AWC ライン <上>   杠葉純涼


        
#230/1160 ●連載
★タイトル (AZA     )  04/04/02  23:30  (238)
ライン <上>   杠葉純涼
★内容
 乾いていた。空気も大地も、肉体も。
 喉仏がごくりと動いた。
 前に向かって歩いているだけなのに、全力疾走した直後のように、荒れた呼
吸音が男の口を衝いて出てくる。それが止まらない。
 男は歩くのをまたやめ、震える手の甲で額を拭う動作をした。
 汗一つかいていなかった。
 真夏の午後二時。皮膚を焼き焦がしたいかのように降る、きつい陽射し。
 男は二時間以上歩いていた。――正確を期そう。二時間以上その領域にいた。
縦百メートル、横五十メートルの区画の中に。
「飢え死にするつもりかね」
 突然聞こえてきた冷静な調子の声。空気を震えさせ、男の身をも震えさせた。
心臓を鷲掴みにされ、左右にゆっくり揺すられたような気分を嫌でも味わう。
「君はたとえそれでよくても、我々は暇ではない。早く進みたまえ」
 男へ忠告を与えた声に苛立ちはなく、むしろ楽しむような響きを含んでいた。
混じって聞こえてくる他の者のひそひそ話にも、やはり笑いが潜む。
 男は自身の判断で選んだ。この領域を突っ切ることを選んだ。恐らく、男と
同じ立場に置かれたとしたら、人々の多くは彼と同じ選択をするであろう。
 確実な死よりも、生きながらえる可能性がわずかでもある方を選ぶ心理。分
からなくもない。事実、意思決定したときから歩き始める寸前まで、本人は自
分の選択の正しさに満足する。
 だが、足を踏み出した瞬間、身体の中を恐怖が走る。足が竦む。膝が馬鹿に
なる。喉がからからに干上がる。やがて一歩も進めなくなる。
 そして己の選択を後悔し、己の愚かさ加減を心中で、あるいは声に出して罵
るのだが、すでに遅い。後退は許されない。
 男は先に見える一本のラインに目を凝らした。色は赤。距離にして六十メー
トルといったところだ。
 次に背後を振り返る。危険と安全を区切る白のラインまで、約四十メートル。
 左右それぞれ二十五メートル先には、雛壇になった観客席が、領域に平行す
る形で設置されている。そこはいつも通り、満員の盛況だった。彼らが男に対
して歓声や野次を飛ばさないのは、それがショーの時間を縮めかねない行為だ
と理解しているからである。じっくり、楽しみたいのだ。
 今、男の脳裏をよぎったのは、ここまで無事に来られた幸運への感謝か、そ
れとも未だ半分にさえ達しない状況への呪詛か。
 いずれにせよ、あとわずかでも心が折れれば、彼はしゃがみ込むに違いない。
しゃがみ込んだが最後、一歩も動けなくなろう。男自身、そのことを無意識の
内に感じるのか、先程来、立ち止まりはしても腰を落とさずいにた。
「おい。いつまでもぐずぐずするのなら、尻を叩いてやろうか!」
 今度の声は大音響だった。
 びくりとして、再度振り返ると、筒の長い銃を提げて横並びに整然と立つ、
何名かの兵士が見えた。その内の一人だけが銃を水平方向に構えていた。無論、
照準は男の姿を捉えている。撃ったとしても、当てはしない。現段階ではまだ。
 男は前を向いた。背筋を伸ばすと、大きく頭を振り、踵を揃える。頬の肉が
動く。覚悟を高めようと歯を食いしばるのが、傍目からでもよく窺えた。
 それでも、やっとのことで、新たな一歩を恐る恐る踏み出した。
 次の一瞬。
 靴底から伝わる土の感触がこれまでと違う、と理解したときには遅かった。
 白っぽい光が足元から突き抜けてきたような。
 男はもはや後悔する暇もなく、自分の肉体がちぎれていくのを知った。

 馬鹿騒ぎの笑声と間延びした拍手とやたら甲高い口笛が吹き荒れる中、クリ
フ=メロスは、執行が滞りなく行われて、満足げにうなずいた。腕組みをした
まま、口元に笑みを漂わせる。濃いサングラスの奥の目は、冷徹な光を湛えて
いた。
 その傍らに立つペル=ジーモスが、左手に右手を覆い被せるような拍手をし
ながら、つぶやいた。
「見事な散り方だったな」
 そして横にぴんと伸びた鼻髭を、しごく風に撫でる。彼らはともに、沈んだ
色調の紺の制服――軍服を身にまとっていた。
 メロスはジーモスを一瞥し、敢えて異を唱えてみた。
「果たしてそうかな。泣きわめいて中止を請わなかった分、ましだったという
程度ではないかな」
「そりゃ理想を言えば、スタートと同時にダッシュ、あと五十センチで助かる
という地点で地雷を踏んで爆死!だがな。はっ、そんな度胸のある奴はいない」
「それほどまで勇敢な者であれば、愚かしい罪を犯すこともないであろうな」
 メロスはサングラスを外し、今一度、平原へ目をやった。“ショー”の閉幕
を機に、お祭り騒ぎに打ち興じていた観衆どもが、てんでばらばらに帰って行
く。
 その上空、煙と火薬臭が徐々に薄らぐ中、近くの岩山から大型の鳥どもが飛
来し、折り重なるように弧を描き始めていた。
「奴らにとって、人の肉はうまいものなのかねえ?」
「さあな。死体が処理されるのまで見守る義務はない。行くぞ」
 ジーモスの冗談混じりの問いににべもなく応じ、メロスはきびすを返した。
「待ってくれ。ユードリッヒから頼まれてんだ。ばらばらに吹き飛んだ身体が、
色々と役に立つんだとよ」
「あの薮医者めが、何に使うんだか。回収するのはいいが、入る前に起爆切る
のを忘れるな」
「そんな間抜けじゃねえ」
 ジーモスは担当兵の就く机に向かい、命令する。地雷埋設ゾーンの危険を解
除させた。机上の機械のランプが、赤から青になった。
 刑罰を執行するために、わざわざ埋めた物である。便がいいように改良され、
埋設後でも、安全装置の入り切りが可能な作りとなっている。
 元々は、戦争犯罪人を処罰するための、一種の見せしめだった。戦勝国マー
クダドは三桁に達した戦犯らに、敵国自らの手で埋めた地雷の区域を、被爆す
るまで何往復もさせたのだ。一命を取り留めても手当ては受けられず、放置さ
れ、やがて――悪くすると生きたまま――大型猛禽の餌食となる運命。
 戦争終結後何年経っても、この刑罰は残った。危険を冒して地雷の回収を行
うよりも、刑罰に使う方が遥かに有用で効率的という考えが、大手を振ってま
かり通った。ついには敵国の埋めた地雷だけでは足りなくなり、執行者の安全
を確保した上での新たな地雷埋設区域が砂漠に作られ、現在に至る。殺傷力な
らぬ殺人力を増した、踏めばまず間違いなく命を失うという代物が、畑の種蒔
きよろしく、数多く埋められている。公称では一つの地雷領域に百個となって
いるが、正しい値かどうか一般人には知る術がない。
 死刑判決を下された者は、絞首刑による死を大人しく受け入れるか、もしく
は地雷畑の領域を横切るか、二者択一を迫られる。前者は刑の執行まで長くて
半年の猶予があるが、確実な死が待っている。後者は判決確定後数日以内に実
行されるが、地雷を踏まずに百メートルを無事歩ききれば、恩赦を受け、その
後問題を起こさぬ限り、懲役三年で出て来られる。
 当制度が導入されてから長いが、地雷の刑を選んで生き残った者は、実は一
人としていない。その事実を公にすると、死刑囚達の挑戦精神を萎えさせかね
ないため、年に数名の成功者が出ていると発表し、世間にもそれで通っている。
「処理と、見張りを怠るな。手抜かりや落ち度があってはならん。恥と思え」
 直属の部下に命じると、メロスは鍔の固い帽子を目深に被り、場を離れた。
 そして、客人の待つスタンド貴賓席へと足を向けた。

「このような処刑方法を採る国があるとは、驚き、呆れた――」
 メロスは日本からの客人を正面に見据えながら、唄うような調子で言った。
「と、思ってらっしゃるのかな。そういう顔をしている」
「半分だけ当たりです」
 日本人はいい加減な英語で返事をした。そして、理由を付け加えた。
「大変珍しい方法に驚きはしましたが、呆れてはいませんから。それに、よく
知りもしないで、他国の慣習ややり方を非難する気はありません」
「ふむ。ああ、ミスター鬼飛車」
 一昨日、この日本からの思わぬ来訪者と会って以来、名前をできる限り正し
く発音してやろうと、メロスは練習を重ねた。その甲斐は充分あったようだ。
「では、楽しんでもらえたと?」
「ショーとしては、一回限りで結構です。何度も見る内に飽きてしまう……と
は冗談です。正直なところ、自分の趣味に合わない」
「おや」
 鬼飛車のつまらない冗談に、無理をして愛想笑いを返しつつ、メロスはつぶ
やいてみせた。
「昨朝、尋ねたときに、あなたは言ったではありませんでしたかな。残酷な物
が好きだ、血を見るのは何ともない、読むならホラー小説、バンジージャンプ
やジェットコースターの類には恐怖感を覚えなくなった……と。ならばと思い、
私の方で手を回し、このショーにご招待差し上げたんだが、お気に召さなかっ
たようなのは残念の極み」
「すみません」
 後頭部に手をやり、ひょいとお辞儀する鬼飛車。ただ、目は笑っておらず、
むしろ鋭さを帯びた。
「私の喋り方が下手なせいで、誤解を与えてしまったみたいです。えー、どう
言えばいいのかな……。うん、私は、視覚的な恐怖に対して、鈍感らしいので
す」
「視覚的な恐さ、ねえ」
 顎先に手を当て、メロスは分かった風にうなずいた。日本人もやはり首肯し、
話の続きを口にする。
「目に見える物事よりも、字で迫ってくる、つまりは頭の中で際限なく広がる
己の想像力に、一層恐怖する性質なんですかね、多分」
「おお、何となくではあるが、理解できた。ホラー小説と言ったのには、そん
な意味が含まれていた訳だ」
 手の平を上下に重ね合わせ、大きな動作で拍手のポーズを取る。メロスは鬼
飛車の論を理解したが、その考え方には反対だった。見れば信じる、と古来か
ら言うように、所詮人間は、目で見たものを最も重大かつ確実なこととして受
け取る。メロスは意識せずに、そう思っていた。
(……いや、待て)
 彼にしては珍しく、立ち止まって考えを深めてみた。日本人と会って話をす
るという、この国において非常に稀な体験を今まさにしているためかもしれな
いし、全然別の理由が作用したのかもしれない。
(さっきの処刑は、どうだ? 見ている人間にとっては、爆発で肉体が吹き飛
ぶところを見る訳だから、視覚的な恐怖があるとだけ信じ込んでいたが……我
我は恐怖なぞ感じていない。楽しんでいる。あの処刑で恐怖を感じるのは、死
刑囚。考えるまでもない。死刑囚はしかし、視覚的な恐怖を感じてないに違い
ない。自分の肉体が吹き飛ぶところを、見られるはずがない。死刑囚連中は、
地雷を踏んだ結果、己の身に起きる事態を想像し、恐怖を覚えているのだ。こ
れは目で見るよりも、ずっと恐ろしかろう)
 ひょっとすると、眼前の日本人が言いたかったのは、これか。得心したメロ
スは、満足感溢れる笑みをなした。どうってことないのだが、思い込みを払拭
できた気がして、晴れ晴れとする。
「なるほど」
「え? 何が、なるほどですか?」
 メロスの唐突な独り言に、鬼飛車が小首を傾げた。細められた目が、怪訝さ
を訴えている。
「いやいや。こちらのこと。それよりも、食事はどうしますかな。あいにく、
本日これから用事があって、私は同席できんのだが」
「あの。食事よりも、地図を……。いい加減、ここを発ちたいんですよね」
 鬼飛車は申し訳なさを滲ませ、手もみをした。顔つきは真剣である。噂に聞
く日本人のミステリースマイルは、彼の表情にはなかなか見られない。
「世話になりっ放しの上、ただで飯をいただくっていうのは、気が引けます。
しかも三日目となると、なおさらでしてね」
「気にせんでもらいたい。必要ない。あなたは迷い込んだとは言え、大事な客
人ですぞ。国賓と言っても差し支えない」
「一民間人の自分は、そんな大層な扱いを受けるいわれがないんですが」
「そんなに心配されるのなら、私の権限の範囲で、何か位を差し上げましょう
かな。はっはっは」
「ご冗談を」
「いやいや。冗談とも言い切れませんでな。両国間の親善のための特別大使に
就いてもらう手があるな。さすがに私の独断ではできないが、働きかければ、
かなりの確率で大丈夫でしょう。ふっふ」
「真面目にお話ししましょう。身に余る光栄ですけど、ほんと、謹んでお断り
しますよ。柄じゃない」
「仕方ない。あきらめる代わりに、あなたにも出発をしばらく見合わせてもら
いましょう。いかがですかな」
 鬼飛車は不服そうな顔をした。メロスは当然だと感じ、密かに笑った。
 元々なかった条件をメロスが持ち出し、それを譲歩する代わりに滞在を延期
しろと命じた訳だから、不満に思うのも道理である。

 メロスが呼び出しに応じて参じると、椅子にふんぞり返っていた福利厚生大
臣は、背もたれから太り肉を引き剥がした。
「おお、メロス長官。わざわざお越しいただき、感謝の極みです。ささ、ま、
椅子をどうぞ」
「どうも。挨拶は省きまして、いかなる御用でしょう、ホックス大臣」
「民から、不満の声が上がっておるのです」
 ベテランの軍人から転じたドン=ホックスは、決して論理的な段取りで話が
できるタイプではない。弁舌の勢いはあり、その感情に訴える力強い声と頼も
しげな体格のおかげで、人気はあった。が、それも老齢に達し、かげりを見せ
つつあるようだ。
 メロスは座り、静かに待った。こういうとき、さらなる説明を求めるよりも、
ホックスが喋るに任せた方が、結果的に理解しやすく、時間短縮できるのだ。
「もっと面白い物を見せてくれないのかと、要望が届く始末でしてな。民の幸
せと利益を守り、引いては娯楽を提供すべき立場の私としては、この多数の声
に応えねばならん。そこでだ、あなたに意見を求めようと思い立った。刑務長
官として何かありませんかね」
 広い机に、ホックスは両肘を突いて、メロスを見据えてくる。高級木材でで
きた机には、そこかしこに傷があった。
「現在の死刑執行では、その……刺激が足りなくなったということでしょうか」
「私個人としては、今のスタイルはスリルに満ちており、よいと感じておりま
す。だが、民は、大衆は、飽きたのでしょう。命を賭したショーの中でも、斬
新な物を見たがっておる。全く、うつろいやすいものですよ、我が国の衆の心
は」
「ホックス大臣。あなたが私に求めているのは、そういう国民の動向に対する
見解ですか、それとも斬新なショーのアイディアですか」
「言うまでもない、ショーのアイディアがほしい」
「大臣の下には、次官を始め、有能な方がたくさんいらっしゃると記憶してい
ますが、それでもなお私に意見をお求めになるとは、どういうことですかね」
「死刑囚を筆頭に、犯罪者を扱うのはあなたのところじゃないですか。あなた
が決めたことなら、根回しの必要な部署が減り、迅速に実現できる。つまり民
にいち早く提供できる」
 メロスにとっては、どんな方法でも死刑を執行できさえすればいい。だから
さほど関心のある話ではないが、効率的に行えるなら、それに越したことはな
いと思い直す。
 一つの閃きがあった。
「かつて、死刑囚同士をどちらかが死ぬまで戦わせるという案が出され、否決
されたことがありましたね」
「ああ、あれは仕方ないでしょう。勝った方を無罪放免にする条件を付けたの
は、いかにもまずかった。国民の反対は目に見えています。しかしそのくらい
の褒美がなければ、死刑囚連中だって死を賭しての決闘に臨まぬし、勝利に執
着もしまい。結局は成立の見込みのない法案だったということですよ」
「では、多少の改正を施した案を提示しましょう。きっとお気に召すと信じま
す。あとはそちらで決めてくれればいい」
 じらすメロスの思惑通り、ホックスは引っかかった。餌を待ちかねた飼い犬
みたいに、物欲しそうに尋ねてくる。
「その顔は、死刑囚を出さない仕組みを思い付いた?」
「大した案ではありませんよ。死刑囚の内、一人だけ外に出られるかもしれま
せん」
「と言うと?」
「呆れるほど単純な考え方――勝ち抜き戦をさせればいい。トーナメントなら、
なおのこと多数を振り落とせる」
 メロスの案は、一人の拍手でもって迎えられた。

――続く





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