短編 #1170の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
私共は、普通文字の文章を点字に直すことを「点訳」といい、点字の文章をそのま ま点字で書き写すことを「点写」と呼んで区別している。いずれにしても、大層時間 と労力を要する作業で、四百字詰め原稿用紙3枚が、ほぼ点字用紙4頁になり、順調 に点訳がはかどっても1時間以上かかるから、書籍1冊を点字で書き写すには相当の 覚悟がいる。いにしえの人たちが行った手書きの写本や写経に似ているが、毛筆に比 べて点字は機械的だから、それが長所でもあり短所にもなる。 名古屋盲学校の文集『あしおと』第25号を、パソコン入力により点写した。ほと んど1日中キーボードを叩いていて、178頁を点写するのに五日かかった。 下に載せる文章は、私が説明代わりに書き加えた『点写に当たって』、および、私 の掲載原稿『変わり行く母校に思う』である。前者は昨夜書いた物だが、後者は27 年前の物を修正せずにそのままUPさせていただく。 両者を比較してみて、ほんの少しばかり良くなっているようでもあるが、ほとんど 進歩していないようでもある。 同様のことは生徒の作文にも見られ、高校生になってからの性格や雰囲気や物の考 え方が、既に小学生の頃の文章の中に色濃く出ているのに驚かされる。 彼らの大部分は、私が学級担任または教科担任を受け持った生徒なので、懐かしさ と愛情が沸々とわき上がってきた。 点写に当たって 荷物の整理をしていたら、『あしおと」25号の点字版が出てきた。ずいぶん古び た本で紙も変質しているが、捨てるのは惜しく、パソコン入力で点写してから廃棄す ることにした。昔はパソコンが無かったから、『あしおと』は生徒の手作りによる亜 鉛版印刷である。従って、点字の間違いや書式の乱れが甚だしく、今回の点写(入力) に当たっては、若干手直しした所もある。著作権を云々するならば、墨字(普通文字) の原本と照らし合わせる必要もあろうが、読むだけなら、原作の文意や雰囲気は全く 変更していないから、原文そのものと思っていただいて差し支えない。 思い起こせば、『あしおと』が愛知県立名古屋盲学校の文集としてスタートしたの は、わたしが高等部に在学中の時だった。それより前、文集の名前を校内で募集した ところ、寄せられた候補名の一覧が確か点字用紙3頁にもなったのを覚えている。そ れを各クラスに持ち帰って検討した結果、『足跡』というのが第一位になったが、足 跡よりも足音の方が良かろうということで、その名が採用されて今日に至っている。 本書第25号は、今から27年前、わたしが母校に転勤してきて最初の年度の号で あり、わたしの原稿も掲載されている。懐かしい教え子たちの文章が次々と現れて、 わたしはおとぎの世界に入っていった。 [1999年(平成11年)1月27日 点写完了] 変わり行く母校に思う わたしが本校に入学したのは、昭和19年の4月でした。当時、校舎は中区宮前町 にあって、こじんまりと落ちついた雰囲気の、伝統を秘めたゆかしい学園でした。旧 制度に基づく、初等部六カ年・中等部鍼按課四カ年とはいえ、子供心にも気の遠くな るような長い年月に思われました。それでも、日々平穏な学業や寄宿舎生活を続けて いれば、何時かは自然に卒業の日が来て、難なく一人前のあん摩師に成れるものと信 じていました。まさか戦争のために平和な学園が無惨にかき乱されようなどとは、思 いも寄らないことでした。 忘れもしない6月、本土は大空襲に見回れ、ついに学校疎開のため長期休校のやむ なきに至り、入学後僅か二ヶ月版で学びやを離れ、それでも懐かしい故郷へ、長年病 床に在る優しい母の元へ帰りました。 10月末になって、尾張一宮の中学校(今の一宮高校)の一部を借りて、曲がりな りにも授業が開始されましたが、それは実に惨めでした。寄宿舎の食事は豆かすと代 用食ばかり…、教室と舎室は兼用…、授業中も再三に渡る空襲警報の度に粗末な防空 壕に避難しました。1日中じめじめした壕の中でしゃがんだまま恐ろしさに震えてい たこともあります。真夜中にたたき起こされて、冷たい運動場を裸足で逃げたり、蒸 し暑い夏には、蚊の大群に悩まされつつ避難を繰り返しました。 ついに翌年の6月には二度目の休校となりました。もっと安全な田舎へ疎開しなけ ればならなくなったからです。休校の知らせを聴いて、生徒たちは躍り上がって喜ん だものですが、それほど当時の学校生活は不安の連続だったのです。 8月の終戦を迎えた時には、宮前町の学校も一宮の仮校舎もすっかり焼けてしまい、 僅かにピアノ1台が残っただけでした。人々は戦争に疲れた体を励まして必死に生き ていかねばなりませんでした。日本国民を支えてきた軍国思想は根こそぎ覆されまし た。 その年の暮れには、津島中学(今の津島高校)の一部を借りて、新しい民主教育の 理念の元に、やっと授業が始められましたが、しかし、それはなんと悲惨だったこと でしょう! 今思い起こすと、息苦しくなるような辛く悲しい毎日でした。戦後の食 糧難と不十分な設備、そして人身のすさんだ中で、わたしのように他人から好かれな い質の子供が、どんな寮生活を強いられたか想像してみてください。持ち物は盗まれ、 上級生にはいじめられ、栄養失調と虱のために皮膚病や腫れ物でいつも悩まされまし た。食事時になると、寄宿社生たちは、箸箱をガチャガチャ鳴らしながら廊下で待っ ていて、ご飯の鈴の鳴るより早く、我がちに食堂へなだれ込み、大きそうなドンブリ を捜して座ります。朝は甘酒のような雑炊にかぼちゃの葉やキュウリの葉がどっさり 炊き込まれています。昼は小粒でえぐいじゃがいもが10個ほどあるだけ、夜は大抵 薄っぺらな2枚の団子汁(すいとん)……。腹ぺこでも、店は遠いし小使い銭が無い。 寄ると触ると食べ物の話しばかりで、たまに郷里から食料を持ってきてもらっても、 悪い上級生が半ば脅すようにして取り上げてしまいます。冬になると、枯れ葉や小枝 を拾い集め、ひどい時はよその塀を壊してきてバケツでくべて、やっと暖をとりまし た。 こうした不自由の中にも、思いやり深い先生や上級生の親切を、わたしは忘れるこ とができません。教科書や点字紙さえ満足に無い中で、それでも徐々に改善されつつ 3年半が過ぎました。 待ちに待った新校舎が完成し、現在の千種ケ丘に移ったのは、小学6年生の春でし た。舎室は8、掘っ立て小屋のような炊事場があるだけで、廊下にテーブルを並べて ご飯を食べました。洗面所とては、中庭にポンプ井戸が一つあるだけで、上級生が順 番にみんなの洗面器に水を汲んで手渡ししました。教室は10室ほどしかなく、実技 はおおむね舎室で行いましたが、なにしろこれが本当に自分たちの校舎だと思うと、 ありがたくてありがたくてなりませんでした。運動場はゴツゴツの石と穴ぼこだらけ で、草が背丈よりも高く一面に伸びていて、授業もそこそこに連日屋外作業でした。 けれども、ときに釘やガラスで足を痛めることはあっても、毎日野球のできる広い校 庭があるので満足でした。 高等部に入ってからの5年間は、家庭の都合でずっと苦学しました。その頃のわた しの生活は、人生における第二の暗黒時代と呼ぶことができます。朝早く学校に来て、 夜は遅くまで治療に歩きました。極めて旧いしきたりと封建的徒弟関係の下で、潤い のない住み込みアルバイトが続きました。忍耐と倹約の中で、いかにして疲労と睡魔 を克服し、仕事と学問を両立させるかが、日々の課題でした。歯を食いしばり悔し涙 を押さえつつ、今にきっと幸せが訪れることを信じていました。 無事本校を卒業させていただき、東京で2年、札幌で11年を過ごし、昨年春から 久々に母校へ帰ってきてみて、しみじみ昔を思い出しています。今日ともかくもこの 平和な町に住み、立派になった母校を眺めていると、本当に世の中は予想も付かない 方向へ常に変わっていくものだと痛感させられます。 本校の歴史にこと寄せて、わたしの苦労話を長々と書いてきましたが、人生誰しも 苦難は付き物ですから、ことさら大げさにいうほどのことはなかったかもしれません。 そこで、わたしの言いたいことを次の二つに搾ってみました。 1 めまぐるしく移り変わる世の中に、無理なく対処できる柔軟性を身につけたい。 2 同時に、いかなる変化にも惑わされない確固たる信念、例えば、善悪の判断基 準とか、人類理想の姿といったような不変の真理を体得したい。 揺るがぬ真理と柔軟性、それはわたしなどの遠く及ばぬ境地ではありますが、日々 努力だけは続けていきたいと思っています。
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