらも、道はよく整備されていました。結構入山
者はあるようです。沢筋につけられた登山道を歩くのは気持ちがよいものです。水の
流れる音が体の中の琴線を弾くからでしょうか。思わず口笛でも吹きたくなります。

 閑散とした梁川駅のホームで私は言いました。
「ああ、いい山だったなぁ」
  日本中どこにでもありそうな、なんの変哲もないこのふたつの山を振り返って、私
  達3人の表情には満ち足りたものがありました。

 電車が新宿に近づくにつれ、私のストイックな体が「ビール、ビール」と騒ぎ始め
ました。今日はアルコール抜きで小綺麗にまとめようと決めていたのに、意志薄弱な
体だ。私はおそるおそるボート君に訊きました。
「どう、新宿で軽く打ち上げってのは?」
「いや、女房が熱出してますから、今日は帰ります」
 う〜む、愛妻家だ。しかし、それもそうだな。いたしかたない。飲むのはまたの機
会にしよう。
 そんな会話を聞いていた羽衣姫が、
「わたし飲みたい」とポツリ。
「え?」
「少しなら飲めますから」

 というわけで、話はまとまって、ボート君と新宿駅で別れたあと、私と姫は暮れな
ずむ新宿のビル街を居酒屋を求めて歩き始めたのでした。しかし、いいのだろうか、
こんなに綺麗で、ひとまわり以上も若いお嬢さんと、二人っきりでお酒を飲んでも…。

「これは打ち上げであるから構わない」ストイック大王が難しい顔をしながらも、英
断を下しました。
「はは、有り難き幸せ」

 寮に帰っても食べる物がないからという姫の要望を素直に受け入れて、私は和風の
居酒屋を選びました。昼食が洋風であったからということもありますが、私は元来こ
ういう店の方が落ちつきます。彼女はグラスワイン、私はビールで乾杯した後、私は
しっかり日本酒を注文して、もうご機嫌です。日本の肴に日本のお酒、そして天から
舞い降りて来たような素敵な姫君。これ以上何を望めばよいのでしょう。

 ワインを半分も飲まないうちにもう真っ赤になっている羽衣姫が、楽しそうに話し
始めました。高校時代、大学時代をワンゲルで過ごしたという彼女は、結構山を歩い
ているようです。どうりで、ボート君のラッシュにも付いて行けたわけだ。あなどれ
ん。登山靴は実家に置いたままだと言う。

「今度持って来ておかなくちゃ」と姫。
「そうだね、そしたらあんなに苦労しなくて済むよ」と私。
「ご迷惑をかけました」
「迷惑だなんてとんでもない、ははは」許せん奴だ。

 自分の好きな作家の話しをしていた姫が、急に思いだしたように呟きました。
「それにしても、あそこの景色不思議でしたね」
「そうだったね、ほんとに不思議だった」

 私達ふたりは同時に同じ風景を呼び戻していたのでしょう。それは、倉岳山からの
下山道でのことです。
【希に見る巨木 栃の木→】と書かれた木片を発見した我々3人は立ち止まって、そ
の矢印が指し示す方向を見上げました。登山道から少し離れた斜面に周囲十数メート
ルはあろうかという巨木が立っていました。その大きさにはびっくりしました。しか
し、もっと驚いたのは、我々が立っているそのあたりの樹々がどれもこれも青々とし
た葉をつけていたことです。いくら標高が低いからといっても山の季節としてはまだ
冬。広葉樹がこれ程までに葉をつけるのはもっともっと先の筈です。下草も春のよう
な色合いです。こんなことがあるんだろうか。
 鴬が一声高くさえずりました。これが噂に聞く「武陵桃源」か。
「秋に葉が落ちなかったんでしょうかね」とボート君。
「このあたりが特別暖かいのかしら」と姫。
「いや、磁場が狂っているんだろう」と私。

 酔いが回ったのか、姫の目は少し潤んでいるようです。夢見るように遠くを見てい
ます。
「あそこだけ春が先に来たのね」と姫が言いました。私は「そうかも知れない」と、
うなずきながら、他のことを考えていました。
「いいや、そうじゃないさ。あなたの春はこれからだろうけど、あそこの風景はあの
時だけ春に戻ったのさ。ほんの一時だけね」

 酔ったのでしょうか、私の耳に鴬の澄んだ鳴き声が聞こえて来るようでした。

               終




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