短編 #1156の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
今、純子の右頬を一筋の涙が伝った。 隣に収まっていた相羽がすっくと立ち上がると、スプリングの効いたクッシ ョンが元に戻る。幾分機械的な動作で壁際に寄り、ドアの脇にあるスイッチを 押した。瞬く間に部屋に明かりが戻る。 引き返す足取りはとてもゆっくりで、クッションに腰掛ける寸前にポケット からハンカチを取り出した。ブルーの布地のそれはきれいに折り畳まれている。 「純子ちゃん」 「……やだ、私、泣いてた? あ、ありがと」 言葉をつかえさせながらも純子はハンカチを受け取り、右の頬や目尻に当て た。顔を傾けた拍子に、左の頬にも濡れた跡ができた。 「ごめんなさい。感動しちゃったみたい。こんなの、初めて」 鼻をくすんくすんとさせつつ、純子。涙の流れた道は朝露みたいにもうほと んど判然としない。 「相羽君は何とも?」 「そんなことないよ。とてもよかった」 言ってから自嘲的に笑う相羽。「一緒になって泣くわけにいかないでしょ」 と付け加えた。 〜 〜 〜 母の歓迎の言葉のあと、純子は隣の相羽の横顔を見つめた。 「あ、そうなんですか」 ソファに収まりながら落ち着かない様子の相羽の目と口元は、どう返事して いいのか戸惑っている。 「ほっとしたんじゃない?」 にんまりする純子。同級生の顔を改めて覗き込んだ。 「お父さん、忘年会でいないんだって」 「……緊張感は少し和らいだかも」 小声で答えた相羽に、純子は母と目を見合わせて苦笑いした。そっくりの形 に目を細める。 「とりあえず、くつろいでいてね」 歓迎姿勢の純子の母が、白いテーブルに背の高いグラスを二つ置いた。色と 薫りから、ホットレモネードらしい。さらにスナック菓子がバスケットにひと 盛り。もしも全部食べたら夕飯が入らなくなるに違いないほどの量だ。 「純子もくつろいでなさい。手伝わなくていいから」 甘えることにした。 〜 〜 〜 純子と相羽は食事の準備が整うまでの間、テレビドラマを観て待つことにし た。三十分作品だったが、クリスマスイブにふさわしい、心温まる内容に仕上 がっていた。 純子の目が潤んできたのがいつの時点だったかはっきりしない。終わったと きに、表面張力の限界に達したようにぽろろっとこぼれ落ちた。 「男の子だから、泣いてるのを見られるのって恥ずかしい?」 畳んだハンカチを返しながら、照れ隠しもあって元気よく尋ねる。 「それもあるけど」 相羽はテーブルのコップに手を伸ばし、喉を潤した。レモンの薫りがわずか ながら広がる。 純子は次の言葉を待っていたが、なかったので自ら口を開く。 「ひょっとして、友達の中であなたの泣いてるところを見たことあるの、誰も いないんじゃない?」 涙が収まってきた純子は冷静に質問を発した。ただし、鼻声だ。 「いや」 間を取ることなく、きっぱりと否定する相羽。 「君に見られた」 「……あっ、あれね」 思い出した。 話をこのまま続けていいのかどうか、ためらう。さらっと触れる程度ならい いだろうか。 「人前で泣いたのはあのときだけ?」 「かもね。よく覚えてないよ。ここに越してきてからは、何となく、泣かない ように心に決めてた」 これ以上は打ち切るべき。純子は口をつぐんで待った。 「それよりも純子ちゃんこそ、よく泣くじゃない」 「い、今のはドラマに感動しただけで、泣き虫とは違う」 テレビはコマーシャルがちょうど終わり、次の番組に入ったところだ。純子 はリモコンを取り上げ、電源をオフにした。 「クリスマスらしい話だったし、気分出すために暗くしたのも原因の一つよ。 それに私、人前じゃあ滅多に泣かないわ」 「そうかなあ? 何度も見てる。見舞いに来てくれたとき、いきなり泣いたの にはびっくりしたっけ」 「あれは……」 返事に詰まる純子へ、相羽はおかしそうに事例を列挙し続けた。 純子は相手の口を押さえようか、自分の耳を塞ごうかを迷った。 「あーん、もうやめっ。何でクリスマスに泣く話をしなきゃいけないのよ」 自分の両耳を手で押さえながら短く叫ぶと、とにかく立ち上がる。 「遅いなぁ。私、やっぱり手伝ってくるわ」 部屋を出るための理由として、母親の料理の手伝いを持ち出した。が、その 直後に声が聞こえた。 「お待たせ、できたわよ」 扉が開いて、純子は母親とご対面となった。 涼原家で食事中にテレビを入れることは珍しくない。 しかし、今夜ばかりは明白な理由があってそうしている。つまり、会話が途 切れたときに備えて。娘の同級生、しかも男の子を交えての食事となれば、そ の可能性は少なからずあるだろう。 現在流れているのはニュースだった。歌番組のランキング発表みたくにぎに ぎしく今年の十大事件をやっている。 「相羽君は?」 「はい?」 話を振られた相羽は背もたれから背中を離し、目をぱちくりさせた。箸で挟 んだばかりの唐揚げをどうしようか、途方に暮れた様子。 右隣に座る純子は御飯茶碗を置くと、ブラウン管を指差してから続ける。 「あなた個人の今年の十大事件は?って聞いたの。まあ、十大は多すぎるかな。 三つぐらい」 相羽は口をもぐもぐさせ、考え込む風に首を傾けた。まだ場の空気に馴染め ないらしく、ぎこちない手つきで湯呑みを取ると、お茶を飲むのにかこつけて 純子を促す。 「先に涼原さんのを聞きたい」 母も「私も知りたいなあ」とのんきな口ぶりで同調。 「私? そうねえ、たくさんあって事欠かないから。逆に、三つに絞り込むの が大変なくらいよ」 記憶を手繰る純子。 「西崎さん達のことは、ああ、去年なのね。それじゃあ……コマーシャルでテ レビに出たでしょ、歌手デビュー、それからあまり思い出したくないけれども 林間学校のこと」 「芸能活動が二つ、か」 嘆息した相羽。母もまた、つまらなさそうにしている。 「当たり前すぎる答よね。確かに大事件だったのは認めるけれど」 「何よー、二人して人のことを。ご不満?」 「うーん、そういうのを抜きにしてさ。何て言えばいいのか……日常の出来事 の中で何が印象に残ってるのかなと思った」 「それはもう、みんなであちこち出かけたこと! お花見や遊園地に、ラーメ ン屋さんにまで行ったわよねえ」 純子がある意味を込めて微笑むと、案内役を務めた相羽は肩をすくめた。 「相羽君は何?」 「林間学校のことが一番記憶に残ってる」 「そう言えば、純子が迷惑を掛けたとか。本当に悪かったわねえ」 思い出す風に純子の母が言った。お礼は夏の時点でちゃんとしているが、あ れは電話口でのことだった。こうして直接会って話すのは初めて。 「元をただせば僕の責任ですから……すみませんでした」 まるで悪戯をして叱られた犬みたいにうなだれた相羽。オリエンテーリング の最中に時計を落としたことを指して言っているのだろう。 「まあまあ、そんな風に考えてたなんて」 純子の母は笑顔で驚いていた。 「全然気にしなくていいのよ。うちの娘が慌て者なのが悪かったんだから」 「私も悪かったのは認めるけれど、慌て者はひどい。あれは天気が崩れそうだ ったし、迷子になりかけていたせいよ」 「蜂に驚いて無茶苦茶な方向に駆け出したのは、事実でしょう。男の子みたい な怪我を負っちゃって……この歳になって心配で目が離せないわ」 「ありがたいことに、身体は丈夫にできています。お母さん達のおかげね」 目の前で親娘のやり取りを展開され、お客さんはしばらく呆気に取られてい た。だが、ほどなくして抑えた声音で吹き出した。 気付いた純子とその母は喋るのをぴたっとやめる。二人が目を向けると、相 羽は幸せそうに相好を崩し、言った。 「あはは。終わったことだし、それぞれ反省してるんだから、もういいじゃな い。ね、涼原さん」 食後すぐに電話したときは、まだ相羽の母は帰宅していなかった。まだ八時 だったから予定通りと言えば予定通り。 九時前に再度の電話を入れたとき、つながった。ちょうど帰って来たところ だったらしく、言葉の交換が慌ただしい。 相羽が「そうなんだ」とか「うん、よくしてもらってる」、あるいは「母さ んの用意してくれた分、手を着けなくてごめんなさい」などと喋っているのが 聞こえてきた。周囲に気を使っているためだろう、小さめの声だ。 それが一際大きくなった。 「いいよ。自転車で来てるんだ。車に載せられない」 これから車で迎えに行くという母親に対して、相羽は自転車があるからと断 った――そんなところに違いない。 「置いといていいのよ。日を改めて取りに来ればいいわ!」 状況を察した純子は、素早く口を挟んだ。大声になったのは致し方あるまい。 (こんな寒い夜に、自転車で送り出せるもんですか!) 「面倒だったら、明日、私が乗って行ってあげるわよ」 下手な演説みたいに捲し立てたのが功を奏したか、相羽は折れた。母親に迎 えに来てくれるよう頼み、送受器を置いた。 「最初から素直になりなさいよね」 「純子ちゃんが言ってくれたからだけじゃないよ。――母さんたら、ご迷惑を 掛けたのだから直接会ってお礼を、だってさ」 果実が熟していくさまにも似て、恥ずかしそうに目元を赤くした相羽は呆れ 口調で伝えてきた。 「とりあえず自転車は置いて行く。ごめんな」 「ちっとも悪くないわよ」 「そ、それじゃ、明日かどうかは分からないけど、近い内に取りに来るから」 「うん」 純子が微笑みながらうなずくのに被さって、母の呼ぶ声がした。 「結局どうなったの? 時間あるんだったらお風呂に入っていく、相羽君?」 「お、お母さん!」 悲鳴のような口調の純子の横で、相羽はため息混じりの苦笑を浮かべていた。 「考えたら、色んなことがあったね」 「今年だけじゃないわ。あなたと出会ってからじゃないかしら? 毎年毎年、 凄いことになってる」 「モデルをやり出してからの間違いでしょ」 「ううん。もしかして夕食のときの話、引きずってるな? あれは訂正しまっ す。みんなと遊べたことはどれもいい思い出よ。お花見や遊園地に行ったり、 文化祭、体育祭、そして問題の林間学校」 「確かに問題の、だね」 「三年生には修学旅行があるのよ。どうなることか、今から心配」 「……行き先はどこなんだろ?」 「さあ。毎年変わってるみたいよ。できれば化石発掘体験なんてできればいい のにね」 「あ、いいねっ。国内にも有望な地層はいくらでもあることだし」 「でも、可能性は低そう。だめだったら、せめて星空がきれいな地方」 「なるほど、君らしいね。――そうだ。金環食のフィルムのことだけど……」 迎えが来るまでの時間を惜しんで話し込んでいた純子と相羽であったが、玄 関の呼び鈴が鳴った。 「来られたかしら」 キッチンにいた純子の母が腰を浮かすが、それに先んじて相羽と純子が駆け 付ける。 「今日はありがとう」 早々と別れの挨拶を始めた相羽に純子が応じようとした、ちょうどそのとき。 ドアの向こうの影がくぐもった口調で言った。 「ただいまあ。おーい、早く開けてくれー。寒くてたまらん」 「――」 相羽の目がまん丸に見開かれている。 純子も両手で口を覆う。その表情には、意表を突かれた驚きが過ぎ去ると笑 みがゆっくり広がっていった。 ――おわり
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