#1662/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (PKJ ) 89/ 6/26 8:37 (101)
お題>聞いて極楽見て地獄 バベッティ
★内容
一八四六年、ロシアのペテルブルグ。初夏である。じめじめとした冷たい
空気もようやく去り、町の木々は少しずつ新芽を吹き出していた。ゆるやか
に流れるネヴァ河のほとりでは、可愛らしい子供たちが、快活に遊びたわむ
れている。その、ネヴァ河の上にかかる大きな橋の上に、ひとりの青年が、
力なく欄干によりかかって立っていた。彼はぼんやりと河の流れを眺めては、
数分ごとに嘆息した。何か悩んでいる様子である。そうして、小さな声で、
こんな事をつぶやいた。
「やはり、やってしまおうか」少し顔をしかめて、「ああ! 俺は何という
大きな事を考えているのだ。しかし、びくびくする事はない。すべては、俺
の手の中に握られている」
彼は再び嘆息し、やがて欄干から離れて歩き始めた。すると、突然後ろか
ら、誰かが声をかけてきた。
「ちょっと待ちなさい」
振り向いて見ると、一人の巡査が、いぶかしげな表情で立っていた。青年
はそれを認めた途端、一瞬驚いた顔をして、その場から逃げ出しそうになっ
た。けれども、何とかその衝動を抑えて、無理に平静を装い、まじまじと巡
査の顔を見やった。
「何です。僕が、どうかしましたか」
「さきほどからずっとそこの欄干の所に立って、何をしていたんです」
「いや別に。ただ、考え事をしていただけで……」事実そうだったのだ。
「考え事ですか。まあいい。しかし、一応、名前は聞いておきましょう」
「キーテです。キーテ・ゴクラクヴィチ・ゴクラーモフです」
「変わったお名前ですな。ゴクラクヴィチか……。いいです、行って下さ
い」
巡査が去って、キーテはゆっくりと歩き出した。彼は心の中で叫んだ。
《ちっ! 危ない所だった! 理性が働かなかったら、あのまま逃げ出す所
だった。もう少し落ち着かなけりゃ……》
K通りを過ぎて、センナヤ広場に出た。広場の外周にはおびただしい数の
露店や屋台が設置され、かなりの人ごみで賑わっていた。キーテは歩きなが
らポケットを探って、わずかばかりの貨幣を取り出した。全部合わせても、
四コペイカにしかならなかった。彼はしばらく考え、やはり何も買わない事
にして、そのまま広場を通り過ぎた。
やがて、ペトロフスキー島にたどり着いた。ここには、キーテの友人であ
るミーテ・ジゴクーヴィチ・ジゴクーモフが住んでいる。キーテは少し歩調
を早めて、ミーテの住居へと向かった。《うむ……ミーテには前に計画を話
してあるから、後は同意を得るだけだ》
いくつかの十字路を通って、彼は或る小さな古ぼけた下宿屋の前に足を止
め、しばらく様子をうかがってから、建物の中に入った。階段をひとつ上が
って、一番奥のドアを軽く叩く。しばらくして、威勢のいい返事が返って来
た。
「どうぞ! 開いてます」ミーテだ。
キーテはドアを引き開けて、部屋の中を見回した。狭い部屋の中央に、ミ
ーテが椅子に座ってこちらを見ていた。ミーテはキーテを見ても別段驚きも
せず、ただ、にやにや笑って、こう言った。
「やあ。今日あたり来るんじゃないかと思ってたよ。まずドアをしめて、椅
子にかけたらどうだい。ほら、この椅子に」
ミーテが傍にあった薄汚い揺椅子を引き寄せたので、キーテはそれに座っ
た。そうして、少し落ち着いたらしく、「ウォトカを一杯くれないか」と言
った。ミーテは当惑した様子で両手を広げ、
「今はちょうど切らしているんだ。と言うより、買う金がないのさ。全く、
困ったもんだ。ここ一週間、夕食はずっとピローグだよ。病気になりそうだ」
「それにしては元気そうだな。ところで、例の計画だが、どう思うね」
「ああ、あの話か。うん、もう一度、ゆっくり検討して見ようじゃないか。
ええと、まずどこかで斧を用意して、外套の下に隠し、それから金貸しの老
婆の家に押し入って、老婆を殺して、金を奪う。そんなところだったな」
「うむ。そうだ。あの婆さんはひとり暮らしだから、殺してしまえば発覚す
る恐れはない。問題はない筈だ」
「しかし、どうもどこかで聞いた様な筋書きだなあ」
「何をごちゃごちゃ言ってるんだ。それより、早速、老婆殺し、やらないか。
実は斧も持って来た。ほら」そう言ってキーテが外套のボタンを外すと、中
で鋭いものがきらりと光った。
「おお。用意がいいじゃないか。では、これから出かけるか」
「うむ」
二人は立ち上がり、重々しい足取りで部屋を出た。再びセンナヤ広場を抜
け、K通りを過ぎ、ネヴァ河を渡って、彼等はひとつの古い二階建てのアパ
ートの前に来た。人通りはほとんど無い。辺りは段々薄暗くなり始めている。
絶好の機会である。
「よし、ここだ。準備はいいな。二階の婆さんの部屋まで上がったら、まず
呼鈴を押し、婆さんが出て来たら、借金に来た様なふりをして、相手を油断
させ、中に入れて貰う。後は、この斧で……」ミーテは興奮していた。
彼等は互いにうなずき合い、小走りに階段を上った。二階の通路を少し行
き、目的の部屋の前で立ち止まる。ミーテが震える指で呼鈴を押す。ややあ
って、部屋の中から返事らしき声が聞こえ、続いてドアが開かれた……
「いらっしゃいませえ。何にいたしますか」出て来たのは老婆ではなかっ
た。二十歳くらいの赤い服を着た女であった。よく見れば、ドアのすぐ向こ
うはカウンターになっていて、その上にレジスターや、様々な種類のハンバ
ーガーの写真が印刷してあるシートの様なもの等が、美しく並べられていた。
「これは――」キーテとミーテは呆然としてつぶやいた。しかし、いつまで
もぼんやりとつっ立っているわけにもいかず、キーテは、小さな声で言った。
「この、テリ、テリヤキバーガーですか、二つ」
「セットでよろしいですね。お飲み物は何にいたしますか」
「コーラ。コーラでいいだろ」キーテはミーテの方を振り返って言った。ミ
ーテが口を開けたままうなずく。
「わかりました。少々お待ち下さい」女は奥へ入っていった。
二人はしばらく黙っていた。しかし、ミーテが堪えられず、ついに沈黙を
破った。
「一体どういう事なんだ。金貸しではなかったのか。テリヤ何とかというの
は何の事だ。あの女は誰だ」
「うむ……」キーテが言いにくそうに答えた。「どうやら、これはペレスト
ロイカの影響らしい。ここには、新しくファースト・フードの店が入ったん
だな。一度そんな噂を聞いた事があるんだが……。まさか本当だとは思わな
かった。テリヤキバーガーというのは、日本式のソースを……」
「ああ! そんな細かい事はどうでもいい。さっきの女は店員か。しかし、
ペレストロイカというのが、よく判らない。時代的におかしいじゃないか。
畜生、こうなったら、この店でアルバイトをしよう! 雇ってくれる筈だ!」
「論理的にどういう脈絡なのかよくわからないが、いい考えだ。ちょうど店
員が戻って来たから、交渉してみよう」
二人は店員に申し出て、店長に会い、試験を受けて採用された。翌日から、
しばらく忙しい日々が続いた。最もよく売れるのはカツレツバーガーだった。
そうして、一カ月程は何も起こらなかったのである。一カ月後の或る日、突
然ふたりは倒れ、そのまま息を引き取った。死因は過労であったという。