AWC 寝床(六)     Trash-in


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#300/1160 ●連載
★タイトル (tra     )  04/07/02  00:49  (253)
寝床(六)     Trash-in
★内容
 吉田が宮地の後に続いて部屋に入ると、中には、リムレスフレームの眼鏡をかけた小
柄で痩せぎすな小林と、電話で話している綾瀬がいて、小林はパソコンに向かって入力
作業をしていた。
 綾瀬は、吉田の会社では女性で初めて課長職に就いた才媛の代名詞の様な存在で、そ
してそう言われるだけのことはあって、三十代後半だったが切れ長の目と年を追うごと
に厚みを増す化粧が印象的な美人だった。ただ、吉田が宮地から聞いた話では、綾瀬に
は風変わりなところがあって、それは恋愛の対象が大学生に限られ、しかも何かコンプ
レックスでもあるのか、普通の大学生は眼中に無く、相手は美術大学の学生でなければ
ならず、そして付き合いだすと献身的に貢ぎ、半年ほど経つと、もれなく捨てられると
いうことだった。
 そうした綾瀬の行動は、美しい顔とよく切れる頭を持て余した上での酔狂なのか、も
しくは持て余しているのは母性愛なのか、あるいは婚期を逸して捨て鉢になっているの
か、それとも単なるバカなのかが、話題の尽きかけた酒席ではよく論じられ、やがてそ
の議論も下火になってくると、「俺も貧乏な美大生になって、貢がれたいもんだなあ」
などと誰かが軽口を叩き、女性達の無言のブーイングを浴びるのが一つのパターンにな
っていた。
「ねえ、どうして今さらそんなこと言うの。ヒロくんひどい」綾瀬が言った。彼女は、
左手に受話器を持ち、右手で顔を覆っていた。「わたしの何がいけないの。わたしわか
らない」」
「宮地さん、出直しませんか」吉田が小声で言った。常識的に考えて聞いてはいけない
話のようだった。
「どうして」宮地が驚いたように言った。「あれなら気にするなよ」
「いや、気になりますよ。かなりシビアな話をしてるじゃないですか」
「かまうなかまうな。よくあることだ。なあ、小林、急な話だが、木俣の義太夫が今日
あるんだ」
「そうですか」
「いつもは2月だけど、自社ビルの新築披露にあわせたんだろう」
「ええ」
「担当の井上が、行きたくないから情報を握りつぶしてたんだ。今日になってわかっ
た」
「そうですか」
「オッズなんだけど、まさか出来てないよな。ひょっとして出来てる?」
「ええ」
「やった、えらいぞ小林。お前は素晴らしい」
「そうですか」
「先に藤原部長に会っておきたいんだけど、ここに来なかったか」
 小林は黙ったまま右手を持ち上げると、人差し指を対面の壁に向けた。隣の総務にい
るというつもりらしい。
「そうか。ちょっと行ってくる」宮地はそう言うと問題のFAXをひらひらさせながら部屋
を出て行った。
 吉田は、宮地に去られてかなり心細かった。小林は口が重く、しかもすぐ近くで別れ
話が進行している。
「いい天気ですね」吉田が言った。
「ええ」
「冬型の気圧配置が弱まっているようですね」
「そうですか」
「こういう日は仕事なんか休んで、どこかに遊びに行きたいですね」
「ええ」
「ドライブなんかいいですよね」
「そうですか」小林はポケットからティッシュを取り出すと、メガネをはずして、無言
でレンズを拭いた。
「車の車検がもうすぐで、いっそのこと買い換えようかと迷っているんですよ」
「ええ」
「でも、新しく買うとなると高いし」
「そうですか」
「・・・・・・・・・・・・」吉田は会話を小休止させた。努力した割には『ええ』と
『そうですか』を交互に聞かされるだけで、若干の徒労感を感じ始めていた。
「年末だから、経理は忙しいでしょう。年末調整で」吉田は気を取り直して会話を再開
させた。
「ええ」
「年末調整用に保険会社からハガキが来るじゃないですか。あれをどこかにやっちゃっ
て、困ってるんですよ」
「そうですか」
「・・・・・・この前ケータイを新しくしたんですよ」
「ええ」
「機種の交換よりも新規加入した方が安いって言うのも変な話ですよね」
「そうですか」
「・・・・・・・・・・・・」こいつは『ええ』と『そうですか』以外の単語を知らな
いのか。何だか吉田は腹が立ってきた。もういい、黙っていよう。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「だって、どうして?今そんなこと言わなくてもいいじゃない」二人の沈黙を破って綾
瀬の涙声が部屋に響いた。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「ああ、もうあたし死んじゃう。死んじゃう死んじゃう死んじゃう」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「束縛ってなに?あたし束縛してるつもりなんかないよ。だってそうしないとヒロくん
が」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「違うの違うの。着信履歴を見たのは、ヒロくんが無駄遣いをしたらいけないと思った
から。だってだってだって、だからだって、ねえ、ちょっと聞いてよ。ねえ、あたしの
話を聞いて」
「そろそろクリスマスですね」吉田が口をきいた。このまま黙っているとまるで綾瀬の
別れ話を立ち聞きしているようになってしまう。それにしても小林とのダンマリ合戦に
根負けしたのには腹が立った。
「ええ」
「クリスマスはどこに行っても込みますね」小学生のとき、通知表に『根気がありませ
ん』と書かれた事を思い出しながら吉田が続けた。
「そうですか」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「疑ってないのよ、疑ってないの。ヒロくんのことすっごく信じてるし、だってだって
だって、もしあたしがヒロくんが言うみたいに、嫉妬深くて、無実のヒロくんの行動を
いちいち監視してる嫌な女だとしたら、先々月の28日の午後5時23分から12分48秒もミチ
カちゃんにケータイから電話したことを電話会社の利用明細書で知って、それから、ヒ
ロくんの財布の中のレシートで、スターバックス銀座マロニエ通り店でホットココアを2
杯飲んで同じ日の午後7時15分に740円を払ったことを知った時点で、ヒロくんに警告し
ているはずでしょう」
「インターネットで」小林が語りだした。
 なんだ、やれば出来るじゃないか。自分の友好的な関係を築こうとする誠意が小林に
通じたのか、あるいは彼も聞いてはいけない会話を延々聞かされることに抵抗を感じて
いたのかもしれない。吉田は、「インターネットがどうしました?」と言葉を返した。
「色々なものが買えるようになりましたよね」
「デルがパソコン売ってますし、車も買えるみたいですね。車の下取りの査定もするら
しいですよ」
「インターネットってすごく進化していくじゃないですか」
「ドッグイヤーって言いますからね」吉田が弾むように言葉を返した。
「このままインターネットが進化していくと」
「ふんふん」
「アメリカで黒人奴隷がインターネットで売買される日も近いでしょうね」
「・・・・・・なるほど・・・ええ・・・まあ、そうですね・・・・・・それは、そ
の、やはり、綿花か何かを摘むための労働力として?」
「冗談です」
「ははあ、なるほど」吉田は全身の力が抜けるような気がした。
「面白いですか?」
「・・・そうですね・・・そのう・・・ブラックな感じで・・・ただ、アムネスティの
集会とか、そういうヒューマンな人たちがいる場所では避けた方が無難かと」
「ヒューマンな人というと」
「えーと、例えば黒柳徹子とかオノ・ヨーコとか」
「んふんふんふ。派手ですね」
「言われてみればそうですね。なんか関係があるのかな」
「あるわけないでしょう」
「・・・そうですね。派手なオバサンでもデヴィ夫人はヒューマンな匂いがしません
ね」吉田は悲しくなってきた。なぜ自分はヒューマニズムの見地からデヴィ夫人を評し
ているのだろう。
「あたしもう疲れちゃった・・・今日帰ってから、ゆっくり話そう。ね?ヒロくんの好
きなハンバーグカレーを作ってあげるから」
「ちょっと出ませんか」吉田が言った。とにかくストレスフルな環境から逃げ出したか
った。
「ええ」小林はそう言うと、デスクの上のボトルタイプの容器からウェットティッシュ
を一枚抜き取り、手を拭いて立ち上がった。
「おーい、FAXを藤原に渡してきたぞ。奴は高市に5万円賭けた」宮地が元気よく戻って
きた。
「いらないってどうして?どうしていらないの?この前カレーにニンジンを入れちゃっ
たから?あれは意地悪したんじゃなくて、あたし、うっかりしてて」
「まだやってたのか」宮地は綾瀬を見て少し驚いた。
「とにかくここから出ませんか宮地さん」吉田が懇願するように言った。
「出たってどういうこと?荷物は?荷物は?荷物は?荷物も?・・・そう、そういうこ
となんだ。そうなんだ・・・きっとかわいいかわいいミチカちゃんが手伝ってくれたの
ね。あたしと違ってかわいいかわいいミチカちゃんが。そして今度はミチカちゃんと住
むのね」
「もうすぐ終わりそうじゃないか」宮地が言った。
「そうですね」小林が答えた。「終わりそうな雰囲気ですね。いろんな意味で」
「出ましょう。とにかく。コーヒーでも飲みに行きましょう」
「コーヒーならさっき飲んだよ」
「じゃあ、他のものを飲みましょう」吉田は苛つく自分を抑えながら努めて冷静に言っ
た。
「ええ、そうですね」小林が加勢してくれた。「ホットココアでも」
「俺は忙しいんだよ。時間が無いんだから。オッズのチェックもしなきゃ」
「オッズの表をプリントアウトしましょう」小林がそう言ってマウスを動かし、何度か
クリックすると、プリンタの駆動音が聞こえてきた。
「もういいの」綾瀬がこちらを向いて言った。そして受話器を置きながら繰り返した。
「もういいの。もう終わったから。気を使わなくてもいいから」
 やがて、すすり泣く声が聞こえてきた。「もういいの。終わっちゃったから」綾瀬は
両手で顔を覆った。「終わっちゃった。何もかも。ぜーんぶ終わったの」
「綾瀬さん。あの、上手く言えませんが、人間生きていれば、こういうこともあります
よ」
「ありがとう宮地君」
「宮地さんの言うとおりです」小林が続いた。「生きていれば、こういうこともありま
す。特に三十をいくつも越した女性の場合は頻繁に」
「ありがとう小林君。あなたなりに励ましてくれてるのがよく判る」
「綾瀬さんくらいの美人なら、もっといい美大生にめぐり逢えるよ」
「ありがとう宮地君。なかなかそんな気にはなれないけどね」
「そんなことはありません」小林がプリントアウトされたオッズ表を宮地に手渡し、ウ
ェットティッシュで手を拭いた。「また出逢えます。前回も、別れてから8日目にニンジ
ン嫌いの美大生を捉まえました」
「ありがとう小林君。今度もそうなるといいんだけど」
「そんなにいつまでも泣いてないで。きれいな顔が台無しですよ」宮地がオッズ表を食
い入るように様に見詰めながら言った。すでに興味は賭けのオッズに移ったようだっ
た。
「宮地さんの言うとおりです」小林もまたオッズ表に見入った。「化粧が崩れてしまい
ます」
「ありがとう」
「美人を際立たせる化粧が。数多くの男達を悩ませてきた、ただでさえ美しいその顔を
より美しくする化粧が」宮地が言った。
「宮地さんの言うとおりです」小林も同調した。「数多くの男達を悩ませてきた、ただ
でさえ厚塗りの化粧が。防水スプレーがありますが、これで涙を弾けます」
「ありがとう二人とも気を使ってくれて。でも、もう泣いちゃったから防水スプレーは
いらない」
「これ、ちゃんと20%利益が残るように、なってるよな」
「ええ」
「連勝複式の倍率が低すぎないか」
「そうですか。でも、これ以上高くすると、万が一、二人行くことになったときの利益
の確保が」
「・・・初めはね、上手くいくと思ったの。どうしてこうなっちゃったんだろう。あた
しは、初めて会ったときに、この人だって思うと、頭の中で音楽が鳴るの」
「そうなんですか。ロマンチックですね・・・この倍率、二倍にしよう」
「『慕情』っていう映画があって、そのテーマソングで『Love Is a Many Splendor
ed Thing』っていう曲が、フルオーケストラバージョンで聞こえてくるの」
「美人だから、そういうきれいな曲がよく似合いますね・・・二人行くことはありえな
い。連勝複式の倍率を全て倍にしよう」
「そうですね。綾瀬さんらしいロマンチックな選曲です。『Love Is Over』が鳴るな
んて・・・しかし赤字の可能性が」
 綾瀬の泣き声が少し大きくなったような気がしたが、彼女は気を取り直したのか、
「その時も、その時も音楽が鳴ったの。『Love Is a Many Splendored Thing』
が」と言った。
「それはすごい。ものすごい直感ですね・・・単勝のほうはこれでいい」
「ええ、とても素晴らしい直感です。ほとんど病気です・・・でも、藤原部長と井上課
長が行く事になったら」
「行くわけないだろ」宮地が強い口調で言った。
「もし行ったら」
「その頃のあたしは、前の美大生と別れたばかりで、ぽっかりと大きな空洞を抱えた様
な感じがしていたの」
「ありえないことを想定しても意味無いよ。なあ吉田、あの二人が行くと思うか?」
「担当とその上司が行くのが普通ですよ」
「普通はそうかも知れないけどさ。ここは株式会社ミミタだから。政府発表の経済指標
の悪化とともに売り上げを落とし、景気が底を打ったなどというと世迷言にも敢然と反
旗を翻えしてシェアを縮小し続けるミミタだぞ」
「そしてヒロくんは、強すぎる感受性を自分でもどう扱っていいのか解らずにいる自我
の不安定なアーティストっていう感じだった」
「やっぱり藤原・井上の連勝複式はもっと倍率を高くしよう」宮地が小林と吉田に言っ
た。
「そうすると・・・他の倍率が」小林が難しい顔をして、「全体にも影響があります」
と付け加えた。
「背が高くて、華奢なように見えたけど、でも肩幅は広くて、とても才能があるのに、
でも認められなくて、その鬱屈が眼差しをとても強いものにして、あたしはそれに惹か
れた」
「ありえないケースだから無視していいと思うけどな」
「いや、宮地さん、説明させてください。例えば、営業部員が30人いたと仮定して、こ
の場合の組み合わせが」小林が胸ポケットからシャープペンシルを取り出して、オッズ
表の余白に『nCr』と書いた。「このケースでは、n=30で、当然r=1になります。解って
いるとは思いますが、30C1になるわけです」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「知り合いのギャラリーの人が紹介してくれたんだけど、でもその人はヒロくんの才能
までは見抜けていなかった。アーティストって才能が大きければ大きいほど、それが認
められなかったときに、ものすごく屈折するのね。ヒロくんも自分で自分の神経を切り
刻むような自虐的なところがあって、あたしは放っておけないな、と思ったの」
「まあ、30C1というのは」と、小林は沈黙する宮地と吉田に構わず、今度は『30!』と
書いた。「これと同じことなんですが。で、この連勝複式ですが」
「よく分った」宮地が力強く言い切った。「とても分かりやすい説明だった」
「いや、その、分かるも何もこれから説明が始まるので、今のはその前段階なんです
が」
「いや、よく分ったよ。30C1というのが、30のビックリマークな訳だろう」
「ビックリマークではなく、30の階乗と言いますが」
「昔はビックリマークと言った。まあ、とにかく30C1が30の階乗で、このオッズ表通り
なら売上げの20%が利益として確保できるということだよな」
「ええ」
「ほら、もう理解した。いやあ、分かりやすい説明だった。なあ、吉田」
「ホントに分かりやすかったですよ」吉田が宮地に調子を合わせた。この先を聞いても
どうやら理解できそうも無い。「一を語って十を知らしめる名解説だと思います。完璧
に理解しました」
「で、これは俺の意見なんだけど、二人行くことはありえないから、連勝複式の倍率は2
倍にして、ただし、藤原・井上の組み合わせは絶対にありえないから、それは客が食い
つくように4倍にしよう」
「そうですか。宮地さんがそういうのなら」小林がやや肩を落としてモゾモゾと言っ
た。そしてシャープペンシルを胸ポケットに戻すと、ウェットティッシュを一枚抜き取
って、いつものように無表情のまま手を拭いた





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