短編 #1255の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
恐怖は論理的には実体化する。例えば幽霊を見るという人がいる。霊 の存在は科学的には証明できない。人はレム睡眠、つまり浅い眠りの時 に幻覚を見る可能性があるという。その人の幽霊に対する恐怖が強けれ ば、そんな幻を見てしまうこともあるだろう。 つまり、恐怖は論理的には実体化する。 俺が怖いと感じるのは、意味の不明な世界に閉じ込められてしまうこ とである。小学生の時、服を着ていないマネキン人形が立ち並ぶ部屋に 誤って閉じ込められたことがある。彼らは服を着て、人々に見られるこ とに意味がある。昼間だったから暗くはなかったのだが、明るくても同 じことだ。マネキンだから怖いのか? そうじゃない。バレーボールが たくさん転がっている部屋でもいい。そこが体育館だったら、意味があ る。普通の室内だったらまったく意味不明である。もちろんその部屋が 自由に出入りできる場所なら論外だ。問題なのは、そこから出られない ということだ。 そんな俺の恐怖が実体化したのだろうか。俺は今奇怪な場所にいる。 幅一メートルほどの壁が四方を取り囲んだ、穴の中だ。高さは俺の身長 の二倍ほどもあって、抜け出すことはできない。上からは日の光が差し 込んでいる。 それが鉄やコンクリートだったなら、どんなに良かっただろう。あっ ても不思議じゃない物だからだ。しかし内壁は、どこを見てもサイコロ、 サイコロ、またサイコロであった。びっしりとすき間なく積み上げられ ている。床は鉄板のようだ。 突然、異世界に放りこまれたとしか言いようがない。朝電車に乗った のは覚えている。いつも混んでいて、めずらしくすわることができて、 本を読んだのも覚えている。降りたのも、改札を出たのも覚えている。 しかし、そこから先が分からない。気がつくと、ここにいた。 サイコロの目には規則性はなく、黒い点の渦の所々に赤が混じってい る。意識が鮮明になって、自分が異常な世界に紛れ込んだことを知った 時、俺は猛烈にあせった。ここはどこだ。いったい何が起こったのだ。 現実的な解釈を見出そうとする思考はことごとく失敗した。悪意ある何 者かが俺を催眠状態に陥らせ、このわけの分からない場所に閉じ込めた のか? しかしいったい誰が、何のためにそんな凝ったことをしなけれ ばならないというのだ。人にいたずらをして、そいつが右往左往する様 を楽しむ類のテレビ番組があるが、それであるとは考えにくい。俺は一 時的に意識不明の状態になったはずだ。テレビでそんなことをするのは 倫理的に問題がある。 腕時計の針は八時二十八分で止まったまま、動いていない。自分の体 内時計に頼るしかないが、もうかれこれ一時間はたったのではないかと 思える。ここがまったく意味不明の場所だと気づいた時、俺は絶望した。 なんとかサイコロの目に意味を見出そうとした。何かの暗号になってい るのではないか? そして、それを解けばここから抜け出せるのではな いか? しかし一から六までの範囲の膨大な量の数字の羅列から何かを 読み取ろうとするのは不可能だった。 小さな四角達は完璧なまでに整然と並んでいて、一ミリたりともとび 出ているものはなかった。サイコロの間の隙間に爪をくいこませ、抜き 出そうとしてもびくともしない。つかむ所がなく、上ることはできない。 壁をくずせれば、外に出られるかもしれない。しかしもし、接着剤でく っついているのだとしたらお手上げだ。 積み重なっているその重さのために微動だにしないのだとしたら、助 かる見込みがある。上の方だったら簡単にくずせるはずだ。しかしせい いっぱい手をのばして、爪でひっかいてみても、取ることはできなかっ た。 がっちりと組み合わさったパズルのピースをばらばらにするにはどう したらいいか? 俺は想像してみた。そうだ、振ってみればいい。しか し、この壁を振ることはできない。地震が起こってくれるのを待つしか ない。 では裏側から思いきり叩いてみてはどうか? そう考えた俺は壁をな ぐった。何度も、何度も。残念なことに何の反応も示さなかった。よほ ど厚いのか、それともやはり接着剤で固定されているのか。 マネキンの部屋に閉じ込められた時の恐怖が記憶の底から少しずつ、 少しずつよみがえってきて、心臓は早鐘をうち、呼吸は早くなり、いて もたってもいられなくなった。 「おおい、誰かいないか」 俺は叫んだ。だが、返事はなかった。人の気配を感じない。足音も聞 こえない。それでも俺は叫び続けた。涙さえにじんできた。 そして今俺は、途方にくれてすわりこんでいるのである。 サイコロは、すごろくやギャンブルに使われてこそ意味がある。こん なふうにただ積み上げられているだけでは何の意味もない。ものすごい 形相をしたお面に囲まれるよりもよほど不気味だ。お面だったら、怖が らせようという意図が汲み取れる。 俺は床に手をついて、下端の一列を見つめた。どこかに均一性のくず れた所はないか。少しでもいい。出っ張るか、引っ込むかしてくれてい れば、そこから壁を壊せる可能性が出てくるのだ。だが非情にも、そん な個所はなかった。 立ち上がり、両の手の平を目の前の壁に押し当てる。なんとかしなけ れば。何もしないわけにはいかない。このままの状態が続くと、だんだ ん腹が減ってきて、ついには飢え死にしてしまうだろう。 もしも接着剤で密着しているのだとしたら、それがサイコロの間から はみ出しているのを見つけられるかもしれない。今一番問題なのは、こ のサイコロの群れを自力でくずせるのかどうかだ。手を離し、下端から 始めることにして再びかがみこんだ。 透明な塊が隙間から出ていないか。左端から順番にみていく。二、五、 三、六、二、四、一……。右端までたどり着いたので、今度は一段上の 列を右から左へと確認する。 この作業は案外時間がかかった。ずっとかがんだままだから、腰が痛 くなってきた。ようやく顔の高さまで来たので、俺は立ち上がった。 丹念にたどっていき、背伸びして見える所まで確認した。接着剤がは みだしている個所はなかった。これだけ大量にあるのだ。人の手でくっ つけたとすれば、少しくらい不手際があっていいはずだ。だとすると、 やはりボンドや糊は使われていないに違いない。だが油断はできない。 なにしろ一ミリの狂いもなく並べられているのだ。相当几帳面な奴がや ったか、あるいは機械を使ったのかもしれない。 俺は左側の壁を調べるため、またかがみこんだ。今度は一つ一つでは なく、いくつかまとめて見ていくことにする。 どこか、他と変わった所はないか。おかしな所はないか。あれば、そ こには何かしら意味がある。そのサイコロが実は隠し扉を開くスイッチ だという可能性だってないわけじゃない。だが、相変わらず小さな正方 形は、みんな同じように整列している。 途中まで見て、飽き飽きしてきた。几帳面な奴か機械の仕業だったら、 いくら見ても無駄なことだ。 俺は立ち上がり、眉間をもんだ。 かかっている力が上下方向だけだとしたら、横の向きには簡単にずら せそうなものだ。そんなことはもう何度もやってみたが、びくともしな かった。ということは、左右からも力がかかっているのか? おそらく、 サイコロの表面同士が接しているから、摩擦力のために動かないのだろ う。すると残るはこちら側に引くことだけだ。だがそのためには、どこ かに他より出っ張った部分が必要だ。 堂々巡りだ。 どのくらいたったのだろう。一時間半か、それとも三時間か。わずか 数時間前の何の変哲もない平凡な生活が、今はひどくなつかしく思える。 駅を出て長い坂を、ああ疲れる、なんとかならないもんかな、と心の中 で不満を言いながらのぼって、大学に着いて、閉じようとするまぶたを 必死に開けて眠い授業に耐え、休み時間になれば友達とどうということ もない話をする。本当は今頃そうしていたはずだ。 これが夢であってくれたならどんなにいいか。そうではないことは痛 むほっぺが証明している。何度もつねったので、ひりひりする。 これから、どうしようか。いや、どうすることもできない。俺はやけ くそになって、壁を蹴った。 何か、細い物があれば。つまようじか、針か。だがそんなものは持っ ていない。やはり、自分の爪を使うしかない。俺は再び隙間に爪をくい こませた。もうそれしか方法が残っていないのだ。今度はあきらめるわ けにはいかない。 長い時間格闘した。三分か、五分か。もうだめだと思ったその時、確 かな手応えがあった。わずかに、ほんのわずかにこちらに出てきた。 「うううっ」 歯の間からうめき声をもらしながら、俺は引っ張り続けた。ついにそ れは、すっぽりと抜けた。 「や、やった!」 思わず口に出した。小さな四角い穴の向こうにサイコロが見える。今 度は喜びのために心臓が早鐘を打ち始めた。 ほじくり出すようにして、一つ上のサイコロを抜いた。やはり接着剤 は使われていなかったのだ。次には左を。そして右を。 穴が徐々に広がってくる。ついに均衡がくずれ、小さな物達は俺に向 かって流れ始めた。角張ったのが大量に頭に降り注ぐと、さすがに痛か った。 だが、すぐにそんなに甘いものではないことに気づき、愕然とした。 くずれたのは、手前の層一枚分だけだ。俺は再び隙間に爪をくいこませ、 同じ作業を始めた。額に浮かんだ汗が流れ落ちた。 「痛い!」 慌てて右手の人差し指を目の前にもってくると、先の方の爪と肉がは がれたらしく、血がにじんでいた。しかし、やめるわけにはいかない。 俺は左手で作業を続けた。 ようやく、そのサイコロも抜けた。再び穴を広げる。 二枚目の層が壊れた時、先ほどとは違う結果が現れた。見上げると、 より多くのサイコロがくずれたようで、上端に一部斜めになった部分が できていた。 長い時間をかけて、少しずつ壁をくずしていった。爪が折れたら、他 の指と交代して続けた。サイコロが降ってくるたびに、疲労と反比例し て喜びが増していった。 ついに傾斜の下端に手が届いた。俺はものすごい勢いでかき落とし始 めた。 足が埋まってきた。俺は出来た傾斜をのぼりながら、さらにサイコロ をくずしていった。すさまじい音をたてながら雪崩のように落ちていく。 もうすぐだ。もうすぐ外に出られる。上がったら、ここがどんな場所な のか見てやろう。案外サイコロの生産工場か何かで、俺はその集積場に 迷い込んだだけなのかもしれない。あるいはやはりこれは夢で、上がっ た途端にさめて、横で目覚し時計が鳴っているかもしれない。 上辺に手が届いた。もしもすべり落ちて、底に逆戻りしたらと思うと、 恐怖が一気に湧き出して俺は猛烈な勢いで上がった。 やった、やったぞ。俺は意味不明がもたらす恐怖の世界から抜け出し たのだ。四つんばいの格好で、まるで完走したマラソン選手のように荒 い息をはく。 が、しかし、顔を上げた途端その喜びは風船が割れるように消え去っ た。俺は呆然として立ち上がった。なんだこれは。こんなバカな。そん な言葉は浮かばなかった。頭が空白になった。 どこを向いても、途方もない数のサイコロが地面を形作り、地平線が 沈黙したまま丸く広がっていた。 <了>
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