#272/1160 ●連載
★タイトル (tra ) 04/05/09 21:34 (105)
寝床(五) Trash-in
★内容 04/05/09 23:52 修正 第3版
「そっちじゃない、こっちだ」営業部の部屋に戻ろうとして階段に上りかけた吉田に、
宮地が声をかけた。
「どこへ行くんです」
「経理だ。小林に用事があるんだ。お前も来いよ」
「僕もですか?何しに」
「歩きながら説明する」
「このFAXの始末をつけないと」
「ああ、それか。お前もやっかいなものを抱え込んだな。それは俺がどうにかしてや
る」
吉田はFAXの責任を負わなくても済むのが確認できたのに安堵を覚え、宮地について歩
き出した。
「なあ、吉田よ」宮地が肩を組んできた。顔付も少々ニヤけている。「いい話があるん
だが、お前、一口乗らないか」
「いい話?」
「実はな、大きな声では言えないが小さな声では聞き取れないから今までどおりの調子
で喋らせてもらうが、俺達は毎年木俣の義太夫に誰が行くかで賭けをやってるんだ」
「はあ。で、僕に賭けろと」
「いやいや、違う。みんなに賭けてもらうんだ。集まった金のうち20%をとって、残り
を分配する。手元に20%の利益が残るようにオッズを決めて」
「競馬みたいに?」
「なかなか飲み込みが早いねえ。例えて言うなら、木俣の義太夫がGTで、我々がJRA
だ」
「馬は?」
「営業の連中だ」
「宮地さんも僕も、馬じゃないですか」
「お前は、まだここに来てから日が浅いし、俺がもし選ばれたら労働組合が騒ぐ手はず
になっているから大丈夫だ。俺達が選ばれることはない」
「なんか話が大きくなってきましたね。経理の小林さんに用事というのもその件です
か」
「あいつには賭けの収支計算とオッズの計算をしてもらっている。で、お前にもこの事
業を手伝ってもらいたいんだよ。難しいことじゃない、俺があちこちに電話をかけたりF
AXを送ったりするから、誰が何口賭けたのかを集計するのと、賭けが終わってから金の
回収をしてもらいたい。去年回収したのは1,000万円くらいだ。まあ、手元に残るのはそ
のうち20%だけどな」
「しかし、こんなことしていいんですか」
「いいんだ」宮地が即答した。
「僕が言いたいのは、つまり、その、勝手にギャンブルを主催するなんて違法じゃない
かということなんですが。ちょっと規模がでかすぎて目立ちますよ」
「違法は違法だよ。でもそれがどうした。俺達はサラリーマンに夢を与えてるんだ。そ
れに対して利益をとる。何が悪い。考えても見ろよ、哀れだぞサラリーマン人生は。な
んとなくサラリーマンになったら、いつのまにか家のローンと子どもの教育費で二進も
三進もいかなくなってる。第一生命のサラリーマン川柳を読んで独り夜中に枕を濡らす
日々。ああ、切ないねえ。そこで俺達がささやかな夢を与える訳だ。これは社会的に意
義のある事業だぜ」
「確かにそうかもしれませんが・・・困ったなあ。逮捕されたらどうするんです」
「つまらんことにこだわるなよ。俺達には使命がある。平たく言えば神の使徒だ」
「神の使徒って・・・そんな大げさな。聖書なんて読んだことがないんでよくわからな
いんですが、キリストがギャンブルを奨励してるんですか」
「さあ・・・どうかなあ。俺も詳しくは知らないんだよ」宮地は、神の使徒だと言い張
った割には心もとないことを言った。「ただ、奴さん教祖になる前はナザレで大工やっ
てたくらいだから、もともと職人気質だと思うんだよ」
「へえ、そうなんですか」
「確かそうだよ。まあ、職人なんてのはどこの国の職人だって似たようなもんだから、
きっとどんぶり勘定の気っ風のいいやつで、細かいことにはこだわらない、話のわかる
気持ちの良い男だということは容易に想像できる」
「ははあ・・・職人さんならそうかもしれませんね」
「集まってきた貧乏人にパンを大盤振る舞いしたくらいだから、困った人を見ると放っ
ちゃおけない、義理人情に厚い、宵越の銭はもたないというサッパリした気性だったこ
とは間違いなやね」
「なるほど」
「マグダラのマリアとかいう女が慕ってたぐらいだから、粋でいなせなお兄いさんで」
「そうでしょうね」
「ユダヤ教のお偉い先生方にたてついてでも、自分を通したぐらいだから、曲がったこ
とが大嫌いなことは確実だ」
「キリストっていうのは威勢のいい江戸っ子みたいだったんですねえ」
「そりゃお前、威勢はいいだろう。殺されたって生き返っちゃうぐらいだから」
「言われてみればそうですね。なかなかできる芸当じゃないですもんね」
「ガラリヤ湖でとれた活きのいい魚みたいに始終ピチピチ跳ね返ってた口だよ」
「なんか親しみが湧いてきました」
「実を言うと俺もだ」
「それにしても宮地さんは聖書に造詣が深いですね」
「いやなに、そんなこたあないよ。ちょっとした雑学だよ」宮地が照れくさそうに言っ
た。「やっぱり営業は雑学を知ってないとな。日々の勉強が大切だよ」
「そうですか・・・やっぱり努力は大切ですね」吉田は、宮地の教養に胸をうたれた。
「そのキリちゃんに選ばれた使徒なんだよ、俺達は。これは名誉なことだぜ」
「でもねえ・・・せっかくのキリちゃんの使いでも、違法行為をこの規模でやるってい
うのは・・・僕はそれなりに良識的な一小市民ですから」
宮地は立ち止まり、吉田の顔を覗き込んだ。「いいか吉田。初めてのお使いに躊躇す
るのもわかるが、よく考えろよ。去年は総額で1,000万円の金が動いた。今年はもっと多
くなる。我々の手元にはその20%が残る計算だ。お前には残った20%の内の5%を支払う
つもりだ。いくらになるかな。10万か15万・・・」
「やらせてください」吉田は即座に答えると、宮地の手をとり、その手を力強く揺すぶ
った。
「吉田、お前も立派な神の使徒だ」宮地もそれに応じて、握手した手を揺すぶり返して
きた。
「僕もキリストの御心に触れたような気がします」吉田も負けじと揺すぶり返した。
「お前がこの事業の社会的使命を理解してくれて嬉しい。キリストもきっとお前の心意
気に感極まって草葉の陰でむせび泣いてることだろう」宮地がさらに揺すぶってきた。
「これは男のロマンです」吉田もことさらに揺すぶった。
「そうだ。壮大な男のロマンだ」宮地がより激しく揺すぶり返した。
「支払いはキャッシュでお願いします」吉田は力の限り揺すぶった。
「・・・・・・もちろんだ。ただ、資金の回収が遅れた場合には先日付小切手で払うこ
ともありうる事は了承してくれ」宮地の握手がやや弱含みになった。
「ええ。わかりました。こんなにスケールの大きな事業のためなら甘んじて受け入れま
しょう。ホントに素晴らしい事業です」吉田は粘り強く揺すぶり続けた。
「ありがとう」宮地の握手はビジネスライクな様相を帯び、揺すぶりの振幅が徐々に小
さくなってきた。
「報酬を三日以内にキャッシュで支払ってくれたらもっと素晴らしい」吉田は劣勢を挽
回すべくあらん限りの力で激烈に揺すぶった。
「うむ。分かっている。お前が資金の回収を素早く済ましてくれれば、前向きに検討し
よう。おや、そんなことを話している間に経理部の部屋の前じゃないか」宮地が、まる
で話をそらすかのように、いささかわざとらしく言った。
「こんちわ」宮地が酒屋の御用聞きのような声をかけた。左手でドアをノックしなが
ら、右手を軽く左右に振っている。ひょっとしたら少し痺れたのかもしれない。握手の
ときに力んでしまったから。