AWC 金差の勝利 1   永山


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#218/1160 ●連載
★タイトル (AZA     )  04/02/29  23:55  (400)
金差の勝利 1   永山
★内容
 私立K文化音大付属中学の秋は、冷たく燃える。
 その冠から想像できるように、同中学では音楽方面の教育に力を入れている。
才能ある人材を早くから確保し、その多くをエスカレーター式に高校、さらに
は大学へと送って育成する。だが、特に優秀な者には、特待生として海外留学
のルートも用意しており、通常、中学三年生を対象にチャンスが与えられる。
 年に一度の特待生選抜の舞台が用意されるのは、秋の中高合同学園祭。初日
を丸々使って催される演奏会で判定が行われる。厳密なコンクールの体裁を取
っておらず、また特待生選抜の場であるという正式な告知もないが、しきたり
は何十年と続いている。留学先は欧米の名のある国際的音楽院で、そこを出れ
ば実力にお墨付きをもらったようなもの。勢い、競争は熾烈を極め、学園祭の
演奏会出場に限っても激しい闘いが舞台裏で繰り広げられることになる。
「今年は特に激しくなりそうで、楽しみなことだ」
 学校長のラリー=レンドルが、受け取ったばかりの出場者リストから面を上
げた。青い視線を机の真ん前に立つ関影虎(せきかげとら)に向け、変わらぬ
流暢な日本語を駆使して続ける。
「君は、敢えて云うなら、誰が有力だと思う?」
「難しい質問です」
 リストを届けに来た関は、手元に残ったもう一枚の用紙に目を通しながら、
尖った顎を思案げに引いた。
「専門が違いますしね。音の善し悪しは専門に関係なく分かりますが、同じレ
ベルとなると、直接指導している子を贔屓してしまいます」
「ふむ。君でもか」
「私も人ですから」と肩を竦める関。西洋人との付き合いを重ねるに連れ、オ
ーバージェスチャが染み着いた。
 レンドルは白い鼻髭を少し震わせた。笑ったようだ。学校長は予想に拘った。
小さく割れた顎先をさすってから、リスト上に指を這わせる。
「ならば、バイオリンに限るとして、誰を推すね?」
「そうですねえ……」
 関はレンドルの顔をちらと見た。答は決まっているのに、逡巡したのには理
由がある。学校長は選抜に全く口出ししないという暗黙の了解があり、これま
で守られてきた。今回も守られるのだろうか。明文化されていないルールは、
いつでも変更可能だ。
「余計な心配は無用」
 関の心中を見透かしたかのように、レンドルは再び笑った。今度は目を細め、
声を立てる。皺がいくつも浮かび、好々爺然としてきた。
「私はノータッチだ。今、君が何と云おうと、選抜の行方を左右しやしない」
 関はつられて口元だけで微かに笑い、喉まで出かかったフレーズ「その件な
のですが」を飲み込んだ。
「現時点でなら、二階堂早苗(にかいどうさなえ)を推します」
 代わりに質問に対する答を返す。続く口ぶりが決然としたものになったのは、
先ほど飲み込んだことを一時的に忘れるためだったのかもしれない。
「大きな差はありませんが、しかし確実に彼女が最も優れています」
「二階堂君のことなら、私もよく知っている。なるほど。彼女の腕前は見事な
ものだ。あの年齢にして、彼女なりの演奏というものすら垣間見える。まだ片
鱗に過ぎないが……」
「これでよろしいでしょうか」
 下がろうとする関を、学校長は引き止めた。肩の高さに持ち上げた手に、大
きな黒い指輪が目立つ。
「いや、戯れついでに、もう一つだけ聞かせてくれたまえ。関君はさっき、現
時点でならと注釈を付けたね。どういう意図なのか、気になった。才能の面で
は、二階堂君よりも見込みのある生徒がいるということか?」
「違います。才能面でも、僅差ながら、彼女が一番でしょう。私はそう信じま
す。現時点ではと申し上げたのは、人間、明日はどうなるか分からないという
意味からです」
「というと? あと二週間足らずで、急速に上達する者が出て来るかもしれな
いとでも云うのかね」
 鼻の下を擦るレンドル。関はリストの用紙を四つ折りに畳んで、胸ポケット
に仕舞った。
「それも違います。明日、指を怪我するかもしれないし、演奏会当日、風邪で
熱を出すかもしれない。愛用のバイオリンが何らかの理由で使えなくなること
も、ないとは云い切れません。当日、皆がベストコンディションで臨むと仮定
した場合、二階堂早苗が半歩はリードしているでしょう」
「ふむ。よく分かった。それに、日本語は難しいな」
 レンドルは真顔で云ったが、関にはジョークにしか聞こえなかった。

 長身を折って一礼し、学校長室を退出した関は、音楽室のある方へ足を向け
た。西日の射し込む廊下をやや急ぎ足で進んむ。と、角のところで生徒と鉢合
わせしそうになった。
「おっと」
 思わず声が出たのは、細面の相手が、今し方話題にしたばかりの二階堂早苗
だったからだ。整った顔立ちだが、華美なところのない見目の女生徒が、プラ
イドの高そうな眼差しを向けてくる。こちらが教師と認識して、多少の穏やか
さを帯びた。
「すみません。失礼をします」
「二階堂」
 冷めた質の声で云い、頭を下げて去ろうとする二階堂を、関はつい呼び止め
た。三つ編みにした髪二本を揺らし、何か?と振り返った目が聞いてくる。
「いつも落ち着きのある君が急ぐのは珍しいと思ってね」
 聞きたいことがあるが、直に持ち掛けるのもまずいと考え、当たり障りのな
い滑り出しを選んだ。二階堂は返事の前に、胸の位置に左腕でホールドしてい
た数学のテキストを心持ち高くした。
「数学で理解できていない箇所があったのを思い出し、これから伺いに行くと
ころです。早い方が、和田部(わたべ)先生のご都合にかなうでしょうから」
「そうか。コンクールの備えは?」
「問題ありません」
 固い調子で答えていた二階堂が、次の瞬間、少しだけ頬を緩めた。
「わたくしにとって、数学の方が難関です」
 確かにそうだろう。関は口の中で呟いた。
 二階堂は他の生徒の誰よりも自然にバイオリンを弾き、自然に音楽と携わっ
ているように関の目には映る。多分、日常生活の一部になっているのだ。バイ
オリンは色々ある事共の一つであり、同列に過ぎない。この子が他生徒並みに
しゃかりきになって取り組めば、もう数段のレベルアップはまず間違いない。
いや、陰で汗水を流しているのかもしれないが、努力を見せようとしない。そ
れが本人の信条と思われる。技術吸収の早い彼女の、数少ない欠点である感情
表現の幅の狭さと恐らく無関係でない。
「忙しいなら、数学の用事が済んだあとでいいから、私のところへ寄ってくれ。
聞きたいことがある。そうだな……音楽準備室にいる。ああ、楽器は不要だよ」
「分かりました」
 隙のない表情に戻った二階堂は一礼の後、機敏な動作で去って行った。足音
がほとんど聞こえない様を目の当たりにして、関はぶつかりそうになった経緯
に納得した。
(あれで、弱者を思いやる気持ちがあれば、波風も立たないんだろうがな……)
 関は似合わないため息をこぼし、髪を手櫛でかき上げた。切れ長の目が、こ
のときばかりははっきりと曇った。

 二階堂を迎え入れた関は、「扉を閉めてかまわないか」と聞いた。この学校
にそのような決め事はないが、今の時期に妙な噂を立てられては、二階堂に悪
い影響が及びかねない。そもそも、彼女を呼び付けたのも、コンクールに関連
したことなのだ。
 二階堂は質問で応えた。「内密のお話なのですか」
「ああ。しかも楽しくない話題だ」
「電話で済む内容ではないのですね」
 関が頷くと、二階堂は自ら歩いて、ドアまで行き、静かに丁寧に閉めた。そ
れから室内を見渡してから、電灯を点けた。夕刻も進み、薄暗くなりつつあっ
た部屋だが、これで明るくなった。
「お話を」
 関は二階堂を椅子に座らせてから始めた。
「率直に云おう。毎年この時期になると、様々な噂が耳に入ってくる。無論、
コンクールがらみでね。今年も例外でないようだ」
「寄付額の一番多いわたくしが特待留学生に選ばれる、という噂ですか」
 率直にと断った関がすぐには切り出せなかった点を、二階堂はあっさりと口
にした。関は咳払いをした。面食らったものの、おかげで話し易くなった。
「ま、そればかりではない。二階堂に関する噂はあと一つあるが、そちらの方
は本質的に関係ない」
「気になります。聞かせてください」
 もう一つの噂は聞き及んでいないのか。意外に感じつつ、関は口を開く。
「やはりお金に纏わる話になるが、二階堂はバイオリンのおかげで上手く弾け
ると云っている連中がいるようだ」
「聞き捨てなりません。“より”上手く弾けるというのでしたら、看過しても
よかったんですけれど。全員が同じバイオリンでコンクールに臨むことを提案
いたしますわ」
 にっこりと微笑む二階堂。作った表情というのがよく分かる。
「各メーカーとの相性や、使い慣れているか否か等の点から、今から皆同じに
するのは無理だろうな。それより気になるのは、一つ目の噂から派生した噂だ。
耳に入ってくる噂の内の極々僅かだが、宗方(むなかた)先生に金を贈ったん
じゃないかとまで囁かれている」
 特待生を決めるに当たって、最も力を持つのが、宗方光人(みつひと)だ。
権限の大半を握っていると云っても過言でない。鑑賞眼(耳とすべきか)の確
かさに加え、豊かな人脈は内外問わず、学校長のレンドルにも引けを取らない
ほど。その痩身長躯、白髪に鷲鼻の外見から受ける印象とは違って、人当たり
もよい。情け深いところがあるものの、金銭で動くような人物でないことは、
関も承知している。二階堂に訊ねるのは形式的なものであり、確認に過ぎない。
「その手の噂でしたら、わたくし、他の方が贈っているという風に聞きました」
「本当か」
 顎を掴み、しばし逡巡する。名前を聞き出す必要はなかろう。恐らく、候補
者全員について、似たような噂が散播かれているに違いない。下級生の中には、
優秀な上級生に憧れる余り、熱狂的なシンパがいるとも聞く。
「二階堂はこの件で、一部の者からいじめられていないか?」
「いじめ? そういう意識は全くありません」
 二階堂は心外そうに否定した。これはポーズではないようだ。いじめがたと
えば仲間外れや無視の類だとしたら、二階堂は元来、孤高を保つタイプ故、気
付かないでいることも充分あり得る。
 念には念を入れ、関はもう少し掘り下げを試みる。どんなに大人びていよう
と、中学生には違いない。
「ここ最近、持ち物がなくなったり、壊れたり、あるいは落書きされたり等、
妙な出来事は起きてないな?」
「全然。関先生、どこからそんなお考えが出て来るんでしょう? おかしくて
たまりません」
「ないならいい。結構だよ。そうだ、ことのついでに確認しておく。仮定の話
として聞いてくれ。もしも特待生に選ばれたら、二階堂は問題なく日本を離れ
られるんだな?」
「今の時点ではそうです」
 自分と似た言い回しをした生徒に、一瞬、戸惑う。すぐに重ねて訊ねた。
「何かの変化があれば、だめになることもあるという訳かい。差し支えがなけ
れば、話してくれないか」
「……先生は、わたくしに期待を掛けてくださっているのですね」
 二階堂が珍しくも愛らしい笑みを見せ、首を傾けた。率直な物言いに戸惑っ
た関だが、髪を手で梳き、後ろで束ねた辺りに指を沿わせる頃には、持ち直す。
「時期が時期だからな。それを言葉に出せないのだよ」
「分かりました。事情をお話しします。兄が父の跡目を継ぐことができなくな
ったときには、わたくしが継がざるを得ません。必然的に音楽の道をあきらめ、
兄の通う高校を目指すことになるでしょう」
 関は内心、半ば呆れ、半ば安堵していた。二階堂の云うようなことが起こる
可能性は、相当に低い。
 それにしても思考が似ている。関はつくづく感じた。贔屓するつもりは更々
ないが、二階堂の奏でる音が耳に好ましいのは、この辺りに遠因があるのかも
しれない。

 K文化音大付属の各学校は全寮制を敷く。男女別に、ちょっとしたホテルの
ような寮が用意され、大変好評を博している。個室という訳には行かないが、
極端な定員オーバーがない限り、二人部屋が保証される。事実、保証が破られ
たことは過去にない。
 そして同じ敷地内に、独身教職員用の寮も併設されている。距離は近くても、
生徒と先生の学外での無用の接触は原則的に禁止だ。こちらの方は、何度か破
られたケースがあったが。
 その寮の一室で、関は候補者リストに改めて目を通していた。夕食後の空き
時間を埋めるための暇潰しだった。特待生決定に関して意見を述べる立場にあ
る関だが、すでに二階堂を推すことをほぼ決めた彼にとって、リストを見直す
だけでは心動かされない。
 関は椅子に深く腰掛け、リストを繰った。ピアノ、チェロ、ビオラ等の候補
者が一名乃至は複数名、挙がっている。そんな中で関が最も興味関心を寄せる
のは、やはりバイオリンだ。自分の専門というだけでなく、今年はバイオリン
の中から特待生が出るものと信じている。同期に逸材が揃い、切磋琢磨する様
を関は間近で見てきた。その結果、二階堂は高いレベルに至った。
 バイオリンでの候補者中、女子は他に二名おり、いずれも二階堂とは対照的
な一面を持つ。
 夏樹理香(なつきりか)は華やかで派手。小柄だが、目鼻立ちがはっきりし
た、人目を惹く容姿をしている。技術面では他の者に若干劣るも、聴衆の期待
を察する術を身に着けて生まれたと思えるほど、勘のよい演奏や振る舞いをす
る。大衆に親近感を抱かせる資質を有し、アイドルやポップミュージシャンに
こそ適正がありそうだ。
 堀田(ほった)のぞみは、男性的で力強い演奏をする。髪を振り乱す様は、
陳腐な形容が許されるなら、鬼気迫るものがある。弾いている最中に没入する
のは二階堂と同じでも、堀田の場合は忘我の境地に近い。音楽を日常へ引き込
むのが二階堂だとすれば、堀田は日常から音楽の世界に飛翔すると云えよう。
 その堀田と正反対の特徴を持つのが、男性陣に一人いる。夢野正太郎(ゆめ
のしょうたろう)。容姿に合わせた訳でもあるまいが、柔らかい女性的な演奏
を得意にしている。多彩なテクニックを持っているのは素人にも分かるであろ
う。敢えて女性的に徹し、自分のイメージを作り上げる狙いが窺える。
 残る荻屋欽一(おぎやきんいち)は、ある意味で天才肌と云える。初見の曲
でも充分に聴けるレベルで弾きこなし、一流バイオリニストの短いコピーを即
興メドレーでやるに至っては、関も感心した。“己”を確立すれば、恐いもの
なしだろう。独創性の才に欠ける点が難だと、関は思っている。
 バイオリン候補者全員を見直し、関は二階堂を推薦することに間違いはない
と意を強くした。実力本位の立場から夏樹はワンランク下。荻屋は殻を破れず、
物真似の域を出ない。夢野は計算高すぎて、こじんまりとまとまる恐れがある。
 敢えて対抗馬を挙げるとすれば堀田だろう。彼女の音は恐らく、好き嫌いが
はっきり分かれるタイプ。それこそ個性と云えなくないが、関は認めたくなか
った。ここまで競り合われては、最終的に好みで選ぶしかない。
「宗方さんは、どうお考えなんだろうか」
 ふっと、呟く。
「バイオリン、それも二階堂と堀田のどちらかを選ばれるつもりなのは間違い
ないと思うんだが」
 独り言を続ける自分に気付き、口元を手の甲で拭った関。リストを机に放り、
立ち上がった。喉の渇きを覚え、玄関脇の自販機まで出向くとする。
 誰もいない廊下を足早に行き、自販機で缶コーヒーを購入して、さあ引き返
そうとした矢先――見慣れない女性の姿を目に留めた。寮の門から三メートル
ほど入り込んだ地点、身体の左側面を建物へ向けて立っている。外灯をうっす
らと浴びたその容姿は若い。が、着飾っており、生徒の父兄のように思えた。
「こんばんは」
 習性で、自然に挨拶が口をついて出た。頭も軽く下げる。相手も関に気付い
ており、返礼してきた。が、続く言葉がなかったので、関は立ち去ろうとした。
「すみません」
 ワンテンポ遅れて、呼び止める声を背中で受けた。関は缶コーヒーを持て余
しつつも、外へ出た。
 近付き、足を止めると同時に、尋ねてくる。
「こちらに宗方先生はおられますでしょうか」
 長い黒髪は真っ直ぐに下ろし、清楚さを醸し出す一方、唇は不釣り合いなほ
ど肉感的だ。ヒールの高さを差し引いても、スタイルはよい部類に入ろう。
 関は頭の片隅でそんな感想を抱きながら、答を返した。
「宗方先生はご自宅のはずですよ。そもそも、ここは独身者専用ですし。失礼
ですが、生徒のご父兄でしょうか?」
「ええ、はい、そのようなもの……。宗方先生がいらっしゃらないのでしたら」
 女性は右手を開き、そこへ視線を落とす。どうやらメモ書きを握り込んでい
るらしい。
「関先生はおられますか?」
「私です」
「ああ、そうでしたか。お願いがあります」
 少し前より予感はあったが、これはどうやら相手にしてはいけない人だと、
関は判断した。
「伺いましょう。ただし、予めお断りしておきますが、コンクールに関するご
相談でしたら、受け付けておりません。ごり押しをされたとしても、生徒さん
にとって最悪の結果が待っているだけですから、ご注意ください」
「……」
 思った通りのようだ。絶句してしまった女性は、次に出すべき言葉を探し、
おろおろしている。
「では、話を伺いますので、寮へどうぞ。談話室があります」
「あ、あの、関先生。私、急用を思い出しましたの。こちらから持ち掛けてお
いて失礼とは思いますが、帰ります」
 そう云うと、女性は関の返事を待たず、きびすを返して足早に去って行く。
 関がもっと若ければ嫌みな台詞と一つでも云って、追い打ちをかけたかもし
れない(実際、いけ好かない父兄が多かった)が、分別ある年齢に達して抑え
が利くようになった。
 あの女性の顔は忘れることとしよう。苦笑混じりに心に決め、関は缶コーヒ
ーを握り直した。

 学園祭初日の演奏会は厳粛な中にも文字通りフェスティバル的盛り上がりを
見せ、順調に進んだ。二人の出場者が気分が悪いと体調不良を訴え、棄権した
が、これはほぼ毎年あることで、極度の緊張、自信のなさ、あるいは前日まで
の猛練習による疲労等が複合的な要因とされる。事実、今年の棄権者二人も、
コンクール終了後にはすっかり回復していた。
「滞りなく終わり、まずはめでたい」
 部屋を訪れた関の前で、レンドルが云った。例年通りの決まり切った台詞に、
関は密かに苦笑した。
「有力な生徒はいずれもミスなく、こなしていたようだね。波乱がないという
のは、選ぶ方にとっても安堵できるのじゃないかな?」
「ええ。やはり実力のより確かな者に残ってほしいですから。しかし、ミスが
ないように努める余り、こじんまりとまとまって、無難な演奏に終始した者が
多かった気もしましたね」
「ミスなくが転じて、そつなくか。確かにそんなきらいはあった。でも、君お
気に入りの、二階堂早苗君は違った。非論理的な物言いをすれば、一二〇パー
セントの力を発揮した感じだ。たとえるなら、昨日の彼女と今日の彼女は別人。
日々進歩上達している。君の指導の賜物だね」
「半分以上、彼女の才能です」
 謙遜でなく、関は云った。レンドルの言葉には、お世辞かどうか分かりにく
い部分があるのも理由の一つだが、それ以上に二階堂の才能には手放しで賛辞
を送っていいと思っている。
「堀田君との争いに絞られたかな」
 レンドルが呟いたのを機に、関は最前からの気掛かりを口にする。
「宗方先生がお見えでないようですが……」
「ああ、すぐにも来るはずなのだが、何かあったかな」
 演奏会終了後、関連教科の教師は校長の部屋に集まるのが、習慣となってい
る。現在、関しかいないのは、三年生のクラス担任や部活動顧問の関係で、生
徒達の企画した出し物に付き合っているため。特に今年は持ち上がりの巡り合
わせで、三年生のクラス担任を務める先生が音楽科に多いのだ。
 だが、宗方にそんな拘束はない。親しい生徒か顔見知りの父兄につかまって、
話し込んでいるのだろうか。去年までは、いの一番に駆け付けていたのが。
「会議の前に額を突き合わせて、あれやこれやと感想を述べ合うのは好ましく
ないという考えに転換されたかな」
「それはないと思いますが……。宗方先生は携帯電話をお持ちでなかったから、
連絡の取りようがないか」
 懐に手を入れ、首を傾げる。ただ、電源を切っていたのを思い出したので、
自らの携帯電話を取り出す行為はやめなかった。
「ああ、校長。ちょっと失礼します。メールが来ている……」
「Eメールかね」
 関の呟きをとらえ、レンドルがからかい口調で云った。苦笑混じりに「ええ。
電子メールです」と応じ、手元の操作を続ける。田舎からのどうってことのな
い文章だった。
 仕舞う前に思い付いて、「宗方先生の自宅に掛けてみましょうか。お帰りに
なったのかもしれません」と云った。
「急に体調を崩すか何かして、すぐに帰ったのかな。まあ、あり得ないことじ
ゃないが、それならそれで連絡があってしかるべき。電話できないほどの重症
でも、ご夫人がいるはずだ」
 レンドルは納得できないようだが、とにかく電話してみることになった。
「帰ったとしたら、車で三十分ですから、もう着いていておかしくないです」
 呼び出し音を聞きながら、レンドルに説明した関。と、フックの持ち上がる
気配があった。
「はい。宗方ですが」
 重々しい調子の声が、電話を通じても関の耳を揺さぶる。BGMに聞こえる
のはどこか南国の民族音楽らしい。それよりも関は、本当に宗方が在宅してい
たことで意外感に囚われた。しかも、声は普段と変わりない。
 宗方の家の電話は番号通知に対応する機種か分からず、念のために名乗る。
その間に、BGMの音が若干小さくなった。相手がボリュームを絞った模様だ。
「校長室に来られないから、心配していました。一体どうされたんです?」
「どうされたもこうされたも、僕はメモの通り、自宅待機に応じたまでだよ」
「メモ?」
 話が見えず、思わず声が大きくなった。レンドルも何事かという風に、デス
クを離れ、首を伸ばす。
「私には何のことだか、さっぱり分からないのですが」
「メモだよ、メモ。コンクールに関して、大がかりな不正工作が行われた疑い
が生じたので、審査に関わる者は即刻自宅もしくは寮で一旦待機、大筋を把握
できた段階で招集を掛ける、という感じの文章だった」
「私はメモ自体、受け取っていません。恐らく、他の先生方も同じでしょう。
そのメモ、書いたのは誰となっていましたか?」
「校長名義だったよ。それに、書かれた物ではなく、印刷物だった」
 関は相手に断りを入れてから、マイク部分を手で押さえ、レンドルに事情を
話した。
「そのようなメモは出していないし、不正工作の疑惑なども知らぬ。どんな行
き違いがあったんだろう……」
 レンドルは顎に手をやり、俯きがちになって考え込むポーズを取った。
 関は宗方に「学校長も知らないと云ってます」と告げた。
「そんな馬鹿な。では、あのメモは……」
「メモは今、手元にないんですか? 先ほどから、やけに過去形を使われてい
ますが」
「ない。メモの最後に、読んだら、関係者以外にことが漏れないよう、処分す
るようにと記してあった」
「では、誰から渡されました?」
「メモかい? 渡されたんじゃないんだ。演奏会が終わった直後、上着を羽織
ったら、胸ポケットの万年筆に挟んであった。四つ折りの状態で」
 内密の事項を記したメモをぞんざいに扱うという不自然さをまず怪訝に感じ
てほしかった、と思った関だが、声に出しはしない。彼自身、世間知らずの一
面があると自覚していた。
「ともかく、手間だとは思いますが、戻って来てくださいませんか。質の悪い
いたずらのようですが、事態を把握する必要がありそうですし」
 そこまで云って、出すぎた真似だったかと、レンドルを見る。意向を尋ねよ
うとした。
 と、その刹那。
 突然、「ぐふ」とも「がは」ともつかない異音が、電話から流れた。一瞬だ
け、電波の調子が悪いのかと思った関だが、すぐさま首を振る。雑音ではなく、
明らかに人の発する声だった。しかし、咳込んだにしては違和感があった。
「宗方先生?」
 呼び掛けに応答がない。代わりに、五秒ほどおいて、重いものが床に倒れる
ような音と、固い物同士のぶつかり合う乾いた音が立て続けに聞こえた。
「何かあったんですか。……どうしました? 宗方さん!」
「……来てくれ。すぐ……」
「……宗方さん? 宗方さん、どうしたんですか?」
「……」
 呻き声が漏れた気が。いや、勘違いか? 沈黙がずっと続く。相変わらず仄
かに聞こえる、寄せては返す波のような民族音楽の調べが、不気味に思えてき
た。
 異状が起きたのなら、家族の者は何をしている? 不在? まさか家族間の
いざこざではないだろう……。
 関は携帯電話を握る手に汗を感じた。どうすればいいのか迷う内に、鼻息が
荒くなった。助けを求める声すら聞こえないのだから、この通話は終えてもい
い。それから改めて一一〇番か一一九番をして状況確認を頼む。
 いや。携帯電話から一一〇番しても、最寄りの部署につながるとは限らない
ため、トラブルになっているという話を昔読んだ覚えがある。あれは現在解消
されたんだろうか?
 それらのことが脳裏を一度に駆け巡って、全くまとまらない。気が付くと、
レンドルがすぐそばに立ち、「何事です、関さん!」と声を張り上げていた。
 関は電話の向こうの異変を、行きつ戻りつしながらも、どうにか説明した。
 レンドルは関から携帯電話を受け取ると、耳に当てた。じきに、「音楽しか
聞こえない!」と舌打ち。
「どうしますか。一一九番か一一〇番をする手もありますが、万が一、そのよ
うな事態でなかったら、責任問題が持ち上がりかねませんし……」
「うむ。来てくれと云ったのなら、行こうじゃないか。関先生、君は車を持っ
ていたな」
「持っています」
「私自身が行ってみようと思う。貸してくれないか」
 レンドルは車を所有していないが、運転はできる。
「分かりました。宗方さんの家に直行ですね。私が転がして行きますよ」
「そうか。ありがとう」
 早口のレンドルは、自分の机に引き返し、電話を取った。
「その通話は切らないでくれたまえ」
 指図のあと、レンドルは電話のボタンを押し、急用で出掛ける旨をまくし立
てた。電話の相手は多分、本校の事務員だろう。
「では、急ごうか」


――続く





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