AWC alive(15)      佐藤水美


        
#324/1160 ●連載
★タイトル (pot     )  04/08/03  00:40  (240)
alive(15)      佐藤水美
★内容
          15

 僕は伯父からの電話で、瞬の入院を知った。伯父は学校と伯母からの連絡を受け
て、職場から病院に直行したらしい。
 話を聞き終えて受話器を置いた途端、僕はその場にへなへなと座り込んだ。
 薬で嘔吐を止めている、精密検査が必要……。
 伯父の台詞が、パズルのキーワードみたいに頭の中を回っている。心配しすぎな
いようにと言われたけれど、それは無理な話だった。
 5月の中旬に体調を崩したとき、何か重大な見落としがあったのではないか。仲
がギクシャクしているとはいえ、僕は伯父夫婦よりも瞬の近くにいる。異変が起き
ていたとしたら、真っ先に気づかねばならないのに、自分が傷つくことだけを怖れ、
内にこもって足元ばかり見つめていた。
 瞬と話をするべきだったんだ。
 何を言われたとしても、怖れずに……。
 僕は後ろの壁にもたれかかり、後悔のため息を吐いた。たとえわずかな時間でも、
お互いに顔を合わせて話をすることさえできていれば、違う結果が出たと思う。倒
れる前に、病院へ連れて行くのも可能だったのではないだろうか。
 大丈夫かな、瞬……。
 病に苦しむ従弟の姿を思い浮かべるだけで、胸の奥が痛くなる。
 うざい、キモイ、何とでも言え。それで君の気が済むのなら。
 僕は膝を胸元に引き寄せて、両腕でしっかりと抱え込んだ。膝頭に顔を埋めた途
端、目の奥が熱くなった。
 If I were a bird,I could fly to you.
 こんなときに英文法の例文を思い出すなんて、我ながらどうかしている。
 だけど、今の気持ちにぴったりじゃないか。
 もし僕が鳥ならば、君の元に飛んで行けるのに。
 そして、この手で抱きしめてキスしたい……。

 倒れてから3週間、夏休みを迎えても、瞬の容態はいっこうに回復しなかった。
相変わらず嘔吐が続き、食事もろくにできない。点滴しながら寝込んでいるのだと
伯父から聞かされたとき、僕は瞬が可哀想で思わず涙ぐんでしまった。
 入院中、当然のことながら瞬は数多くの検査を受けた。胃、膵臓だけではなく肝
臓や脳まで調べたのだが、明らかな異常は発見されず、原因はわからなかった。
 見舞いに行きたい。ほんの数分でいいから顔を見たい。でも、僕のささやかな願
いは全て拒絶された。瞬本人が僕との面会を拒んでいるのだという。
「瞬と何かあったんでしょ?」
「本当は心当たりがあるんじゃないの?」
 看病疲れからくる苛立ちのせいか、伯母は僕と顔を合わせるたびに、半ば詰問口
調で訊いてくるようになった。瞬の病気の原因は僕にあると、頭からきめつけてい
るのだから始末に負えない。伯父が側にいれば、間に入って伯母をなだめてくれる
のだが、ふたりきりのときは、嵐が過ぎ去るまでひたすら耐えるしかなかった。

 8月になると、瞬は自宅に戻ることなく地元の病院に移った。
 一時帰宅すらできないのは、容態がよほど悪いに違いない。それに社会人となっ
た冴子が、「伯母の手伝い」という名目で家に戻ってきたことも、僕の不安に拍車
をかけた。
 恋の終わりを告げられたというのに、寝ても覚めても瞬のことが頭から離れない。
 今頃どうしているのかと思うと、居ても立ってもいられなくなる。
 面会させてもらえないなら、せめて病室内の様子ぐらいは知りたい。諦めの悪い
僕は、すがるような思いで幾度となく訊いてみたけれど、伯父夫婦も冴子も皆そろ
って口が重く、納得できるような答えは返ってこなかった。前の病院にいたときは、
こんなじゃなかったのに……。
 不安が不安を呼び、僕は受験勉強が手につかなくなった。夜はあまりよく眠れず、
体重は例年以上に減った。試しに受けた学力テストも散々な結果に終わって、すっ
かり凹んでいたある日――。
「幹彦くん、ちょっといいかしら?」
 そう言って僕の部屋に現れたのは、冴子だった。病院からひとりで戻ってきたら
しい。
「勉強ばかりだとストレス溜まるわよね。気分転換にドライブしない?」
 スカートの裾をひらひらさせて僕に近づいてくる。甘いコロンの匂いを嗅いでも、
彼女の真意はつかめなかった。
「でも……留守番しないと……」
 逡巡する僕に向けて、冴子が言い放った台詞を今でも覚えている。
「瞬に会わせてあげる。あなたたち、特別な仲なんでしょ?」

 僕は冴子に引きずられるようにして家を出た。
 特別な仲という言葉が、頭の中をぐるぐると回っている。
「さあ、早く乗って」
 冴子は車のドアを開けると、助手席に僕を押し込んだ。直射日光が当たっていた
せいで、車内は焼けつくように暑い。
「うわあ、何これ。エアコンつけなきゃ駄目ね」
 運転席に座ってシートベルトを素早く締める。エンジンをかけるとすぐ、エアコ
ンのスイッチを入れた。吹き出し口からの風は、まだ生温い。
「瞬は今、精神科病棟にいるの」
 冴子は前を向いたまま言い、ハンドルを握ってアクセルを踏んだ。車体がゆっく
りと動き始める。
「……精神科って……その……」
 声が震えてしまう。病院に着いたらきっと、僕は許されざる行為を糾弾されるに
違いない。瞬の病の原因はそれだと、誰もが思うだろう。
 血の気がすうっと引いていくような感じがする。嫌な動悸が始まって、僕は胸に
手を当てた。坂道を下る車体が空っぽの胃袋を揺さぶるせいで、気分が悪い。
「びっくりするのも当然よね。私も初めて聞かされたとき、何も言えなかったから」
 冴子はハンドルを右に切ると、狭い路地に入った。スピードを落として徐行する。
「瞬の病気は、心因性の嘔吐症なんですって」
 聞いたことのない病名だった。心因性とつくのだから、ストレスか何かが原因に
なっているのだろうか。
「身体の状態が今より良くなったら、薬とカウンセリングで治していくっていう話
だったけど……」
 冴子は言葉を切ると、ふいにため息を吐いた。
「かなり……悪い、とか?」
「うーん、良くなったり悪くなったりっていう感じかなあ。おかゆが少し食べられ
る日があったかと思うと、次の日は水を飲んでも吐いちゃったりするのよ。そんな
状態だから、あの子すごく痩せちゃって」
 瞬の辛さを思うと、心臓のあたりが痛くなった。
 いったい、何がその引き金になったのだろう。
 伯母の言うように、僕が原因を作り出してしまったのだろうか。
「お母さんがいろいろ言ったみたいだけど……ごめんね、幹彦くんが悪いわけじゃ
ないのに。疲れてて、ちょっと混乱してただけだと思うの」
「僕は、気にしてないから……」
「私がもっと早く戻ってこれたらよかったんだけど。就職しちゃうと、時間が自由
にならないのよね。学生時代が懐かしいわ」
 幹線道路に出ると、そこはひどい渋滞だった。冴子が車と車の間に割り込んだも
のの、車列は動く気配すらない。僕は、今日が日曜だったことを急に思い出した。
夏休みに入っているため、曜日の感覚が薄れていたのだ。
「相変わらず混んでるわね。何とかならないのかしら」
 ハンドルを軽く叩きながら、苛立たしげに言う。
 瞬には会いたい。でも病院で伯父夫婦と顔を合わせたら、僕は……。
 彼らに理解してもらえるとは思っていない。我が子が同性愛者だと知って、衝撃
を受けない親はほとんどいないはずだ。それに僕自身、恭一が父さんへの想いをか
いま見せたとき、自分を見失うほど激しく拒んでしまった。伯父夫婦も、あのとき
の僕と同じ反応をするに違いない。
 覚悟しなきゃいけないのか。
 僕は下唇を強く噛んだ。まるで死刑台に向かう囚人みたいな気分だ。
「心配しないで。お父さんとお母さん、全然気づいてないから。それから恭一も」
「……えっ?」
「脅かすつもりじゃなかったのよ。でも、ああまで言わないと、幹彦くんは立ち上
がってくれそうになかったから」
 僕のほうを見て、いたずらっぽく笑う。
「瞬はね、口じゃあれこれ言ってるけど、実は幹彦くんに会いたくて仕方ないの。
あら、信じられないって顔つきしてるわね。悪いけど本当よ。あっ、動いた」
 冴子が急いでハンドルを握る。だが車列が動いたのはほんの数メートルで、また
すぐに止まってしまった。
「うたた寝しながら何度も幹彦くんの名前呼ぶから、ほんとは会いたいんじゃない
のって瞬に訊いたのよ。そしたら、あの子泣き出しちゃって……。お母さんは余計
なこと言ったからだって怒ってたけど、私は違うと思ってる」
 瞬の泣き顔が目に浮かぶ。抱きしめてやりたいけど、拒絶されるのも怖い。
 それにしても、冴子はいつ瞬と僕の関係に気づいたのだろう。端から見ても、そ
れとわかるような雰囲気が僕たちの間にあるとすれば、安心などできそうにない。
「冴子さん、ひとつ訊いてもいいかな?」
「いいわよ」
「僕たちのこと……何でわかったの?」
「笑ったからよ」
 車列が再び動き始める。冴子は緩くアクセルを踏んで車体を動かした。
「寝言で幹彦くんを呼んだときにね、瞬が笑ったの。ちょっとの間だったけど、す
ごく幸せそうな顔してた」
 僕は何も言えず、ただ黙ってうつむいた。
「幹彦くんが家に来てから、瞬は明るくなったわ。寂しそうな表情も、おどおどし
たところもなくなった。でも、あのときの顔は……何て言ったらいいかしら、とに
かく誰にでも見せる表情じゃないって思ったの」
 まだ僕のことを想っていてくれるのなら、何故瞬は……。
 いったい何がいけなかったのだろう。瞬と僕の歯車はどこで狂ったのだろう。
 車が静かに止まる。
「気持ち悪いとか、思わなかった?」
 僕は顔を上げ、自嘲めいた笑いを冴子に向けた。
「どうして?」
「どうしてって……やっぱり男同士だし……、嫌ってる人もいるから」
「誰かを好きになるって素晴らしいことよ。男同士だからとか、そんなの関係ない
と思う。言いたい奴には言わせておけばいいじゃない」
 冴子が半ば怒ったように言う。僕は予想外の反応にとまどい、言葉を失った。彼
女は僕たちの関係を肯定してくれたのだろうけれど、何故かそれを素直に喜ぶ気持
ちにはなれなかった。
「幹彦くん、瞬を助けて欲しいの。このままじゃあの子、トンネルの中から抜け出
せないわ」
 冴子はすがるように言い、またアクセルを踏んだ。ゆっくりとではあるが、車列
が動き始める。
 おそらく冴子は、僕に昔のようなマジックを使って欲しいのだ。でも僕たちの関
係は、あの頃とは決定的に違ってしまった。
「あなたしかいないのよ、瞬の心の中に入れるのは」
 車の流れが次第によくなっていく。冴子はアクセルをさらに踏み込んだ。
 瞬の心の中。つい最近まで、完璧に理解していると自負していたが、今は濃い霧
に包まれて、何が何だかわからなくなっている。
 瞬の悩みや苦しみを軽くするためなら、何でもしてやりたい。この気持ちに偽り
はないけれど、瞬は僕を受け入れてくれるだろうか。
 車は幹線道路に沿って直進を続け、交差点を左折した。緩やかだけれど、曲がり
くねった坂道を上っていく。
「ねえ、幹彦くん……」
「話してみるよ」
 僕はフロントガラスに目を向けた。アスファルトの道も左右に建つ家々も、強い
日差しにあぶられている。
「僕だって、瞬が今何を思っているか……知りたいんだ」
「どういうこと? 瞬と喧嘩したとか?」
 冴子が釈然としない様子で疑問を口にする。僕なら、瞬の全てを把握していると
考えていたのだろう。
「違うよ、喧嘩じゃない」
 僕は首を横に振り、小さくため息を吐いた。
「気がついたら……こうなってたんだ」

 瞬の病院は、坂道を上りきった場所にあった。塗装を終えたばかりのような白い
外壁が、日光を反射して輝いて見える。僕は冴子の後に続いてその内部に入った。
 受付と外来は日曜らしくシャッターが下りているが、待合用に並べられたソファ
ーには、患者や見舞客とおぼしき人たちが何組も腰掛けていた。談話室にでもいる
ように、皆おしゃべりに夢中で、ちょっと効きすぎの冷房も気にならないらしい。
「こっちよ」
 冴子がエレベーターの前で手招きした。タイミングよくドアが開く。誰も乗って
いない小箱にふたりだけで乗り込んだ。
「瞬の病室は3階の315号室よ。個室だから、ゆっくり話せると思うわ」
 冴子が3のボタンを押すと、数字が緑色に変わった。
 やっと瞬に会えると、手放しで喜ぶわけにはいかなかった。これまでの経緯を思
い浮かべてみると楽観はできないし、特に伯母は嫌な顔をするに決まっている。
「お母さんやお父さんには、私からうまく言っとく。幹彦くんは、瞬のことだけを
考えてて」
「冴子さん……」
「秘密は絶対に守るから安心して。ほら、着いたわよ」

 リノリウムの床と白っぽい壁。
 家を焼け出され、両親を失った僕が一時入院していたところも、こんな内装だっ
た。全く違う場所だとわかっているのに、昔の記憶が頭痛みたいに蘇ってくる。
 少し前を歩く冴子が何も気づいていないのを幸いに、僕は歩きながら、両手でこ
めかみを軽く揉んだ。動悸は治まらないし、胃のあたりも変な感じがする。全身が
ストレスの塊になったようなものだ。
「あら、恭一。来てたの」
 冴子が足を止めたのは、革張りのソファーと小さな丸テーブルが置かれたコーナ
ーだった。あの恭一が、ここは自分専用の場所だとでもいうように、ふんぞり返っ
て座っている。
「来てたの、はないだろ? 俺だって忙しいのに、時間作って来てやったんだから」
 右手の人差し指と中指の間に挟まれたタバコが、苛立たしげにヒクヒクと動く。
僕の存在をまるっきり無視してくれてたのが、かえってありがたかった。
「瞬には会った?」
「ああ。でもあいつ、俺の顔を見た途端に吐きやがって。ムカつくよ、全く」
「しょうがないじゃない、病気なんだから。あなたが昔、瞬に何をしたかよく考え
てみたら?」
 厳しい口調だった。恭一が瞬をいじめていたことを、冴子は知っていたのだ。僕
は驚いて従姉を見た。
「ハイハイ、わかってますよ。それよりさ、これ吸えるところ知らない?」
 恭一は人を小馬鹿にしたようなニヤニヤ笑いを浮かべ、右手を僕たちのほうに突
き出した。
「1階に喫煙コーナーがあるわ。早く行って」
 冴子が吐き捨てるように言う。恭一はソファーに置かれたライターとタバコの小
箱を拾って、のっそりと立ち上がった。ズボンのポケットにそれらを押し込みなが
ら、相変わらずの威張った歩き方で、こちらに近づいてくる。
 僕の中に恭一への恐怖心はないけれど、嫌悪感ならたっぷりある。今の冴子との
会話を聞いて、その感情はますます強くなった。自然と表情が険しくなり、上背の
ある大柄な男を睨みつける。
 僕と目が合っても、恭一の表情に変化はない。すれ違おうとしたその刹那、従兄
は僕の肩に左手を置いて耳元に唇を寄せた。
「瞬が待ってる」
 低いささやきに刺激され、弱気な心が奮い立つ。
「恭一! 言いたいことがあるなら、私に直接言いなさいよ!」
 冴子がとうとう声を荒げる。だが恭一はさっきの薄笑いを浮かべて、タバコを口
にくわえた。何も言わず、僕たちに背を向けて悠然と去っていく。
「何なのよ、あの態度は! ごめんね、幹彦くん。嫌な思いばかりさせて」
「そんなことはないよ」
 僕は首を横に振った。
 早く瞬に会いたい。
「冴子さんも、もう謝らないで」
「ほんとに我慢強いのね。私ならとっくに爆発してるわ」
 冴子が小首を傾げて、ため息混じりに呟く。
「それじゃ、気を取り直して行きましょう。あの角を曲がってすぐの部屋よ」

                      to be continued





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