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「始発電車殺人事件」 連載第19回 叙 朱 (ジョッシュ) 62 中央林間(つづき) 江尻はしばらく黙っていた。柏木は江尻の言葉を待っている。栗原の後ろで 人影が動いた。江尻武夫の甥の啓介だった。心配そうに静まり返った部屋をの ぞき込む。江尻は啓介には気づかないようだ。 ようやく江尻が沈黙を破った。 「エリコは平野から自由になりたかったのだ。」 言い終わって大きく溜息をついた。山下が聞く。 「どういう意味ですか?」 江尻はそんな山下の顔を一瞥し、そして喋り始めた。 「日本でのエリコは、平野に頼らざるをえなかったのだ。会社でも私生活でも。 何しろ外国人のエリコには、身元保証人の平野がいなければ、住むところすら 借りられない。自立心の強いエリコがそういう生活を嫌い、独り立ちを考える のは無理もないことだった。 ところが、エリコをフィリピンに帰さねばならない事態が起きた。K商会の 人事部から突然要請があったのだ。特別待遇を続けるのはまずい、早いところ 何とかしろと言ってきた。エリコの処遇について、人事部に問い合わせてきた 者がいたらしい。それで人事部は慌てたようだ。」 「人事部に問い合わせたのは僕です。」 山下は言った。人事部の同期の男を酒に誘って、いろいろ聞き出した。あれ は日比谷の地下バーだった。そういえば、確かに同期の男は人事部長に聞いて みたと言っていた。 「やっぱり君か。まあ、そうだろうとは思ったよ。君のそんな行動が、エリコ をフィリピンへ送り帰すきっかけになったとは皮肉だな。」 江尻の言葉は山下の耳に痛い。江尻が続けた。 「平野としては、S重工の販売代理権の契約はほぼ決まっていたので、エリコ をフィリピンに帰すことには不都合はなかった。お役御免というところだな。 それで、その事を河田に告げ、エリコにも話した。 ところが河田が、それならエリコに一度だけでも会いたい、と言いだしたの だ。やはり、もう会えないかもしれないから、ひと目だけでもと思ったのだろ う。」 「それで、今朝会うことになったのですね。」 山下が尋ねる。江尻は首を振った。 「いや、エリコは会いたくないと言うのだ。生活の援助はしてもらっていても、 河田を憎んでいた。身重の母親を日本から追い出したと思い込んでいる。それ は誤解なのだが、とにかく会いたくないというので困った。取引の便宜を図っ てくれた河田の手前、何とかしなければならない。平野がそこで一計を案じた のだ。」 江尻がそこまで言ったときに、山下が口を挟んだ。 「ああ、それはひょっとしたら国籍のことですか?、一週間くらい前だったか、 国籍が取れるかもしれないと彼女がずい分はしゃいでいたことがありました。 河田に会えば、認知してくれて国籍が取れるかもしれないと話したのです ね。」 「その通りだ。エリコはそれでやっと承知した。」 苦々しげに江尻は言う。山下はやっと話が飲み込めた。 「ところが河田は認知を承知しなかったのですね。それで、エリコは逆上し た。」 山下に江尻はうなずいた。柏木が言葉をはさむ。 「つまり、倉科エリコは河田一成を刺した。平野を刺そうとして誤って、とい うことではない。そういうことになりますね、江尻さん。」 江尻が少し慌てた。 「いや、まあ、関係者がここにいないから、私も断言はできない。」 言葉に詰まる江尻を見ながら、柏木は口元で笑った。 「まあ、いいでしょう。倉科エリコを捕まえることができたら、本人に良く聞 いてみることにしましょう。」 栗原が質問した。 「だけど、倉科はどうして江尻さんをつけねらったのですか?、今までの話で は、江尻さんは全く関係なさそうですけど。」 「確かにそうね。」 柏木が応えた。江尻の方を見やる。江尻が口をとがらせた。 「私を殺そうとした理由を知ってどうするんだ。倉科エリコは、今頃はもう空 の上だ。フィリピンに向かっている。私もこのとおり無事だ。何も起こらなか ったのだから良いだろう。」 「倉科はもう空の上?、この緊急配備の中を、いったいどうやって成田空港へ 行けたんだ?、」 江尻の言葉に栗原が飛び上がった。隣りで柏木も、しまったという顔をして いる。江尻が言う。 「エリコは、中央林間駅まで送り届けた。そこから電車で横浜に向かった よ。」 それで柏木が合点した。 「なるほど、倉科を台湾へ飛ばしましたね。ああ、そうか、江尻さんは台湾に 長く駐在していたんでしたね。国交のない台湾の航空会社は、羽田空港を使っ ているんだ。台北乗り換えでもマニラに帰れるわけか。成田空港にいくら張り 込んでも、これでは倉科を捕まえられないわね。江尻さんにしてやられたよう ね。」 柏木はさばさばした口調だった。とにかく江尻は無事なのだ。これ以上の事 件がなければ、警察に関与する理由はない。柏木はそろそろ話を切り上げにか かった。 「ところで、江尻さん。こちらで調べていて、ひとつだけ分からないことがあ ったんですよ。倉科エリコの生活費ですが、河田は二年前まで台湾の江尻さん 宛に送っていますね。それに河田は二十万円送金していたようですが、平野経 由で倉科へ渡っていたのは十万円しかありませんでした。この差額の十万円は いったいどこへ行ってしまったのでしょう?、ご存じなら、教えていただけま せんか?」 江尻は、立ちすくんでいた。柏木が続ける。 「海外送金は外為法によりすべて記録が残ります。誰がどういう理由で誰に送 金したか、分かる仕組みです。倉科の生活費は、河田から台湾の江尻さんへ、 そして平野を経由して倉科へ渡されていますね。金の流れを分かりにくくした のかもしれませんが、その途中で、どう考えても江尻さんの手元に毎月十万円 が差額として残っていたはずなのです。いえ、お答えいただけなければ、それ はそれで良いですけれど。ちゃんと届け出があって、外為法違反でもないよう で、問題はないのですから。」 柏木はそういい残すと、栗原を促して病室のドアの方へと歩いた。ドアのと ころに立っていた啓介が、入れ替わりに病室に入ってきた。顔色が良くない。 立ちつくした江尻に声を掛けた。 「叔父さん、失礼な質問をして良いですか?、十年前に私の失敗の穴埋めのた めに、台湾から一千万円の送金をしていただきましたね。あの一千万円は、い ったい、どのように都合したんですか。まさか、あの時のお金の返済のために、 十万円を?」 「そんなことはない。」 即座に江尻は否定した。しかし、江尻の否定の語調が強すぎることが、かえ って啓介の、そして山下の心に重かった。 63 長津田近辺 午後七時。 栗原警部補が車を運転していた。柏木警部は隣で腕を組んで、目を閉じてい る。車は国道二四六号線を東へ向かっていた。休日の外出先から帰宅する車で、 道は混んでいた。赤いテールランプが延々とつながっている。 「山下に確かめてみました。」と、栗原が言う。 「え、なにを?」 柏木は目を閉じたままだ。 「なぜ、今朝、駅でわざわざ切符を買ったのかって。」 「ああ、始発電車ね。」 「ええ、そしたら定期入れを取り出して見せてくれました。」 「ははあ、やっぱり定期券を持っていたんだ。嶋田警部の指摘は正しかったの かな。」 「いいえ、それが定期券は昨日で期限切れだったんです。」 「ふむふむ、それじゃ、山下は真っ白だわ。あの夫婦は大丈夫って事ね。」 「はい、あの夫婦は大丈夫であって欲しいですけど。」 栗原は、山下と倉科エリコとのことを思った。そしてベッドに横たわってい た山下幸代の白い顔を思い出した。幸代は自分の夫と倉科の関係には気づいた だろう。そして、倉科がフィリピンへ帰ってしまったことも知っている。どう するだろうか。いや、案外、何とかなるかもしれない。そう考えることにしよ う。 「あ、そこの交差点を右に曲がって。」 黙り込んだ栗原に、突然、柏木が指示した。はい、と答えて、栗原はハンド ルを切る。右折した道路は、小さな川沿いに新横浜駅の方へと続いており、真 新しい一戸建て住宅が両側に連なっていた。 「ツキオンナケモノ事件の謎解きがまだだったわね。」 柏木が栗原に話しかける。ツキオンナケモノ事件?、ああ、誘拐された小学 生が残した不思議な言葉だった。 「あれよ、あれがツキオンナケモノの正体よ。」 栗原は言われるままに、柏木の指す先を目で追った。白いペンキ壁の建物が あった。看板を読む。 「五月女獣医...ですか。」 「そう、小学生はあそこに監禁されていたらしいわ。目隠しの下から漢字三つ だけ読めたのね。月、女、獣。」 車は、その白い建物の前を通り過ぎる。玄関の張り紙が夜目にも読みとれた。 「都合により、しばらくの間休診します。」とある。 「なるほど...。」 栗原はつぶやく。 もういいわ、と言う柏木の声で、栗原は車を切り返した。 えぴろーぐ 「倉科エリコは、江尻の十万円の搾取に気づいたのでしょうか?」 「そうね、気づいたのかもしれないわね。」 「それで、江尻を殺そうとしたのでしょうか?」 「どうかしら、もう少し事情は複雑かもしれないわ。」 「どういう意味ですか?」 「神奈川県警から照会してもらった結果、昭和四十六年に銀座の御門で保護さ れてフィリピンに強制帰国させられた女は、二人いたわ。そしてその内のひと りは、妊娠を訴えていたらしい。」 「じゃあ、それが倉科の母親ですか?」 「江尻武夫の話だとそのはずね。ところが、妊娠を訴えていた彼女は子供を産 まない内にフィリピンに帰って間もなく、事故死しているの。フィリピン警察 の記録では、覚醒剤によるショック死ね。」 「え?、それじゃあ、倉科はいったい誰の子供なんですか?」 「さあ、河田の娘じゃないことだけは確かね。いろいろ考えられるわ。たぶん、 いっしょにフィリピンへ帰った女が、妊娠していた女から、河田のことを聞い ていた。そして、フィリピンでその事を誰かに喋った。これは使える。そう思 った誰かが、その女と河田の関係をうまく利用した。」 「それは、平野雄一、または江尻武夫ですか。」 「そんなところね。」 「だけど、倉科エリコは、河田の恋人にそっくりだったらしいですよ。そんな に日本人に似ている女を良く捜し出せたものですね。」 「ジャピーノという言葉を知ってる?」 「いいえ。何ですかそれ?」 「日本人とフィリピン人の混血児のことよ。昭和四十年代に始まった日本から の買春ツアーの落とし子たちね。日本人の父親の顔も知らず、もちろん日本国 籍もなく、だけど日本人の血を引いたたくさんのジャピーノたちが、マニラで 貧しさに耐えて成長し、ちょうど倉科エリコと同じくらいの歳になっている わ。」 「それじゃあ、倉科もそのジャピーノだと?」 「おそらくね。そして、自分が利用されたからくりに気づいたのかもしれない わ。そう考えて初めて、倉科の殺意が分かるような気がする。」 「そして、江尻はその事を知っていた。」 「ええ、そうよ。」 「でも、倉科は江尻に危害を加えないまま、あっさりとフィリピンに帰りまし たね。どうしてなんでしょう?」 「殺意を抱いていた倉科に、短時間でフィリピン帰国を決心させる事ができた のはなぜか。納得できる答えはひとつしか出てこないわ。」 「何ですか?」 「江尻武夫こそが倉科エリコの父親なのでしょう。」 「え?」 「倉科エリコが殺人を犯していないとわかった時の江尻の顔を見た?、江尻は 本当にほっとしていたわ。あれは間違いなく肉親としての安堵だったわね。」 <始発電車殺人事件:完> ご愛読ありがとうございました。 叙朱(ジョッシュ)
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