AWC alive(14)      佐藤水美


        
#312/1160 ●連載
★タイトル (pot     )  04/07/12  00:16  (212)
alive(14)      佐藤水美
★内容
          14

 あの12月の嵐の後は、夕凪のように穏やかな日々が続いた。
 北風が南風に変わり、この街で咲いた薄紅色の花が少しずつ散り始めた頃、僕た
ちはそれぞれ進級して新しいスタートを切った。
 卒業を迎えるまで、もう何事もないだろう。
 僕はいつしか、そういう楽観的な見方をするようになっていた。
 卒業式や引っ越しの日が近づいたら、お互いに悲しくなって涙することもあるか
もしれない。だけど、僕が20歳になるまでの辛抱なのだ。その目標さえ忘れなけ
れば、どんなことがあってもきっと乗り越えられるに違いない。
 瞬のためにも、受験勉強を頑張らなくっちゃ。
 僕の胸には新しい希望が芽生えていた。
 
 5月中旬。
 帰宅して玄関のドアを開けると、見慣れた瞬の革靴が転がっているのに気づいた。
よほど慌てていたのか、靴の片方は底を上に向けてひっくり返っている。
 確か、今日は部活のはずなのに……。
 不審に思いつつ家の中に入り、居間へと向かう。
「いてっ!」
 つま先に、いきなり鋭い痛みが走った。顔をしかめて足元を見る。
「何でこんなところにあるんだよ!」
 居間の入り口には、瞬のリュックが放り出されていた。教科書やノートなどが詰
め込まれた、怖ろしく重いやつだ。僕はそれに全く気づかず、つま先で思い切り蹴
り上げてしまったのだ。
「しょうがないなあ、瞬の奴。いてて……」
 リュックを拾い、足を少し引きずりながら階段を上る。いったん自分の部屋に入
って鞄を置き、うんざりするような重さの荷物を肩にかけて廊下に出た。
 つま先がまだジンジンする。文句のひとつも口にしないと気が済まない。僕はふ
くれっ面をして隣のドアを叩いた。
 しかし、返事がない。靴もリュックも瞬のものなのに。すでにどこかへ出かけて
しまったのだろうか。
「瞬、いるの?」
 それを確かめるべく、ノブを握って静かにドアを開ける。
 本棚、学習机、そしてベッドが視界に入ったとき、僕は目を大きく見開いた。ベ
ッドの上には制服姿の瞬が、両腕でお腹を抱えるようにして、身体をくの字に折り
曲げて横たわっている。
「瞬!」
 リュックを床の上に放り出し、急いでベッドに駆け寄った。従弟は真っ青な顔に
苦しげな表情を浮かべ、口を少し開けて肩で息をしている。
「どうしたの? 気分が悪い?」
 僕は腰を屈め、瞬の前髪をかき上げて額に手を当てた。汗をかいているけれど、
妙に冷たい。
「瞬、大丈夫か?」
 再び声をかけ、今度は背中をさすってやる。
「……うん……」
 今にも消え入りそうな声だった。目をぎゅっと閉じると同時に、眉根に深い縦皺
が寄る。僕の顔を見上げる余裕など、全くない様子だ。
「お腹が痛い?」
「……胃が……」
「救急箱から胃薬持ってくるよ。ちょっと待ってな」
「……幹彦」
 瞬は目を開けたかと思うと、ふいに手を伸ばして離れようとする僕の腕をつかん
だ。息づかいがひどく荒い。
「……側に、いて」
「わかった」
 僕は瞬の手を握り、ベッドの縁に腰掛けた。空いているほうの手で改めて背中を
さすってやると、瞬は青ざめた頬に弱々しい笑みを浮かべた。
 お腹の風邪でも引いてしまったのだろうか。さっき額に触れた感じでは、熱いと
いうより冷たかった。発熱するとしたら、これからなのかもしれない。
「あ……、今日……バイト……」
「休むよ」
 何のためらいもなく断言する。もう前のような思いをするのは嫌だった。
「……いいの?」
「もちろん。瞬のほうが大事だからね」
 笑って言うと、瞬は肩を大きく動かして僕の顔を意外そうに見上げた。まばたき
を忘れた両目が、次第に潤んでくる。
「ん? どうした?」
「何でも……ない……」
 瞬は声を震わせて言い、大粒の涙をこぼした。
「痛かったら我慢しなくていいんだよ。胃薬を飲んだほうが、早く楽になる」
「……やだ」
「やだ、じゃないでしょうが。薬と水を持ってすぐに戻ってくるからね」
「嫌だ、行かないで……」
「あのねえ、瞬。5分、いや3分もかからないんだから……」
「嫌だっ!」
 瞬はいきなり大声を出したかと思うと、起き上がって僕に抱きついてきた。慌て
てベッドの縁に片手をつく。あやうく後ろにひっくり返るところだった。
「嫌だよ……嫌だよ……」
 僕の胸に顔を埋め、肩を震わせながら涙声で何度も繰り返す。
「わかったよ、どこにも行かないってば」
 僕は瞬の身体をしっかりと抱いた。
 おかしい、様子が変だ……。
 胃痛に苦しんでいたら、薬を飲んで早く楽になりたいと思うはずだ。でも瞬は、
目の前から僕がいなくなることだけを恐れている。
 納得してくれたんじゃなかったのか?
 忘れかけた不安が、再び頭をもたげてくる。
「……幹彦」
 絞り出すような声にはっとする。
「……俺は、俺は……うっ!」
 瞬はみぞおちの辺りを押さえて、顔を歪めた。急に起き上がったりしたせいだ。
「横になったほうがいい」
 そう言った途端、瞬は突然喉を鳴らし、かすの混じった茶色い液体を僕の膝の上
に吐いた。
「瞬!」
「ご……ごめ……げほっげほっ!」
 瞬が両手で口元を押さえようとした途端、激しい咳と共に、さっきと同じ液体が
大量に吐き出された。従弟の表情は苦痛に歪み、目からは涙が溢れてくる。
「いいよ、どんどん吐いちゃえ。そのほうがすっきりするよ」
 半ば開き直って言い、瞬の背中をさすった。すえた臭いが部屋の中に立ち込めて、
こっちまで胸が悪くなってくる。
 数分後、瞬は胃の中のものを全部吐き出してしまったらしく、激しい嘔吐はよう
やく治まった。汚物は僕のズボンだけではなく、瞬のネクタイや上着、ベッドの掛
け布団、床にまで飛び散っていた。
 バイト先や伯母への電話連絡、汚れ物の後始末、こもった空気の入れ換えと床掃
除、そして瞬の世話。忙しく走り回りながらも、僕はあることを考えていた。
 幹彦、俺は……。
 あのとき、瞬は僕に何を言おうとしたのか。
 でも、今は訊けない。従弟は胃薬を飲んでからまもなく、精根尽き果てたように
眠ってしまった。
 早く元気になれよ。
 青白い寝顔を見つめながら、心密かに祈る。
 僕は全く気づいていなかった。
 この日の出来事が、異変の前兆だったことを。
 
 翌日、瞬は学校を休み、伯母に付き添われて病院に行った。
 診察の結果、下された診断名は急性胃炎。消化の良い物を食べ、処方された薬を
飲んで3、4日安静にしていれば治るだろうとのことだった。胃潰瘍や十二指腸潰
瘍じゃなかったのは、不幸中の幸いだと思う。
 早く顔が見たい。
 僕は瞬の部屋へと急いだ。ドアの前に立ち、軽くノックしてみる。返事はなかっ
たけれど、ノブを回して手前に引いた。
「瞬……」
 小声で従弟の名を呼んだ。瞬は掛け布団にくるまって、眠りに落ちたかのように
目を閉じている。
 静かに歩いてベッドに近寄り、腰を屈めて相手の顔を覗き込む。何だか今朝より
もやつれて見えるのは、気のせいだろうか。
 可哀想に……。
 過去、幾度となくしてきたように頭をなでてやると、瞬は薄く目を開けた。まば
たきを数回繰り返してから、やっとこちらに視線を合わせる。
「僕だよ、瞬」
「……うん」
「気分、どう?」
「……少しは、いいよ」
 瞬はかすれ声で答えると、ため息を吐いて再び目を閉じた。まだ調子が良くない
のだろう。
「幹彦……」
「ん? 何?」
「……あっち行って」
「え?」
「マジでうざい」
 瞬は苛立たしげに言い放つと、寝返りを打って僕に背を向けた。
 うざいって……聞き違いじゃないよね?
 顔面パンチをいきなり食らったような気分、とでも言えばいいのだろうか。僕は
返す言葉もなく、その場に呆然と立ちつくした。
 ふざけんな、もう1回言ってみろ!
 瞬が元気だったら、僕はそう言い返したかもしれない。でも、今は違う。
 気持ちを落ち着かせるように深呼吸をひとつする。
「ごめん……じゃあまた……」
 声が少し震えた。下唇を噛みしめて踵を返し、ドアを開けて廊下に出る。僕はそ
のまま隣の自分の部屋に移り、ベッドの上に身体を投げ出した。
 自然に、深いため息が出てしまう。脱力感と疲労感が同時に襲ってきたかと思う
と、胸のあたりが圧迫されるように重くなった。
 マジでうざい。
 忌まわしい台詞が耳の奥で蘇る。
 瞬にあんなことを言われたのは初めてだった。
 あれは病気が言わせた台詞なんだ。具合が悪くてしゃべりたくなかったのに、話
しかけた僕が……悪い。
 いくら自己説得してみても、心に受けた衝撃は痛みとなって波紋のように広がっ
ていく。僕は胸に片手を当てて、顔をしかめた。
 だけど、ああいう言い方をしなくたっていいじゃないか!
 僕は膝の上に吐かれても怒らなかった。うんざりするような後始末だって、全部
ひとりでやった。感謝されたくて行動したんじゃない。
 昨日瞬が言いかけた言葉の続きを、もはや知りたいとは思わなかった。その正体
を聞き出したところで、何になるというのか。
 僕はベッドから跳ね起きて、部屋を飛び出した。乱暴に閉じたドアが、2階中に
響き渡るような凄まじい音を立てる。
 階段を駆け下り、1階の電話台に向かう。受話器を取ってLマートの番号をダイ
ヤルすると、偶然にもマネージャーが出た。
「じゃあ、今すぐ出てきて」
 契約日ではないけれど、仕事に行きたいという申し出は簡単に許可された。特別
に時給もつけてくれるという。僕は伯母にその旨を早口で伝え、彼女の返事を待た
ずに玄関へと走った。
 自転車にまたがり、いつもの倍のスピードで坂道を下っていく。
 何かしていないと、気が変になりそうだった。

「ひどいこと言って、ごめんなさい」
 あれから数日後、身体の健康を取り戻した瞬は、そう言って僕に頭を下げた。ど
うしてそんな言葉が出たのか知りたい気持ちはあったけれど、本人は反省して謝っ
ているのだから、僕はあえて何も訊かず、従弟を笑って許した。
 しかし――この出来事を機に、僕に対する瞬の態度は大きく変わった。
 まず、口数が極端に少なくなった。以前のように甘ったれて抱きついてきたり、
キスをせがんだりすることもない。最初は、僕の受験勉強のために遠慮していると
思ったのだが――ろくに目を合わせようともせず、こちらから話しかけてもおざな
りな返事をしてくるようになって、ようやく僕自身も瞬の中で何かが決定的に変わ
ったのだと認めざるを得なくなった。
 日曜日になると、朝からさっさと出かけてしまい、帰宅するのは夜になってから。
あれほど僕にまとわりついていたことが、まるで嘘のようだ。楽しそうな長電話が
多くなって、疎外感すら覚えた。
 どうしてそういう態度を取るのか?
 僕を避ける瞬をつかまえて、その真意を問いただしたいと何度思ったことだろう。
 でも、僕は何も訊けなかった。瞬の口から紡ぎ出される言葉がどんなものである
か、これまでの行動を見ていれば何となく想像がつく。そしてそれは、僕が最も恐
れている台詞なのだ。
 僕が20歳になるまで、あと2年半はある。年下の瞬にとって、待つには長すぎ
る年月なのかもしれない。
 ならばどうして、あのとき「3年経ったら迎えに来い」なんて、僕を喜ばせるよ
うな台詞を吐いたのか。今になって生殺しにされるくらいなら、最初からバッサリ
と切り捨てられたほうが遙かにましだった。
 瞬は僕から自立しようとしている。だから、そっとしておこう。
 悩んだ末、ようやく導き出した結論だった。こちらも受験が控えているのだから、
瞬との関係にこだわってばかりはいられない。
 バイトを週1日にして、他の日は図書館で参考書を読み問題集に取り組む。僕は
心を固く閉ざして、瞬と過ごした忘れがたい日々を、大学受験という新しい絵の具
で塗りつぶす努力を始めた。
 ふられたという事実(本当はまだ認めたくない)から目を逸らすには、それより
他に方法がなかったからだ。
 苦しくて辛い日々が果てしなく続くように思われた、7月の初め。
 思わぬことが起きた。
 瞬が学校で嘔吐を繰り返して倒れ、救急車で搬送された先の病院に、そのまま入
院してしまったのだ。

                    to be continued





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