短編 #1227の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
■黄昏(たそがれ)の記憶 已岬佳泰 私が三つか四つくらいの小さい頃、母は私を連れて毎日のように 多摩川に出かけました。多摩川の岸には大きな電車の駅があって、 電車は急行でも快速でも必ずそこに停まるんです。それを少し離れ た橋のたもとからじっと見ていました。 薄暗い夕方どき。毎日です。ただ見つめているだけなんです。そ して、家に帰ります。それだけ。 はじめは「母はよっぽど電車が好きなんだ」くらいにしか思って いませんでした。でも漠然と「なんだか普通じゃないなあ」とは思 っていました。 橋のたもとに小さな駄菓子屋があって、四角いねずみ色の缶には 水飴が入っていました。わたしは電車を見るのに飽きると、水飴の 缶を見ていました。大抵は蓋がしてあって、中味は見えません。 でも、たまに蓋が開いていることがあったんです。金色の水飴が、 電球に照らされて光るんです。表面がなめらかで、飴とは思えない ほどの神々しさがありました。 それをじっと見ている脇で、母は電車を見ていたように思います。 母にとって電車にはきっと意味があったのだと気づいたのは、ず っと後でした。 それはある夕方のこと。母はいつものように私を連れて、多摩川 縁へ出かけました。蒸し暑い夏の夕方で、二人とも浴衣姿だったと 思います。いつものように橋のたもとから駅の方をながめるのかな、 と思っていたら、その日に限って駅の中に入ったんです。 長い階段を上ってプラットホームに出ました。「ああ、今日は電 車に乗せてくれるのかな」と期待しました。 でもホームに上がると周りを見回しただけで、次々とやってくる 電車には乗ろうともしません。 プラットホームには、たくさんの人がいました。みんな電車を待 っているのかと思ったら、違うんです。半分くらいの人は電車では なくて、反対側を見ていました。ホームの鉄柵に掴まって多摩川の 下流の方を見ているんです。 どうしてだと思いますか? ええ、そうなんです。 十五年も前のことなのによく覚えています。誰かが川に落ちたん です。みんなは多摩川の川面を見て騒いでいました。もっとも、そ の時は私にはそれがなんだったのか、さっぱり分からなかったんで すけど。 人がたくさん騒いでいて、母は川をちらっと見ただけでした。 小さな船が出ていて、黒い水面をまるで水すましのように動き回 っていました。私もつられるように、その黒い船を熱心に見ていま した。私には黒い船がカムパネルラを探しているように思えたんで す。 宮沢賢治の童話、銀河鉄道の夜。 そのころ読んでいたのかもしれません。私の気分はジョバンヌで した。銀色の電車は次から次に来ては停まり、そして私たち母子を 置いて、出て行きました。 どのくらい経ってからでしょうか。なんだか少し風が吹いたよう な気がしました。さーっと私の背中のあたりです。 見上げると母の様子が変でした。ホームの照明が母の目に反射し てキラキラ光っていました。 私は父を知りません。 物心ついたときにはもう母と二人暮らしでした。母は何も言って くれませんが、何かの事情があって父とはいっしょになれなかった んじゃないかと思います。母が私を毎日のように多摩川に連れてい ったのは、私に電車を見せるためではなくて、じつはその電車に乗 っていた父に私を見せに行ってたのではないか。 いまふり返るとそんな風に思えます。そして、あの夜を最後に母 は多摩川縁に行かなくなりました。 たぶんあの時、私が黒い船や人が溺れた騒ぎに気を取られている うちに、母は父に会ったのだと思います。私が風を感じて振り返っ たら、母はちょうど走り出した電車を見ながら、泣いていましたか ら。 走り去る電車が銀河鉄道に見えました。 わたしたち親子は銀河鉄道に乗せてもらえなかった。子供心にそ んなことを思っていました。 母は無念そうに唇をかんだまま、しばらく立ちつくしていました。 それから急に黙って私の手を引くと、ずんずんと家に帰りました。 私にはとってもいい匂いの記憶があります。匂いの記憶なんて変 でしょう。でもあのときに確かにいい匂いを嗅ぎました。私の背中 で風が吹いたような気がしたときです。 何とも言えない香りでした。めったに泣かなかった母の水飴のよ うにキラキラ光る涙とそのいい匂いは、あれからずっと私のどこか に残っていました。 似たような匂いは何度か嗅ぎました。でも微妙に違うんです。た ぶんコロンだったのだろうと思うのですけど、きっと少しだけ体臭 が混じっていたのかもしれません。だから独特の匂いになっていた。 それは私にとってずっと父の匂いでした。幼いころからのかすか な憧れと根深い憎悪の対象です。ですから、あなたに抱き寄せられ たときには、びっくりしました。 もう忘れかけていたその匂いを急にはっきりと思い出したのです。 母はあの後、めっきり老い込みました。 ひどくショックを受けているようでした。口数も少ないまま、と うとう三年前に病死しました。最後まで私に父のことは話してくれ ないまま。ですから私には会いたくても、父を探す手段はありませ んでした。かすかな黄昏時のあの匂いの記憶しか。 このナイフですか。 これは亡くなった母の形見なのです。いつか父に出会うことがあ ったら、このナイフで母の失意を晴らしてあげようと思っていまし た。 あれから三年、待ちました。やっとその日が来て、本当に嬉しい です。 それじゃ・・・さよなら、父さん。 (了)
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