AWC 『秋本さすペンス劇場 最終話』(花をさす少女)89・7・23


        
#1705/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (TEJ     )  89/ 7/23  14: 1  (114)
『秋本さすペンス劇場 最終話』(花をさす少女)89・7・23
★内容
 百段もあろうかと思われるその石段の途中で足をとめ振り返ると、眼下には
まぎれもなく先程までわたしが歩いていたに相違ない、あの潮臭い空気を囲っ
ていたかのような入江の中の小さな港町の姿があった。
 そこから約一時間あまり、山の木立の緑の下を登ってきたわたしにとって、
その思いもかけぬ海の碧さは、ちょっとした衝撃となって、わたしを叩いた。
それは狭い石段の上に立つわたしの上体を、一瞬危険なアンバランスの中に落
としこむことにもなり、わたしはよろけるようにその場に座りこんでしまった
のだった。
 時おり、石段を吹き下りて来る山からの風が、しゃがみ込んだわたしの身体
を通過してその碧い海へと飛び込んでいく。考えることは何もない。そこには
ただ、自分が無視されている存在であることから来る、心地よい安らぎの時が
あるだけだった。
 どれくらいの時間たったのか。わたしは石段を登ってくる規則的な足音で、
我に返ることになる。女の子であった。
 彼女が学校帰りであることを、その制服姿と手に持った学生カバンとが教え
てくれた。彼女にはわたしが此処にいることがわかっているに違いない。だか
らことさらに視線を沈め、自分の足元だけを意識して登って来ている。石段の
上から彼女を見下ろしているわたしの、これは胸の内にわいて来たひとつの確
信のようなものであった。またそれ故に、わたしの意識も彼女の踏みしめてい
くその石段のひとつひとつを自分の足場として実感しているような、ある意味
の連帯感にも似た緊張を覚えて身を硬くするはめに陥ってしまった。
 彼女はさらに近づいて来た。長い髪を束ねている、光に映えるその幅広のリ
ボンの色が淡い紫色であることなど・・
 彼女の足が止まる。わたしの座っている石段のほんの四、五段下。彼女の顔
があがった。
「こんにちは」彼女が云った。
 透きとおる声であった。わたしはその思いもかけぬ彼女からの挨拶に戸惑い、
立ち上がろうとして、しかしそれだとかえって彼女との上下の位置関係から失
礼になりはしないかと、それで立ち上がるのを止め、つまりは中途半端な中腰
の姿勢のまま、しかも自分でもそれと分かるようなうわずった声で挨拶を返す
結果になってしまった。彼女の目が笑った。やがて彼女は軽く会釈をし、わた
しの横を通り過ぎていった。
 見事だと思った。しかし、わたしがそう思えるようになったのは彼女の足音
を背中に感じなくなってしまったようやくの頃で、彼女の姿は無論、わたしの
視界からは消えていた。彼女が別に驚いたような表情をしなかったことから、
わたしが此処に居たことは、やはり分かっていたようだった。それにしても爽
やかな、まさしく風のような少女との出会いであった。
 ややあって、わたしも彼女の後を追うことにした。この石段を登りきった先
に曹洞宗の田舎寺がある。名前は忘れたが学生時代、旅の途中に一夜の宿を拝
借したことがあった。随分と昔の話ではある。考えてみると、あの石段で出会
った少女はこの寺の子なのであろう。あの日の夜、本堂で話をしていた住職と
わたしのところに、お茶を持ってきてくれた若い女性がいた。彼女の姿を見か
けたのはそれきりで、確か話を交わしたことはなかったように記憶している。
しかし、その住職の日焼けした真っ黒の顔と野太い声とは対照的な、その女性
のしっとりと落ち着いた挙措のひとつひとつが、わたしの数ある旅の思い出の
中にあって、この辺鄙な田舎寺のことを強く印象づけてくれていることだけは
事実であった。少女の顔にはどこかで見たような面影があった。積み重なった
時のことを考えてみると、あの少女は、つまりは、とてもあの住職の娘には思
えなかったあの夜の女性の娘だということになる。
 石段を登り、椎の木や野草に囲まれた、人ひとり通るのがやっとの狭い道を
幾度か曲がって進んでいく。この辺りになると海の気配すらない。足元に敷き
詰められた自然石の隙間を山の水が細く流れたり、高きにあってその姿を見る
ことはできないが、甲高いヒガラの鳴き声などが聞こえてきたりもする。
 息が少し荒くなりかけた頃、ようやく鳥居の前まで辿り着くことができた。
全体に剥げて色褪せたその丸木の鳥居の下をくぐる。そこから先は寺の境内で
あった。
 わたしの足が止まった。本堂の回り縁の角のところに置いてある御みくじの
販売機。その向かいの切り崩した山壁に面して建てられた汲み上げ式の井戸。
渡り廊下の先の鐘つき堂。突如として甦った記憶のために。同じだ。あの日と
全く同じ情景。何も変わっていない。感動するのが恥ずかしいくらいのあけっ
ぴろげの感動がわたしを襲った。忘れ去っていた筈のたった一日の過去の記憶
が、鮮明な現実としてなんなく再現されたことへの畏怖の念。過去とは現在か
ら乖離した時の概念の規定ではなく、現在と並列に積み重ねられている空間の
一部分的存在であるのではないかとの恣意的な想念が瞬間、脳裏をよぎった。

 本堂から読経の声が漏れてきた。あの少女の声のように思われた。わたしは
歩き出した。腰のあたりまであるその本堂の縁に上がるために、しつらえてあ
る踏み石を使った。靴を放り投げるようにして脱ぐと、ためらうことなく歩み
寄り、目の前の障子の一枚に手をかけた。
 彼女であった。先程の制服姿のまま、本尊を前にしている。読経がやむ。わ
たしは近づいていった。歩を進める度に畳の鳴く音がする。彼女が振り向く。
その胸前に淡紫色の花のついた一本の枝を抱いていた。
「それは」わたしは訊いた。
「この山に咲いているアジサイの花です」
 彼女は本尊を背にするように座り直した。わたしも座り、わたし達二人はこ
の花を間に、差し向かう形になった。彼女の視線はそのアジサイに向けられて
いる。
「このアジサイには実がなります」彼女は呟くように云った。
 わたしには全てが分かった。何故わたしがこの地をふたたび訪れることにな
ったのか。彼女は一体誰なのか……すなわち、このアジサイの花がわたしを呼
び寄せたということ。この花の子が彼女であるということ。
「名前は何と云います」
「御住持さまが小夜子と名づけて下さいました」
「小さい夜の子ですか」
「はい」
「幾つになりますか」
「十五になりました」
「十五年たちますか」
「はい」
「お母さんは」
「わたしを生んだ年に。それから御住持様はこの春に」
「じゃあ、あなた一人で」
「お父様が訪ねて来られるのを待っていました」
「知らなかったんです。何も」
「はい」
「顔を上げて、よく見せてくれませんか」
「はい」
「たしかに似ていますね、わたしに」
「はい……少しだけ」
「少しだけですか」
 わたしは顔を上げ、本堂の隅々にまで鳴り響くような大きな笑い声をあげた。
小夜子も笑った。本堂に風が舞った。その風に小夜子のすずやかな声が乗り、
やがてその風は消えていった。
 深々とした山の静寂が戻って来た。わたしは上げていた顔をゆっくりと下ろ
した。小夜子の姿はなかった。
 畳の上にアジサイの花がさしてあった。まるで、はじめからこの場処に咲い
ているような、そんな小さな一本の淡紫色の花であった。
***
***
 パソコン通信ドラマ『秋本さすペンス劇場』最終話(花をさす少女)いかが
でしたでしょうか。なお、今回をもちまして『秋本さすペンス劇場』は無事、
終了いたすことになりました。ありがとうございました。

              貧乏寺の鐘の音は陰にこもらず……カーン!




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