AWC 泣くな嘆くなパン屋のおやじ【春はノーリターン】(1) あきち


        
#3044/3137 空中分解2
★タイトル (SKM     )  93/ 4/ 4  10:22  (192)
泣くな嘆くなパン屋のおやじ【春はノーリターン】(1) あきち
★内容

          トマトソースに想いを込めて

 私は玉ねぎを炒めていました。私のパン屋の厨房で、深鍋に上質のオリーブオイル
を熱くして、みじん切りにした玉ねぎとニンニクを根気よく茶色になるまで炒めてい
ました。やっとパンの仕事が終わり、普通ならひと休みしたくなる金曜日の日暮れ時、
私はうきうきとしています。
「明日は休みだ、あさっても休みだ、連休だぁ。その上……」

 明日は3月20日の春分の日で休み、あさってが日曜で休み、つまり連休です。土
日が休みで当たり前のこの世の中で、連休だといって喜んでいるのはおかしく聞こえ
るかも知れませんが、私の店は定休日が日曜と祭日ですので、連休になるのは年に何
回もありません。
「商売人が日曜、祭日に休むなんて……」と不思議に思う方のためにちょっと説明し
ますと、その理由は簡単で、日曜、祭日にはあまりお客様が来ないんです。何故かは
よく解りませんが、おそらく家族でどこかに出かけたり、ファミリーレストランに食
べに行ってしまうからでしょう。しかも、従業員の確保は難しい。それならと、日曜、
祭日を休みにしています。

 しかし、今回の喜び方は自分でも異常に思えます。最上級のわくわくであることを
自分で知っています。

 玉ねぎが色づいて来ました。私は人参、ピーマン、ロースハムのみじん切りをその
鍋に加え更に炒めます。焦がしたら台無しです。火加減をこまめに調節しながら野菜
の甘味が出てくるようにと、鍋の中の野菜達に話しかけるように炒めます。
「火は弱くはないかな?」
「水分は抜けたかな?」

 そうして野菜を炒めている間にも、私の表情が崩れて来るのが許せませんでした。
料理は素材と料理する人との調和で成り立つものですから、その間に雑念が入った時
に失敗することがよくあります。なのに、今日は何故か雑念が入り込む。

 私は去年の11月1日に山仲間と高水三山に行った時の事を思い出していました。

 奥多摩の高水三山のひとつ岩茸石山(いわたけいしやま)の頂上で同行した仲間4
人と共に昼食をとっていた時のことです。我々の隣でやはり昼食の準備をしていた若
い人たちのグループの男性リーダーが、こともあろうか、その作り掛けのおいしそう
なトマトスープを鍋ごとひっくり返してしまい、大騒ぎになったことがありました。
円陣を組んでそのスープが出来上がるのを今や遅しと待ちかねていた女の子達の悲鳴
にも似た嬌声が今も耳に残っています。私はあまりかわいそうなので、少し多めに持
っていたパンをトーストして彼らにあげました。
「このパン、おいしい!」
 山でトーストを食べたのが初めてなのでしょう、何人もの女の子が私にお礼を言っ
てくれました。あまりおだてられたので、私は年甲斐もなく舞い上がり、隠し持って
いた自家製のフルーツケーキもあげてしまいました。一応営業スマイルで「私はパン
屋をやっています。店にも来てください」とはつけ加えましたが、はなから来るとは
思っていませんでした。

 炒めていた野菜の臭いが変わって来ました。野菜の生の臭いが飛んで、オリーブオ
イルとなじんだ独特の甘味のある臭いに変わって来ました。粘りも出てきたようです。
玉ねぎを炒め始めてから1時間以上経っています。私はその鍋に皮剥きをして刻んで
おいたトマトと香辛料のパプリカを加え、蓋をして火を弱めました。

「みんな若い娘ばかりだったな」
 私はガス台の前を離れ、どっかりと椅子に座りこみ、煙草に火を点けました。片時
も手を休めることが出来ない緊張状態から解放されて、私の視線は宙をさまよい、あ
の日あそこにいた青春真只中の若者達の楽しそうな様子を、多少の羨ましさと共に思
い出していました。
「私にもあんな時代があっただろうか」

「あら、いい臭いね。マスター、何作ってるんですか?」
 店番をしていたパートのおばさんが厨房に入って来ました。部屋の中には私が今作
っていたソフリットと呼ばれるスペインのトマトソースの臭いが充満しています。
「ああ、トマトソースですよ」
「ピザソース?」
「いえいえ、料理用のソースです」
「あら、また新しいパン、発明するんですか?」
「いえ、その、明日山に行くのにこれ持って行くんですよ」
「山に?あら、わたしにも食べさせてよ」
「いえ、その、まだ時間がかかるから、また今度」

 確かに私は料理が好きで、店で売る為にオリジナルのパンを時々作ります。よく売
れて定番になったものもあれば、1週間ももたないで消えていったものもあります。
そんな事情を知っているこのおばさんがまた新しいパン用になにか研究しているんだ
と思っても、それは無理からぬことなのです。ただ、悲しいかな、レストランのよう
に高額の料金をとれる店とは違い、大衆的なパン屋としては、そんなソースを煮るの
に1時間も2時間もかけてはいられません。ですから、私の料理好きは趣味の世界だ
と言っていいでしょう。
 お客様の相手をするために店に戻ったおばさんの後ろ姿にほっとしながら、私はま
たあの山での情景を取り戻していました。

「あのぅ、これ。お返しにもなりませんけど」と言って、フルーツケーキを受け取っ
たその女の子は私に銀紙に包まれた小さなチョコレートを2粒くれました。
 私が女性陣のリーダーと目したその娘は、どちらかと言うと細面で、目は切れ長、
白い帽子をかぶっていましたが、その白さにも負けないくらいの色白でした。そう、
例えて言うなら万葉美人。それも、下ぶくれではなく、羽衣伝説の天女の様でした。
私にチョコレートを手渡す時にっこり笑っていたことをよく覚えています。その笑顔
が実に素敵でした。はにかむように、そして、目の奥にきらりと光る何かをたたえて
……。

 私は頂いたチョコレートのひとつをその場で食べ、もうひとつはポケットにしまい
こんで、家まで持って帰った覚えがあります。仲間には悪いと思ったのですが、その
娘の目が私だけにと言っているような気がしたからです。私の得意な思いこみでしょ
うけどね。

 山頂での昼食の後、雨も降りだしましたので、私達はそそくさと山を下り、山麓の
和風レストランにドドッと駆け込みました。実を言いますと、その高水三山へのハイ
キングはその和風レストランで酒を飲むのが主たる目的であったのです。山は付け足
しと言うか酒を飲むための準備運動みたいなものでした。川辺でバーベキューなどし
てしこたま酒を飲んだからでもないでしょうが、実のところ、それ以後、あの山で出
会った若者グループのことはほとんど私の脳裏から離れ、今まで何百、何千と山で出
会って来た名前も知らない人々と同じように、記憶の片隅に追いやられようとしてい
ました。

 弱火で静かに煮ていたトマトソースの蓋から、湯気が漏れ初めています。私はそっ
と蓋を取って見ました。最後に入れたトマトのざく切りがその形を崩し、他の野菜に
なじみ始めています。このトマトが完全に崩れたらワインを加えよう。私はまたそっ
と蓋をして、更に火を弱め、椅子に戻ると、鞄の中から1通の葉書を取り出しました。

 それは、あの高水三山のハイキングから帰って2週間くらい経ったある日、私の店
に送られてきたものです。そこには明らかに若い女性の文字で次のような内容の文章
が綴られていました。一応私信ですので、要約して書いてみます。

××××××様 ←(私の店の名前)

 突然お便りをいたします。私は11月1日に高水三山でパンを頂いたグループのひ
とりです。あのフルーツケーキを受け取った女の子です。ありがとうございました。
フルーツケーキは翌日会社に持って行き、山に行ったみんなでおいしく頂きました。
今度お店にも買いにいきますね。どうやって行けばいいのでしょう。
 山へはよくみなさんでいらっしゃるんですか?ニッカズボンをはいたりしていて、
ずいぶん山慣れたベテランっていう感じでしたけど……。
 私達は職場の山好きな人たちが集まった仲間です。よく近くの山に出かけています。

       東京都○○区○○ ○ー○ー○

              ○○ ○○

 注釈は不用かとは思いますが、一応しておきますと、この文面に出てくるニッカズ
ボンをはいている人物は私です。もちろん靴は革の登山靴でしたから、彼女が山慣れ
たベテランと見たのは私のことのようです。私以外の他の仲間は、地下たびを履いて
日本手ぬぐいで鉢巻をしている野良仕事帰り風の人とか、町靴を履き町で着るジャン
パーを引っかけた人とか、六本木で朝まで飲んでいたという派手な格好の人ばかりで
したから、一見して山ヤさんと解るのは私だけだったと思い……(いかん、このまま
続けると、またいつも通り「ナルシスト的文章」に走ってしまう。今回は「私はスト
イック」に光を当てようと思っているのだ。文体を戻そう)

 私は冷蔵庫から白ワインを取りだしふつふつと煮立っているソースに加えてかき混
ぜました。炒めた玉ねぎや人参はもうそれとは分からない程とろとろになっています。
 さあ、あとは煮込むだけです。

 ところで、この葉書が店に配達されたのは営業時間内でしたから、そこには何人も
の従業員が働いていました。専用の郵便受けはありませんので、郵便屋さんはポンと
郵便物を店のカウンターの上に放り投げていきます。私の店は住まいと別になってい
ますので、店に送られてくるものは大抵請求書とか、新製品のご案内とかいったもの
ばかりで、およそ色気はありません。そこへこの丸文字の葉書ですから、店内騒然で
す。店の従業員のほとんどが自分の身の回りにはめくるめくような話しがなくなって
しまったパートのおばさんばかりですから、このようなスチュエーションに飢えてい
ます。そのうちのひとりがなんとこの葉書を取り上げて、朗読してしまったのです。
朗読ですよ、朗読。
 ああ、何故に私のようにひたすら目だたず、はしゃがずをモットーにおとなしく生
きてきたイタイケな人間を辱めるような暴挙に出たのでしょう。しかし私の女性心理
分析機能には自分自身でプロテクターを取り付けていまして、ある一定以上の年齢の
女性の心理は解読出来ないように設定してありますので、この場合のこのおばさんが
いったいどんな気持ちであったのかは不明です。げに恐ろしきは女性の……よそう。

 パン屋の作業場全体がワインの煮立つ芳醇なる香りに包まれ、むせかえるようです。
でも、まだアルコールの臭いがきつすぎる。もう少し煮なければだめでしょう。

 さて、私はこの手紙をもらって「キョウビの若者もなかなか捨てたもんじゃないな」
という感慨を抱きました。パンやケーキをあげたと言ってもわずかですし、旅先の出
来事です。向こうも名乗った訳ではありませんから「ラッキー!得しちゃった」で終
わりにしてもよかった訳でしょう。それをけなげにも葉書とはいえ礼状をしたためて
くるとは、可愛いじゃありませんか。

 私は礼状に対する礼状を書こうと堅く決意したのです。ところが、ここで私のスト
イックが邪魔をしました。先方は見るからに若い未婚の女性、一方こちらは妻帯者。
あの高水三山での出合とこの葉書の内容を総合的に判断すると、この羽衣姫は私との
出合に運命的なものを感じコンタクトを求めてきているのではないか。それ程までに
私の印象が強烈であったのでしょう。はっはは。しかし、私がそれに応じた場合、こ
れから結婚をして幸せな家庭生活を築き上げていくべき一人の女性の未来に大きな影
響を与えはしまいか。影響も良いものであればよいが、私のように世の中を斜に見て
いるようなすねたオジサンには関わらないほうが良いのではないか。いや、逆に私に
男性の理想を発見してしまったらどうしよう。神は異能者に対し試練を与えるという
が、ああ、悩む。同世代の未婚の男性と時を共にし、春の芽吹き、夏の太陽、秋の紅
葉、冬の星空に心を動かし、夜明けの山頂で肩を寄せ合い、真っ赤な夕日に明日を誓
ったほうが幸せなのだ。私は退こう。ストイックに生きるというのは辛いものなのだ。
礼状の礼状などというものは私の過去の慣例にはない。

 しかし、私はこの手紙の中に「?」マークがあることに気づいたのです。質問です。
その上、住所と名前までちゃんと書いてあるじゃありませんか。この真摯な姿勢に応
えないというのは人の道にはずれます。どんな場合にも人道的な見地というものは必
要で、超法規的措置は慣例に優先されて然るべきです。つまり、私は礼状の礼状を書
いたわけです。
 どうやらトマトソースは出来上がったようです。私は蓋を開けて見ました。先ほど
ワインを入れた時に比べ、その量は半分ほどになっています。そして全体がどろっと
した状態です。今回の出来はすばらしい。私は今までに何度もこのソースを作ってい
ますが、こんなに丁寧に作ったことはありません。このソースはスペイン料理の煮込
みには欠かせないもので、色々な応用が利きます。明日はこれを持って行ってアンダ
ルシア風目玉焼きをお昼に作る計画です。もちろん、あの思い出のトーストも焼く予
定です。羽衣姫はまたあの笑顔を見せてくれるだろうか。






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