AWC 大型女性小説  「翼あるもの」          ゐんば


        
#1683/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (GVB     )  89/ 7/15   2: 9  ( 76)
大型女性小説  「翼あるもの」          ゐんば
★内容

 ひとりで暮らしたことのない女だった。
 結婚する前の手児奈の後ろには、いつも家族がいた。特別仲の良い家族という
わけではなかったが、ひとりで部屋にいても母の鼻歌や妹の笑い声が聞こえてき
た。
 いま手児奈の部屋で聞こえるのは、ブラウン管に映る女優の声だけである。
 夫の喜三郎は勤めが忙しく、いつも十一時を過ぎないと帰ってこない。彼女は
もっぱらその間学生時代の友人に電話をかけるかテレビを見て過ごす。今日の二
時間サスペンスドラマはいつも犯人役ばかりやっている俳優がやはり犯人だった。
しばらくはニュースに切り替えたり歌番組に変えたりしていたが、何もそうまで
してテレビを見なければならない理由はないなと思ってスイッチを切った。
 気がつくと鼻歌を歌っていた。やはり音の無い空間に耐えられないんだなと思
うとなんだかおかしかった。
(なんかお母さんに似てきたな)
 手児奈と妹がとついでから、母はどこか気が抜けたようだった。この二十五年。
思えば娘たちのために生きていたような母だった。
「ただいま」
 夫の喜三郎は帰ってくるなり冷蔵庫をあけてビールを取り出した。テレビのチャ
ンネルをプロ野球ニュースに合わせ、柿の種をつまみに一杯やりだした。
 手児奈は無意識に灰皿を差し出すと、なんとなく話しかけた。
「ねえ」
「ん」
「あたしね、勤めようかと思うの」
「なんで?別に今の稼ぎで十分じゃないか」
「そうじゃないの。ただね、こうやってずっと家にいると何となくね。あたしも
このままこの部屋で年をとるのかなって思うと……あたし、平凡な主婦なんてい
やなのよ」
 喜三郎の返事はない。反応をうかがおうと手児奈は顔をのぞき込んだ。うつむ
いた喜三郎の表情はよくわからなかったが、ゆっくりと上げた顔を見て手児奈は
とまどった。喜三郎の頬には涙がつたっていた。
「手児奈」
「はい」
「よく決心した」
「はあ」
「その言葉を待っていたんだ」
「え?」
 喜三郎はすっくと立ち上がった。
「相撲取りは横綱を目指し、政治家は首相を目指し、かっぱらいは銀行強盗を目
指す。向上心を失った人間なんて紅しょうがのない焼きそばとおんなじだ。手児
奈、平凡な主婦なんてもうおさらばだ。お前は今日から、非凡な主婦を目指すん
だ!」
 翌日から特訓が始まった。
「非凡な主婦はうずら豆を煮るのが巧みでなければならない」
 喜三郎の言葉通り、手児奈は来る日も来る日もうずら豆を煮続けた。勤めから
帰った喜三郎はうずら豆の味見をする。そして黙って首を横に振る。そして三ヶ
月たったある日、手児奈の煮たうずら豆を食べた喜三郎はにっこり笑って首を縦
に振った。
「合格だ」
 あくる日喜三郎は手児奈にシャツを差し出した。
「非凡な主婦は醤油のシミを取るのが巧みでなければならない」
 その日からシャツと戦う毎日が始まった。喜三郎は毎日醤油のシミをつけて帰っ
てくる。手児奈はそれを洗い落とす。最初は完全には落ちなかったシミも、徐々
に薄い色になっていった。そして三ヶ月たったある日、手児奈の差しだしたシャ
ツを見た喜三郎はにっこり笑って首を縦に振った。
「完璧だ」
 やがて十年の月日がたっただろうか、二人は久しぶりの休日に近所を散歩して
いた。
「もう俺が教えることもなくなったな」
 喜三郎はそう言って手児奈にほほえみかけた。が、手児奈の目は笑っていなかっ
た。
「ちょっと……話したいことがあるの」
 そういう手児奈はいつになく真剣な表情である。
「あたしね。アメリカに行こうと思うの」
「アメリカ?」
「ロスアンゼルスのヤサブロー博士って知っているでしょ。あの世界的な主婦養
成の権威。その方があたしの才能を高く評価してくれて、アメリカに留学しない
かって誘われてるの」
「ヤサブロー博士が……」
「うん。あたしは……その、あなたはどう思う」
 喜三郎は空を見上げた。
「手児奈」
 喜三郎が答えるまでそうはかからなかった。
「上に上がりたいって気持ちを大切にしろよ」
 もう日も暮れかかっている。二人は手をつないで家路を急いだ。

                             [完]




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